華々しい春の花々

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石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

 志貴皇子(しきのみこと)の詠んだ歌です。「石」と書いて、「いわ」と読むのだそうです。飛鳥時代の若者の瑞々しい感性が躍動している和歌です。春を迎えた喜びが溢れていている和歌を詠んだ、この皇子は、天智天皇の第七皇子で、母親は采女で、本妻の子ではなかったのです。でも、この皇子の子が、天皇に就いています。

 皇位継承は、いつの世も同じなのでしょう、さまざまな思惑や駆け引きがあって、一筋縄には行かなかったようです。会社でも団体でも同じなのでしょう。そういった争いがあるのが、この社会に現実なのでしょうか。

 産みの母を奪われて、継母に育てられたり、他所にやられたり、とかくこの世は住みにくいようです。人生にも春の訪れがあるのでしょう。病んだり、怪我を開いたり、失敗したり、転んだりする人の世ですが、慰めや励ましだってあります。やがて永遠の御国がやって来て、栄光の只中で生きられるのです。

 春は、やはり春のなのです。孫息子はアルバイト中、孫娘が、今春短大に進学します。外孫の二人は、カンボジアに2週間ほどの予定で、家族で出掛けて、“ clean water project ” という名で奉仕を展開中だと知らせてくれました。そのブノンペン郊外の街には、どんな花が咲いていることでしょうか。

 人生の春を、そんな風に過ごしている孫たちですが、人生の秋を迎えている私たちは、ただ目を細めて、遠く近くに、それを眺めて、応援の無言の声を、心の中で上げています。隣家のご婦人が、庭に咲いた春花を手折ってくださり、テーブルの上に置いています。

 広い庭をお持ちのご婦人から頂いた、六瓣(べん)の「ダビデの星」が開いたのです。「六芒星(ヘキサグラム)」のダビデ王の紋章に似ているので、そう命名されたようです。なんだかパレスチナの地に咲いていそうな、そんな雰囲気がして参ります。春はいいな、の三月末の朝です。

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事実と真実の違いってもの

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『真実と事実の違いってものが、心を鍛えるんだよ!』、これは人生訓の一つなのだそうです。渥美清のお弟子さんが、そう師匠から教えられたのだそうです。高校を出たてで、渥美清の身の回りの世話係になった芦川一氏が、5年間の弟子期間に学んだことの一つなのです。そう彼の著書「寅さんから学んだ大切なこと」に書かれてありました。

 師匠に、時計の修理をたのまれて、都内の老舗のデパートに出掛けたのです。師匠が、松竹映画の会社から贈呈された、金の置き時計でした。新聞紙に包まれた物を、小脇に抱えて入店したのです。高級デパートの客にしては似つかわしくない様相の青年を見て、怪訝な顔をされたそうです。でもお客ですから、時計売り場に行きます。

 店員さんに、『知人に頼まれて、時計の修理をお願いしたくて来ました。』と告げると、ここでも怪訝な顔をされます。新聞紙に包まれていたのが、高級置き時計であることが分かると、かえって怪しまれてしまいます。ここで、紛れもない「事実」と言うのは、カウンターに置かれている高級時計を持ってきた客がいることです。もちろん、店員さんの目には、客はふさわしからぬ身なりの若者だと言うことなのです。

 店員さんは、奥にいる主任さんに、その接した客の「事実」を伝えたのです。引き返して来た店員さんは、『おそれ入りますが、知人とはどなたでしょうか、お名前をお聞きできますでしょうか!』と聞いてきたので、『渥美清です。』と答えたのです。これが「真実」でした。

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 真実を認めた、時計売り場は、いっぺんに、この青年の待遇を変えたのだそうです。外側の風体が怪しく見えても、真実を知った老舗のデパートは、態度を変えたわけです。そう、人は外側ばかりをみて,値踏みしたり、判断してしまいます。

 ある県警だか府警のお巡りさんは、日柄全国指名手配の犯罪者の顔写真を眺めるのだそうです。それを自分の内に刷り込むようにして時を過ごします。まあ睨めっこをするのでしょうか。それを《見渡り捜査》と言う捜査方法の一つなのだそうです。挙動不審者の中に、直感で、犯罪者を見つけるのだようです。

 若い頃のことです。アルバイトを終えて、牛乳工場から自転車で家に帰る時に、警邏中の警察官に呼び止められました。その日の仕事を終えて、まだ夜明け前の3時頃でした。仕事疲れを覚えていましたし、若者らしく見えなかったのでしょうか、時間帯も早朝で、確か無灯の自転車に乗っていたからです。

 『どこへ行きますか?』と聞かれたので、『◯◯乳業の工場でアルバイトを終えて、家に帰るところです。』と、「事実」を伝えたのです。すると『そうですか、気をつけてお帰りください!』と、ニコリとして返事してくれました。自転車の無灯については何も言わなかったのです。怪しさを感じたのは当然だったわけです。挙動不審だったら、連行されたことでしょう。でも不審者でない、私の「真実」を認めてもらえたので、私は帰宅することができました。

『すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(新改訳聖書 黙示録21章5節)』

 時計売り場の主任さんが、芦川青年を信用できたのは、《渥美清の付き人》と言う「真実」があったからでした。芦川青年の「真実」が明らかになった2分後に、奥の応接室に連れて行かれ、ケーキと紅茶での接待を受けたのです。《寅さんの付き人》の真実の手形は、そんなにケーキに預かれるほどのことなのです。修理を終えた時計は、新聞紙ではなく、上質な布で保護されて、返されたそうです。そう今宵は、人の真実よりも、神さまの「真実」に思いを向けたいものです。

(”ウイキペディア“の京成・柴又駅前の虎さんの像、春の真実です)

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最上のわざ

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「最上のわざ」

楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。

                 ヘルマン・ホイヴェルス

 この作詩者のホイヴェルスは、1890年にドイツのプロイセンで誕生し、37歳の時に来日され、イエズス会の司祭をされ、上智大学の教授、学長や総長をなさった方です。一時、第一高等学校(東京大学教養学部の前身です)で教鞭もとられています。戯曲家でもあり、細川ガラシア夫人を、劇や浪曲に取り上げて,戯曲を書き上げたりされています。

 戦時下に、学徒動員が行われた時,上智大学の学生と一緒に、モッコ(持ち籠〈もちこ〉という言葉の言い回し、土木作業で砂や石を人力で運ぶ道具)を担ぎ、宮城外苑の整地作業にも当たったそうです。

 

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 AI辞書は、次のように記します。『ヘルマン・ホイヴェルス神父の詩「最上のわざ」は、老いや肉体の衰えを神からの贈り物と捉え,人生の最期に「祈り」と言う尊い仕事が残されていると説く愛唱歌です。』

 「祈り」は、人生の集大成のようです。1977年に、東京で亡くなられています。

 私たちの結婚式で、『オメデトウ!おめでとう、お目出度う!』と祝福してくださった、同じ学舎の先輩が、今週くださったお便りの中に、この一編の詩がありました。

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どうしておいででしょうか

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 2019年の正月に、病んだ家内とともに帰国した時に、いつものエコノミー席を予約していたのに、教会の一人の姉妹が、病身の家内を気遣ってくださって、ビジネス席に席替えをしてくださったのです。初めて座り心地の良いゆったりした席に一緒に座って、帰国しました.成田空港では、係の方が車椅子で、家内を席まで出迎えてくださって、通関手続きもスムーズに済ませてくださって、降機させて頂きました。

 その席の並びに、仏僧が座っておいでで、到着まで書類に目を通していたのです。まさに仏キ同座でした。この方に、私たちが名乗る機会がありませんから、耶蘇教だとは分からなかったのです。きっと、日本での学会にご出席で、講演資料を読み直していて、隣席の私たちと目を合わすこともされませんでした。アメリカ帰りですと、会釈や簡単な会話があるのですが、アジア人にはそう言った交わりがないのが、ちょっと寂しかったのです。

 その仏僧を見て、インゲン豆で有名な、黄檗宗(おうばくしゅう)の隠元和尚が、江戸時代の初期に、華南の港から船に乗って、東シナ海を渡って日本の長崎、そして京都に来たことを思い出したのです。二一世紀の仏僧が、船ではなく、飛行機に乗っての日本訪問は、400年の時の隔たりがあるのに気付かされたのです。

 禅宗は、臨済(りんざい)と曹洞(そうとう)で有名ですが、もう一つの一派の黄檗宗(おうばくしゅう)があります。その黄檗宗は、豆だけではなく、茶道も、日本に伝えたと言われています。私たちの住んでいた街の仏教寺院は、ものすごく大きな建物でした。勤めていた大学の横にあって、その偉容に驚かされたのです。宗教はアヘンだと言う思想の中国で、仏教は、独特の立場を持ち続けていました。

 人の心をとらえて離さないものが、「死」です。人には、必ず死が訪れるので、葬儀を担い、慰霊のためにも仏教、仏教寺院を必要としているのです。政治的な脅威を与えないと言う意味で、その存在は、暗黙のうちに、この国では認められているのです。仏装で街中を歩くことが許されていました。ヴェトナムからの語学留学生が、ある年から増えて、教室の三分の一ほどになっていました。彼らも仏装だったのです。次の年にはいなくなってしまいました。国交が突如終わったからでした。

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 ところが、どの宗教も同じですが、その数の多さは、一党独裁の国家には脅威で、共産党に勝る規模や勢力になるのを恐れて、支配と統治のもとに、置かれる必要があります。とくに大集団になるであろうと恐るキリスト教、キリスト教徒の増加は脅威で、どうしても防がなければならないわけです。

『しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。(新改訳聖書 2テモテ4章7節)』

 共産主義教育、毛思想教育を受けてきた子どもたちの間に、キリスト教徒が増え広がることは脅威なのです。家庭での宗教教育、教会につながることを強く恐れて、様々に法的な圧力をかけていました.家庭でのキリスト教育も、教会学校も認めないのです。時々、私の講義の教室に、学生ではない見慣れない方が、担任には無許可で座るようになりました。監視してるよ、と言う圧力でした。

 ところが、青年たちの間で、キリスト信仰は、驚くほどの勢いで増えていました。迫害し、監視しても、互いに禁止し合うように働きかけても、心の深みに入ってしまう信仰は、取り締まりきれないのです。時々招かれてお話をさせていただいた教会の伝道師は、週日は大学の教師でした。穏やかで柔和な方でした。

 その影響力を恐れた委員会から、この方は、ある年度に解雇されたのです。そうしましたら、彼は大喜びされたのです。全時間を、当てられるようになったからです。礼拝のオルガンの奏楽をされる奥さまと小学生のお子さんのお父さまでした。この方と初めてお会いした大学教師の3泊4日の宿泊聖会で、証をさせていただいたのです。200人ほどいたでしょうか、話しを終えた時に、跳んで来られて、強い握手を受けました。

 さらにクリスチャンの教師も学生も多くおいでです。規制され、禁止され、迫害されればされるほどに増え広がるのです。そう言った時を共有できたことをに、誇りと感謝を覚えるのです。どうしておいででしょうか。弁護士や判事なども多くおいでです。商人も会社員も、家庭主婦もおいででした。みなさんが兄弟姉妹の強い絆で結ばれて、教会を形造っておいでなのです。愛兄姉のために祈る必要が、さらにあります。

(“いらすとや”、「ある信徒」さんのイラストです)

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キリストに似た者とされたい

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 子育ての終わり頃、たまに行く街に食堂で、そこの店主から、『先日、息子さんが見えましたよ!』と言われたのです。友人と連れ立って来たと言われ、『どうして息子だと分かったんですか?』と聞きますと、『よく似てらっしゃるので!』とのことでした。また娘たちも、よく似ていると言われます。親子とは、それほどに似るものでしょうか。

 家内によると、表情や仕草、走り方まで似ているのだそうです。すると欠点まで似てしまうのでしょうか。両親の良い点も、そうでない点も受け継ぐと言うのは、致し方ないことで、血縁の契りなのでしょうか。下の息子が、頭髪が薄くなっていく父親の頭を見ながら、将来の自分を危ぶんだのでしょうか、気にして、養毛剤をつけているようだったのを思い出します。

 私の父は、明治の終わりに、軍都横須賀で生まれ、父なりの出自(しゅつじ)を誇ったり、けっこう個人的なことを話して聞かしてくれたのです。今月で、生誕116年になります。残念なことは、私たちの4人の子どもたちは、もちろん孫たちも、自分たちの祖父も曽祖父も知りません。私たちの結婚式に出席してから、間もなく召されてしまったからです。61才は短すぎる生涯でしたが、厳しい人生を生き抜いて、今は、主なる神さまのもとで、安息の中にあるのでしょう。

 『準は、髭を生やしたら俺の親爺にそっくりだ!』と、何度か父に言われて育ちました。明治20年代に生まれて育った〈明治男〉に似ていると言われて、つくづく鏡で自分の顔を見たものです。でも想像もつかない祖父の面影を受け継いだ自分と、血の繋がりがあって生まれたきているわけです。これを「隔世遺伝」というのでしょうか。

 母は、母で『準ちゃんは私に似てる!』とも言っていましたから、父の良い点もそうでない点も、そして母のそう言った点をも受け継いで生きているに違いありません。そうすますと、比べようがありませんが、祖祖父母にも似ていることでしょう。血筋のつながりは、やはり強いのでしょうか。それで、「当たり」と「ハズレ(外れ)」があると言うのでしょうか。当たったことに感謝するばかりです。  

『わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。   わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民あなたのいのちの代わりにするのだ。 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。(新改訳聖書 イザヤ43章3~5節)』

 そう聖書の記事の中にあります。真に自分の「高価さ」、「尊厳」を知ったら、ありのままを肯定して生きていけます。《マザコン!》と、からかわれたことが、次男にあったのです。それで母親離れをしたくて、一緒に歩きたい母親に、『あっちに行って!』と言ってしまったそうです。そのことを知った姉たちに、こっぴどく叱られていたことがあったのです。

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 それも成長期の「通過儀礼」なのでしょうか。母親が病んで、入院して治療を受けた時、彼は、とても優しく接していたのです。年老いた母親の術後に、浅草の銘菓の草餅や、小麦粉無使用のクッキーを買って、やって来るのです。ネットで、『CBDオイルがいいから!』と言って、注文して、ずっと送ってくれていました。オヤジの私にも、同じ様に気遣ってくれているのです。昨日も、ブログ作成機能の不具合を直しに、新宿から直通特急で来てくれました。

