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子育ての終わり頃、たまに行く街に食堂で、そこの店主から、『先日、息子さんが見えましたよ!』と言われたのです。友人と連れ立って来たと言われ、『どうして息子だと分かったんですか?』と聞きますと、『よく似てらっしゃるので!』とのことでした。また娘たちも、よく似ていると言われます。親子とは、それほどに似るものでしょうか。
家内によると、表情や仕草、走り方まで似ているのだそうです。すると欠点まで似てしまうのでしょうか。両親の良い点も、そうでない点も受け継ぐと言うのは、致し方ないことで、血縁の契りなのでしょうか。下の息子が、頭髪が薄くなっていく父親の頭を見ながら、将来の自分を危ぶんだのでしょうか、気にして、養毛剤をつけているようだったのを思い出します。
私の父は、明治の終わりに、軍都横須賀で生まれ、父なりの出自(しゅつじ)を誇ったり、けっこう個人的なことを話して聞かしてくれたのです。今月で、生誕116年になります。残念なことは、私たちの4人の子どもたちは、もちろん孫たちも、自分たちの祖父も曽祖父も知りません。私たちの結婚式に出席してから、間もなく召されてしまったからです。61才は短すぎる生涯でしたが、厳しい人生を生き抜いて、今は、主なる神さまのもとで、安息の中にあるのでしょう。
『準は、髭を生やしたら俺の親爺にそっくりだ!』と、何度か父に言われて育ちました。明治20年代に生まれて育った〈明治男〉に似ていると言われて、つくづく鏡で自分の顔を見たものです。でも想像もつかない祖父の面影を受け継いだ自分と、血の繋がりがあって生まれたきているわけです。これを「隔世遺伝」というのでしょうか。
母は、母で『準ちゃんは私に似てる!』とも言っていましたから、父の良い点もそうでない点も、そして母のそう言った点をも受け継いで生きているに違いありません。そうすますと、比べようがありませんが、祖祖父母にも似ていることでしょう。血筋のつながりは、やはり強いのでしょうか。それで、「当たり」と「ハズレ(外れ)」があると言うのでしょうか。当たったことに感謝するばかりです。
『わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民あなたのいのちの代わりにするのだ。 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。(新改訳聖書 イザヤ43章3~5節)』
そう聖書の記事の中にあります。真に自分の「高価さ」、「尊厳」を知ったら、ありのままを肯定して生きていけます。《マザコン!》と、からかわれたことが、次男にあったのです。それで母親離れをしたくて、一緒に歩きたい母親に、『あっちに行って!』と言ってしまったそうです。そのことを知った姉たちに、こっぴどく叱られていたことがあったのです。
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それも成長期の「通過儀礼」なのでしょうか。母親が病んで、入院して治療を受けた時、彼は、とても優しく接していたのです。年老いた母親の術後に、浅草の銘菓の草餅や、小麦粉無使用のクッキーを買って、やって来るのです。ネットで、『CBDオイルがいいから!』と言って、注文して、ずっと送ってくれていました。オヤジの私にも、同じ様に気遣ってくれているのです。昨日も、ブログ作成機能の不具合を直しに、新宿から直通特急で来てくれました。
人には様々な過去と背景があって、それを取扱われながら大人になっていくのでしょう。同じ母の子でも母に対する思いは、兄弟でも四人四様です。もう今になると、遠くにいる娘たちは、気を揉んで、あれをして、これをしてと、よくい言ってきます。上の息子は、ブラッとやってきて、母親を買い物に連れ出してくれます。
私の読んできた聖書には、『あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章26節)」とあります。
よく育ててくれたと、歳をとるに従って、私も二親への感謝が、今でも強く思い出されまいります。今や年老いた私たちにも、その様に、子どもたちが心配りをしてくれています。まさに《子は鎹(かすがい)》であって、自分の二親にとっても、そうであったと思いますし、私たちにとっての四人は、まさに《鎹》なのです。
父は母親の味方で、悪口を言ったことがありませんでした。母も同じでした。厳しかった父親を非難めいて、私が言うと、『準ちゃんは、そう言うけど、お父さんはいい人なのよ!』と、常にそう言う母だったのです。
男の子は父親を超えていかなければならないので、「通過儀礼」のように、それまで、なんでもできる父親への英雄視の思いがあったのに、成長と同時に、父親の欠点が見えてきて、色々と批評の思いが強くなる時期がくるのだそうです。自立への道筋なのでしょう。社会性が育っていく過程を通って、大人になるのです。そして、自分のアイデンティティが確立してくると、今度は、欠点は見えなくなって感謝ばかりが戻ってくるのです。
天井裏に上るのが、私は好きで、中学の木造校舎や、庄屋さんをしていたと言う農家の天井裏に上がって見たことがありました。古建築の屋根裏は、木と木を組み合わせるための緻密な木工技術が見られ、それに驚かされたのです。曲がった自然木の小屋梁(こやはり)に、鑿(のみ)で、《ホゾ穴》を彫り、そこに刻んだ間柱をはめ込んで、屋根を支えてありました。
鎹(かすがい)を、そこに見つけることはなかったのです。よく見ますと、200年も経つのに、一ミリの狂いも隙間もなく、木材が組み合わされてあったのです。コンピューターも電動工具などなない時代、伝来の道具を巧みに使って、それほど正確に仕事をこなしていたわけです。
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自分の人生を振り返って、どんな構造に仕上がっているのか思い巡らす必要がありそうです。そこかしこに、《ホゾ穴》が彫られたり、《鎹》が打ち込まれてありそうです。以前、掛かり付けの町医者に勧められて、MRI検査を大きな病院に行って撮影してもらたことがありました。初めての様な、強い頭痛があったので、念のための検査を願った時でした。ドームの中で、ヘッドフォンから流れる曲を打ち消してしまう様に、ガンガンという音を聞かされながら、多くの人のことを思い返していました。
出会ったみなさんは、私の組み立てに、また修繕に必要な方たちだったと思わされ、特別に両親に感謝したのです。今も同じ思いです。荒削りの原木を、用に間に合うものに、切り、削り、組み合わせた作業で、あの農家が建てられ、長く用いられてきたように、用に足る人となるために、切り込めれ、削られ、嵌められて今があり、完成への途上にあっての今なのでしょう。
『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです(1ヨハネ3章2節)』
キリストに似た者にされるために、至難の業を、聖霊が、私になし続けておいでなのです。やがて完成される時が来るのです。それまで、まだもう少し時間がかかりそうです。
(“いらすとや”の両親、”ある信徒“さんのイラストです)
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