麗な春がやってきて

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 晴れやかで美しいという意味の「麗(うらら)の春」、弥生三月の始まりです。やけに寒く、日本海側や北海道には、例年にない降雪の多さで、難儀された年末年始でしたが、もう春です。月末に始まる甲子園の時期にさえ、雪が降ったこともありましたが、やっとの春でしょうか。

 父も母も上の兄も、早生まれのこの月に生まれています。望まれなく生まれた両親でしたが、それぞれの定められた時に、主なる救い主に出会って、永遠のいのちの書に、その名を記されることが叶ったのです。兄は大きな期待のうちに、この両親から生まれたことでしょうか。いのちの創造者、支配者、付与者には間違いがありませんので、父と呼ばれた神さまに期待されての誕生だったのです。

 もうすでに家内は、春をみつけに出掛けて、探し当てて帰って来ました。13年、共に過ごした隣国は、春待望の強烈な人たちの国でした。火薬を発明したこの民は、それで「鞭炮bianbao🧨(爆竹)」を作り出し、まだ春には遠い時期に、それを打ち鳴らして、貧しさや寒気を追い払ったのでしょうか。あの炸裂音は、春待望の叫び声なのです。

 北の街で、気象台への道を歩いていた時に、足元で、爆竹の炸裂音で驚かされるとともに、真っ赤な紙片が飛び散り、火薬の匂いが立ち込めていました。夕方、外国人アパートに帰ると、今度は路地で、今度は花火を打ち上げに直面したのです。高度を取れない花火は、七階の窓の真横で、破裂音と共に炸裂して、火花が飛び散るのです。『こんな所で、花火を上げないで!』と言えないままでいたた思い出です。

 この春節の時期には、花火や爆竹を売る店の周辺で、爆発事故が起こり、火が燃え移って延焼してまう事故が、中国中で起こるのが常でした。それでも売って、買って、火をつけて春を喜ぶのです。長女が10年ほど住んでいたシンガポールで、この春節を迎えたことが、一度ありました。中華街の周辺は、大きな太鼓を積んだ車が練り歩いて、それを打ち鳴らして爆竹の代替にしていたのです。

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 〈所変われば品変わる!〉で、さすが治安の良いシンガポールならではの春節だったのです。その街に、甘粛省の「蘭州拉麺」の手延べ実演を、店主が見せてくれる有名店がありました。娘の贔屓の店で、美味しいのです。初めて行った時に、両親だと紹介してくれて、その店長が撮ってくれた写真が、店の壁に貼られていて、来店記念にしてくれているのです。

 その商店街の中には、広東省や福州省などからの移民の歴史館があって、「苦力kuli」のみなさんの生活ぶりが、振り返られて展示されてありました。その出稼ぎや移民のことについて、一人の姉妹の親族の「兄弟愛の話」を聞いたことがありました。もう退職をしていた元大学の先生が、教会の姉妹の故郷に招待してくださって、私たちを暖かく迎え入れてくださって、食事会を催して親族の交わりの中で、その会食中に、こんな話をしてくれたのです。

 「打工dagon出稼ぎ」先のシンガポールから、お兄さんの送金で、大学に行くことができ、大学院にも進んで、大学教授になれたという美談でした。激しい労働に耐えて、得た収入を送金し続けてくれたお兄さんに、とても感謝して、そう話してくれました。そう言った話が、教会の他の愛兄姉に幾例かあったようです。

 春が来ると、この爆竹や花火、シンガポー風の春節の様子が思い出されてまいります。日本とは違った春を愛でる様子は、とても新鮮でしたし、ある面では羨ましくも思えたのです。貧しい過去があって、民族民族の歴史性があって、春待望の様子の違いがあるのでしょう。私たちにとっても、家族が与えられて、いっしょに寒い季節を越えて、やってきた春の思い出は、新しい決心を持って、それぞれの世界に出立していった、四人の子どもたちの姿が、懐かしく思い出されてまいります。

 多難な世界情勢の様相を見せております。希望に溢れる、いのちの再生と躍動の弥生三月、春の始まりを期待して迎えたいものです。祝福をお祈りいたします。

(“いらすとや”の爆竹、“ウイキペディア”のシンガポールの中華街です)

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