 人には様々な過去と背景があって、それを取扱われながら大人になっていくのでしょう。同じ母の子でも母に対する思いは、兄弟でも四人四様です。もう今になると、遠くにいる娘たちは、気を揉んで、あれをして、これをしてと、よくい言ってきます。上の息子は、ブラッとやってきて、母親を買い物に連れ出してくれます。

 私の読んできた聖書には、『あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章26節)」とあります。

 よく育ててくれたと、歳をとるに従って、私も二親への感謝が、今でも強く思い出されまいります。今や年老いた私たちにも、その様に、子どもたちが心配りをしてくれています。まさに《子は鎹(かすがい)》であって、自分の二親にとっても、そうであったと思いますし、私たちにとっての四人は、まさに《鎹》なのです。

 父は母親の味方で、悪口を言ったことがありませんでした。母も同じでした。厳しかった父親を非難めいて、私が言うと、『準ちゃんは、そう言うけど、お父さんはいい人なのよ!』と、常にそう言う母だったのです。

 男の子は父親を超えていかなければならないので、「通過儀礼」のように、それまで、なんでもできる父親への英雄視の思いがあったのに、成長と同時に、父親の欠点が見えてきて、色々と批評の思いが強くなる時期がくるのだそうです。自立への道筋なのでしょう。社会性が育っていく過程を通って、大人になるのです。そして、自分のアイデンティティが確立してくると、今度は、欠点は見えなくなって感謝ばかりが戻ってくるのです。

 天井裏に上るのが、私は好きで、中学の木造校舎や、庄屋さんをしていたと言う農家の天井裏に上がって見たことがありました。古建築の屋根裏は、木と木を組み合わせるための緻密な木工技術が見られ、それに驚かされたのです。曲がった自然木の小屋梁(こやはり)に、鑿(のみ)で、《ホゾ穴》を彫り、そこに刻んだ間柱をはめ込んで、屋根を支えてありました。

 鎹(かすがい)を、そこに見つけることはなかったのです。よく見ますと、200年も経つのに、一ミリの狂いも隙間もなく、木材が組み合わされてあったのです。コンピューターも電動工具などなない時代、伝来の道具を巧みに使って、それほど正確に仕事をこなしていたわけです。

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 自分の人生を振り返って、どんな構造に仕上がっているのか思い巡らす必要がありそうです。そこかしこに、《ホゾ穴》が彫られたり、《鎹》が打ち込まれてありそうです。以前、掛かり付けの町医者に勧められて、MRI検査を大きな病院に行って撮影してもらたことがありました。初めての様な、強い頭痛があったので、念のための検査を願った時でした。ドームの中で、ヘッドフォンから流れる曲を打ち消してしまう様に、ガンガンという音を聞かされながら、多くの人のことを思い返していました。

 出会ったみなさんは、私の組み立てに、また修繕に必要な方たちだったと思わされ、特別に両親に感謝したのです。今も同じ思いです。荒削りの原木を、用に間に合うものに、切り、削り、組み合わせた作業で、あの農家が建てられ、長く用いられてきたように、用に足る人となるために、切り込めれ、削られ、嵌められて今があり、完成への途上にあっての今なのでしょう。

『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです(1ヨハネ3章2節)』

 キリストに似た者にされるために、至難の業を、聖霊が、私になし続けておいでなのです。やがて完成される時が来るのです。それまで、まだもう少し時間がかかりそうです。

(“いらすとや”の両親、”ある信徒“さんのイラストです)

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人生を行く過客として

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 深川の採茶庵(さいとあん/門弟の杉山杉風の別荘)、ここが芭蕉の奥州路への出立地でした。それまで住んでいた庵は、人に譲ってしまい、その採茶庵を仮寓にし、そこで奥州路への旅の思案に暮れていたそうです。そこから隅田川を舟で登って、日光街道第一の宿場の千住で舟を降り、日光街道を奥州路に歩み出したのです。

 曾良を伴った芭蕉は、第一日目を、「粕壁(いまの春日部です)」に泊まっています。なお旅中の記録は、芭蕉が曾良に任せて「奥の細道」をたどって行ったのです。旅行記を記すにあたって、第1泊目を、画期的な「旅行記」を記すのに、そのほうが読者受けをする地名だったのでしょうか、芭蕉は、「草加」にするように、曾良に言ったのだそうです。

 「奥の細道」の「奥」は、古来、「みちのく(道の奥)」と呼ばれていましたが、律令制下では、「東山道」で「陸奥国(むつのくに)」だったのです。明治以降は、「東北地方」と言うようになり、東北六県(福島、宮城、山形、秋田、岩手、青森)たようです。この旅行は、地方の藩の実情を偵察させられた隠密旅行だったと言う説もありますが、旅を愛した西行法師や李白や杜甫に倣いたかったでしょう。

