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私たちの住む建物の西側に、明治初年に、写真館を始められて、今では五代目が営業をされておいでの写真館があります。初代は、日光東照宮を警護する役割を担った、日光勤番の武士だったそうです。明治の維新で、職を失った初代は、写真技術を学んで、初めは宇都宮で開業したのですが、県庁が栃木に移ったのを機に、ここ栃木に店を移したのです。
幕末に、日光東照宮を守るために、命をかけて攻めくる薩長の官軍に、勇敢に立ち向かった一人が、この館主の片岡如松さんで、明治維新後、巴波川の河岸で、写真業を始められたのです。日露戦争が勃発して、ここ栃木からも、何人もの兵士が出征して行ったそうです。その兵士の出征記念の写真を、この方が撮影しています。その他にも、栃木の街の様子を、代々受継いだ館主が撮り続けてきました。
明治期に、この街で、社会的な弱者に対して、国家施策としての援助が、今のようになかった明治期に、「喜捨函(きしゃばこ)」という箱をリヤカーに載せて、篤志家が街中の各戸を訪ねて歩いて、紙や布を求めて歩いたようです。その集められた物をお金に換えて、生活に困窮した貧窮者や寡婦や孤児のみなさんに配って支えていた方が、ここ栃木においででした。
初代の片岡如松さんご自分が、戊辰戦争で戦った武士でありましたから、出征兵士の武運長久を願って、精いっぱいにシャッターを切って撮影したのだそうです。この写真館に一様の写真が残されています(片岡写真館蔵)。「栃木婦人協会 喜(七を三つの漢字です)捨函」と木製の箱に墨書された箱を載せて、リヤカーで曳く男性が写っているのです。その方が穏やかな目をした、冒頭の写真の平岩幸吉氏でした。
この平岩幸吉さんは、安政三年(1856年)に、江戸の日本橋の裕福な米問屋の子として生を受けましたが、13才の時の明治維新の激変にあって、家業がつぶれてしまいます。その変化について行かれずに 、生活が定まらずにいて,とうとう23歳で家を追い出されてしまいます。それで知り合いのいる,ここ栃木に移ったのです。心を入れ替えた幸吉は、巴波川の辺りで料亭を始めます。
商売は順調で、39才の時に結婚をし、養子をとります。落ち着いた44才で塾に通い、学問をし始めるのです。塾頭の久松義典から、「窮民救護」の考えを学び、その教えを実践し,救済団体を興し、栃木婦人協会も興すのです。あの「喜捨函」のリヤカーを曳いて、遠くまで出掛けるようになるのです。
明治22年になると、両毛線が開通すると、それまで盛況だった舟運が斜陽になって、栃木の町の景気が悪くなり、病気をしても医者に診てもらえない人や老人や寡婦などの生活が急に悪化して、問題が生じ始めたのです。そこでやち上がって,困窮者を助け始めたのです。郷土栃木の誇る逸材の一人が,弱者救済に奔走したにが、この平岩幸吉です。この写真を撮られた方から五代目の後継者が,私たちのラジオ体操仲間です。昨秋,岩魚を釣られて届けてくださいました。美味しかったのです。