 行程の中には、名勝も多くありましたし、お弟子さんたちがいたこともあって、約150日の日数を要した旅だったのです。間々田宿に泊まっています。そこから、西に逸れて、壬生を経て、栃木に寄ります。そこに、「煙立つ」と、平安の世に詠まれた「室の八島(大神神社/木花咲耶姫〈このはなさくやひめ〉が祀られているそうです)」があるのです。寄り道をしてでも、どうしても芭蕉が訪ねたかった名跡だったからです。

 今では、栃木市惣社町と呼ばれ、下野の国庁跡が近くにあって、律令制下の佇まいを、田畠の中に残しています。

糸遊に結ひつきたるけぶりかな   

と芭蕉が詠んでいます。境内に泉があり、何時も煙のように靄か水蒸気がが立ち上る様子があって、それで、そう詠まれたようです(この煙について神道では別の言い伝えがあるようです)。昨春、隣のご夫妻がお連れくださって、ここを訪ねたのです。下野国では最も有名な地なのですが、句心のない私には、ただの池にしか見えませんでしたが、三百数十年前の芭蕉の訪問を想像してみました。

 芭蕉の旅行記、「奥の細道」を、中学に入学して最初の授業で、高等部の国語教師から、実に〈特講のようにして学んだのです。古文など学んだことがなかった12才の少年に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」と、元禄2年(1689年)の「弥生も末の七日、3月27日、弟子の曾良を伴い、旅に出立して、元禄15年に、書物として刊行した古典でした。

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 もう大人になったような思いが溢れて、身震いするような感動を覚えたのです。250年も前になる、松尾芭蕉が、47才の頃に書き記した書なのです。今でも、暗記した序文を諳んじることができるのです。その旅で立ち寄った街、栃木に住むことになった今になって、思いを新たにしているのです。

 伊賀国阿拝郡、伊賀上野の出で、江戸で名だたる俳諧師であった芭蕉は、江戸での生活の初期には、神田川の河岸工事に携わる人足衆の帳簿づけなどで生活を支えていたようです。また弟子の中には、藩主や武士、商いの大家の主人などがいて、やがてそのお弟子たちに支えられていたのです。

 中国古代の詩人、李白や杜甫の感化が大きく、人生の最後に、この人たちの足跡を追うような気持ちで、庵を出たわけです。旅を住処として、仏僧の装束で、主に歩行で旅をし、時には馬上の人となって、険しい山坂を越え、人を、古跡を訪ねた、厳しい旅程だったのでしょう。

 芭蕉の俳句は、思いの内から生み出された句を、書き留めたのですが、そのまま完成させたわけではなく、何度も何度も書き直し、描き改めていたそうです。ですから即興俳諧師ではなく、言葉や状況や時を、沈思黙考し、推敲を重ねて詠んだ人だったのです。そうしながら十七文字に、思いを込めたことになります。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る   

 『人生は旅であって、人は旅人(過客)だ!』、と言うことを理解するには、12才は若過ぎたのですが、今は、過客であることを認めますし、道半ばの《On the way》にありますが、間もなく、ゴールに至るのではないかと感じています。当時の平均寿命が、どれほどだったでしょうか、芭蕉は病を得て、大坂で、50才で亡くなっています。生かされて栃木の今に、神の導きを深く思い、感謝の思いがあふれてきます。

(“ウイキベディア”による芭蕉です)

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クリスマス・ローズと胡蝶蘭

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 隣りに住んで、ラジオ体操仲間のご婦人が、家内に下さった、庭に咲いていた《クリスマス・ローズ》です。何とも言えない、紫の部分は「蕚(がく)」と言うようで、花は中央に黄色く小さく咲き、別名が、「雪起こし」なのだそうです。蕚が純白なものもあります。

 巴波川、渡瀬川、利根川、江戸川で、江戸を結ぶ舟運を長くやった家系の方で、お母さまが庭にたくさんに花を植えたのだそうで、今も季節季節に、その花を咲かせていて、時々手折(たお)って、その花を下さるのです。桜、多分、「河津桜」の枝花もいただいてます。

 母親の誕生日に、娘が贈ってくれた7年ほど経つ、胡蝶蘭も、鉢三つが咲き始めました。もう一鉢と小鉢の蘭も待機中で、蕾を付けています。花あるわが家を楽しんでおります。

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85才で壮健だったカレブに

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『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア14章10~11節)』

 こう告白したのが、イスラエル12部族の一つ、ユダ族の族長のカレブでした。自分に属するユダ族の「相続分」を、民全体の指導者のヨシュアに願い出ます。族長アブラハムが、エホバなる神に行くように、与えると言われたカナンの地に入った時にでした。

 自分が80を過ぎた今、間もなカレブの言っている年齢になりますが、「壮健です」と言ったことに、あらためて驚いています。昨日、市民会館で、栃木市と「とちぎメディカルセンター」の共催の「医療から介護へのネットワーク」と題する公開講座があって、隣人の案内で参加しました。「とちの郷(介護老人保健施設)」の施設長の下枝宣史氏のお話と、とちの郷の職員のサーヴィス内容の現場報告とに二部構成で行われたのです。

 それまでは、子どもたちが、当たり触らずの距離から、私たち両親の様子を気にして、メールや衣服や旅行までセットしてくれていたのです。ところが赴任先の隣国で、家内の病気が見つけられて、1週間の入院後に、急遽帰国して、北関東の大きな病院に入院治療を始めたことをきっかけに、4人が大変心配し始めてくれたのです。家内が末期ガンだったからです。

 20年の間隔で、人の一生を考える見方があるのだと、講師のお話をお聞きしました。大まかなのでしょうけど、最初の誕生から20才までは生長期、次は、それを円熟させていく年月で、顔に責任を持つべき40才を迎えます。そこからは、下降線をたどっていき、60才頃からは、健康を保持できますが、確実に老化現象が始まってきます。そして色々な病や不調の80才以降に突入しいくようです。まさに振り返ってみますと、そんな20年を一区切一区切を歩んだように思い返されます。

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 心配の方が先で、自分も、『まだ元気、平均年齢よりも若く見えます!』と言われ、いい気持ちになっていましたが、四回目の20年を過ぎて、その年齢になっているのを改めて、強く思わされているわけです。急に、病気がちの今になって、病院通いがとみに増え、さらに、次のステージに入っている自覚がありますので、身につまされるように、自分の現状を知らされ、誰もが行く道の途上にあることを感じていましたから、ちょうどのtimingでの昨日の講座でした。

 老人人口が、全体の半分ほどに近くになりつつある昨今、遠い将来かと思っていた領域に、否応なく仲間入りして、と惑うことも多くなってきている自分に、今は思ってもみなかった病気が多くなっています。まだ治療の可能な状況で、手術もしてもらっていますが、実は、もう一つの外科手術が、近々待っている現状です。講座をお聞きしていて、次のステップも間近さを感じてしまいました。要介護で、介護施設に通所、さらには入所を、そして「さよなら」を迎える年代の自分を認めなければならないようです。

 父も、と言っても61で病室から、介護施設に行くこともなく、またサヨナラの言葉もなしで、直行してしまったわけですが、95で召された母も、若い頃の大病を克服して、歯も骨密度も高く、病気することなく弱くなっていき、最後は家ではなく、施設に入所し、私は隣国にいて最後に立ち会うこともできず、人の道を全うして、主の安息の中に行ってしまいました。

 みんなが迎えるステージが、自分にとって間もないのを感じ、お話を聞いている間に、その「85で創建だったカレブ」、そのカレブが、『私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。』と言い得たことが、羨ましくなって思い出されたのです。病院通いもせず、と言っても当時は病院も、通所入所の介護施設もありませんで、活発な老いを生きるカレブの告白、姿は、実に眩しいのです。

 このカレブの壮健さの秘訣は何だったのでしょうか。結論から言いますと、「篤(あつ)い信仰」だったのです。どのような信仰かと言いますと、イスラエル民族の指導者のモーセが、12部族の族長を、これから入っていくカナンの地を偵察するために送り出しました。その偵察を終えた12人に、モーセは、自分たち見たこと、聞いたこと、そして感じたことを報告させたのです。

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 その内、ヨシュアとカレブ以外の10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから・・・私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。」と、不信仰を告白したのです。ところが、この二人は、「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」と、約束の地は素晴らしい嗣業の地だと、信仰をもって報告したのです。

 それで、イスラエルは約束の地に攻め上り、神さまがアブラハムに与えると約束してくださった、自分たちの相続地を得たのです。それで、カレブは、ユダ族の相続地を願って、表記の聖書の言葉通りに願い出たのです。聖書は、「主に従い通したからである」と記し、従順や信仰の報酬として、相続地を得たと言うのです。エジプトを出た全イスラエルの夥しい数の人々は、荒野で死に絶えてしまいます。荒野の40年の間に生まれた者だけが、相続地のカナンに入れたのです。ただヨシュアと、このカレブだけが例外で、エジプトでの長期に亘る奴隷生活の実体験のあった二人だけが、約束の地を踏めたのです。

 今朝は、日曜日の朝毎に行われる、自治会のラジオ体操会に出席しました。体を動かし、情報を交換し、安否を確認し合いながら、励まし合いながら、一人一人が老いを生きているのです。最年長は94才の方です。そのご褒美でしょうか、インスタントラーメン一包、インスタントカレー一箱をご褒美でいただいて帰って来ました。そう、「褒美」があります。信仰に対しての「報酬」と言ってもいいのでしょうか。神さまがお与えくださる《永遠のいのち》なのです。

(“いらすとや”の老人、“ウイキペディア”による最寿命国スイスの国花のエイゼルワイズ、カレブたちが持ち帰った果物です)

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二人の宣教師の光と影に

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 1924年に、パリで開催されたオリンピックに、イギリス代表で、短距離走に出場するように選ばれたのが、エリック・リデルでした。その100mの決勝の日は、日曜日であることが、前もってわかっていたので、厳格なクリスチャンだったエリックは、礼拝出席を優先して、代表を辞退してしまいます。ご両親が宣教師で、中国の赴任地であった天津で生まれておいでです。

 ところが、400m競技に出場の決まっていたリンゼーが、そんなエリックのためにに、その出場枠を譲ったのです。その好意に応えて、練習に励んで、オリンピックに参加することができました。彼は、優勝候補を押さえて、一位で入賞し、何と世界新記録を打ち立てて、金メダルを獲得することができたのです。

 オリンピックでの優勝の栄冠を得たエリックは、1925年エジンバラ大学を卒業して、父と同じ道に従うのです。両親を助けるために、天津に戻ったエリックは、1932年に教職者の任職を受け、カナダ人の女性と結婚し、3人の娘が授かります。すでに1931年には満州事変が起こっていた時期でした。

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 日本の支配が強固になる中、1941年、妻子をカナダへ送り返し、エリックだけが単身天津に残ったのです。1943年、日本軍により捕虜になり、山東省濰県の濰県収容所に収容されます。その収容所の中で、教育用の教材を編纂したり、文化・スポーツ活動を組織したのだそうです。ところが、1945年2月21日、脳腫瘍のため収容所で病死するのです。このリデルの獄中記が残されてい、生前に一人の少年との出会いがありました。

 収容所でのある日、エリックが導いていた聖書クラスで「山上の説教(マタイ5~7章)」を、子どもたちに教えていた時のことです。神さまに喜ばれて生きることについて話したのです。『自分の敵を愛しなさい!』と言うイエスさまのことばに、生徒たちが反発したのです。彼らの目の前の「敵」は、日本兵でした。彼らを愛することなどできません。『理想に過ぎない!』と思っている生徒たちに、エリックは続けて話したのです。

 『僕もそう思う。だけど、このことばには、「迫害する者のために祈りなさい」という続きがあることに気がついたんだ。僕たちは愛する者のためなら、言われなくても時間を費やして祈るだろう。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自己中心の人間になる。でも祈る時、君たちは神中心の人間になる。神さまが愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。』

 エリックは、自分のはいていた靴を、オンボロになってしまった靴を履いていた一人の少年にあげたのです。彼は、エリックの話を聞いた後、日本と日本人のため祈り始めていたのです。もらったその靴は、天津での陸上競技にも出走していて、その競技会で、エリックが履いていた靴でした。そのことがあった後、間も無くしてエリックは亡くなるのです。

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 そんな交流があって間も無く、日本軍は降伏して、戦争が終わり、収容所から捕虜は解放され、この少年もイギリスに帰国するのです。エリックの話を聞き、ひどい仕打ちをした日本人のために祈り続けた、この少年は、聖書学校で学び、日本への重荷を持って、日本宣教に志すのです。それが、スティーブン・メティカフ宣教師です。

 1952年、このメティカフ宣教師は、日本宣教のために来日しています。青森県の金木町、青森市、五所川原などで活動をして、教会を建て上げていくのです。第二次世界大戦のさなか、中国で日本軍の捕虜となった14歳のイギリス人スティーブン少年は、収容所で出会った、エリック・リデルから、敵を赦し、敵のために祈ることを教えられました。

 その人物とは、映画「炎のランナー」の主人公として描かれたオリンピックのゴールド・メダリストだったのです。やがて少年は大人になり、かつての敵国、日本へ宣教師となって来日することに。歴史に翻弄されながらも、怒りと憎しみに押しつぶされることなく、愛と平和を伝える使者となった著者の半生を綴っています。  

 母は、子どもの頃に、カナダから来られた宣教師さんと出会って、信仰を持つようになりました。その母と同じく、私たち兄弟四人も、アメリカからの宣教師さんの教会で救いを告白をしました。父も、その教会の牧師となった上の兄の導きで、信仰を告白しました。

 また家内も家内の家族も、戦後間なく、日系アメリカ人の宣教師の伝道の中で、バプテスマを受けています。教会を受け継いだ宣教師さんのご家族に伴って、私たちは開拓伝道の補助者として、母教会から祝福されて出掛けることが許されました。

 『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』とのイエスさまの宣教命令に従った方々の学校でも学べました。文化も経済力も話す言語も違う国々に出掛けて行った人たちによって、福音が宣べ伝えられ、教会が誕生してきています。エリックもスティーブンも、その一人でした。

(“ウイキペディア”による現在の天津市、天津の五大道、パリのエッフェル塔です)

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輝きには表と影があること

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 スポーツには、「夢」があるのではないでしょうか。実際に闘う選手たちにも、それをすることはなく観戦し、応援するフアンにも、夢があります。選手の直向(ひたむ)きさがいいですね。野球やサッカーなどはメジャーなスポーツですが、そんなに華やかではなくても、どのスポーツにも、それに関わる選手にもスタッフにも、血を踊らせるものがあるのでしょう。

 そう言った輝かしい面の背後には、名選手でも、例えば、野球の打撃を見ても、5割を打つ選手はいません、ほとんどが3割がトップの打率なのです。10回打席についても6〜7回はヒットにはならない、3回に1回だけがヒットなわけです。それと共に、高い調子を続けられなくなる「スランプ(slump)」に陥ることもあるようです。肉体的にも、心理的にも、原因不明の低調や不調に見舞われることがあるのです。ベーブルースを凌ぐような、あんなに好成績を打ち出す大選手でさえも、この経験があるのです。

 年齢的にも、まだ若いのに、原因不明の不振の時を迎えます。人か抱える限界だって、やがてやってきます。強烈で、長期に亘る絶調を経験しているのに、突如として不振に見舞われてしまいます。それは、名選手を謙らせられる時なのでしょうか。不可避の限界点の経験なのです。

 突然に、自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなる、「イップス(yips)」もあります。野球やゴルフ、テニスなどのスポーツに多く見られる経験なのだそうです。緊張や不安などが原因するのでしょうか、精神医学的な症状と診られこともありそうです。神経疾患にもなるのかも知れません。期待過剰を感じて、それに応えられにように努力するからでしょうか。どうして、そんな時期がくるのかは説明できない状態です。

 また「プレッシャー(pressure)」があるのでしょう。期待の重さにつぶれそうになることもあり、自分がそれを満たさなければならない、責任を果たさなければならないと言う思いの中に入ってしまうことがあります。心理的な重圧感も感じるからなのでしょう。褒められると、飛び上がって、アドレナリンが増し加わるのでしょうか活躍できる人もいれば、そうでなく重圧に負けてしまう人もいます。これらは人生の縮図のような一面でもあります。
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 メジャーリーガーの鈴木誠也選手は、『野球はみんなが打てるわけではなく、助け合いです!』と、今回の大会後のインタビューに答えていたのを聞きました。本試合の打撃でも守備でも、そこで立って活躍できるのは、ほんの一部の選手であって、一緒に練習し合っている選手が多くいて、スタッフがいて、フアンがいて成り立つわけです。野球の寵児である大谷翔平選手は、自分の球団のスタッフに、心からの感謝を表す、もう一つ隠された面があるのです。

 例えば、駐車場の係の方の名前を覚えていて、病気で休むとお見舞いに行ったり、掃除をされる方の名前を覚えていて、一人一人を名前で呼んで感謝を表したりするのです。自分が野球ができるのは、そう言った裏方さんがいて可能なのだと、感謝できる人なのです。それは、成績よりも凄いことなのではないでしょうか。この大谷翔平選手には、全チームへの献身と感謝があるのです。

 フェアーな精神、対戦相手への想い、スポーツそのものへの愛、自分の球団に関わる方々への敬意などが、スポーツを娯楽以上のものにしているから、「夢」がふくらみ、叶えられのでしょう。脚光を浴びる試合に出て活躍するために、グラウンドで汗💦まみれ、泥まみれになってなされる隠れた練習が積まれ、重圧に押しつぶされそうになっていることを知ると、それらがあるから、それを克服しようとする影の部分があって、さらに興味を倍増させるのでしょう。
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 そこで野球に関する、私の大好きな話しを一つしてみましょう。大分県別府の出身の稲尾和久選手は、漁師の子で、1937年に7人兄弟の末っ子として生まれています。お父さんは人の手で艪を漕ぐ舟に乗り、漁をします。お母さんは夫が獲った魚の行商に出て、売り歩いたのです。その最中に、産気づいて和久を産んでいます。漁師を継がせたいと考えていたお父さんの願いで、小学校に入学すると、和久少年を伝馬舟に同乗させて、舟の艪を漕がせたのです。

 稲尾和久選手は、『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日でしたが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついきました!』と子どもの頃を述懐しています。肩や下半身の強さは、お父さんの漁の手助けで鍛え上げられたことで、名投手となって、日本プロ野球に名を残したのです。

 そればかりではなく、投手として登板し、次の投手にマウンドを、稲尾和久選手が任す時に、必ず自分の使って荒れたマウンドを、手で整え直して、ロジンバッグを元の位置に置き直し、ボールを渡したのです。そんな、だれにもできないことのできる名投手でもありました。表と影との、そんな調和を持っていたのは、この時代に大活躍している大平翔平選手のしていることに並び評される野球人だったのです。

 夢を見るのは、年齢に関係ありません。聖書には、「老人は夢を見(る)」とあります。みんな夢を見ながら、今を生きるのでしょうか。若い人たちには夢を、もっと見て欲しいものです。

(“いらすとや”の投手と、グラウンド整備、漁をする人と舟です)

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