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この週末、東京に、東武電鉄日光線の特急・ベーシア号に乗車して出かけました。栃木に住み始めて、8年になりました。これまで入院や通院で電車を利用することがあっても、上り電車、それも特急に乗ることはありませんでした。今回、初めて乗って、浅草に行ったのです。ベイシアの乗り心地は快適でした。
渡良瀬川と利根川を渡って、埼玉県に入り、春日部駅、北千住駅、東京スカイツリー駅で停車し、浅草駅に着いたのです。沿線は田植えの終わった緑色の農村部から、ビル群の都会に移っていきました。栃木県民に愛されてきた都会です。この浅草は、横須賀生まれの父の会社が近くにあったり、娯楽で過ごした街でした。自分にとっても、この方角から訪ねたのは初めてのことでした。浅草駅をエレベーターで降りて、あの三角地に立ちましたら、何か、ものすごく懐かしさが込み上げてきたのです。
父の青春の街だったからでしょうか、遺伝子に組み込まれていたものが、何か込み上げて来た感じだったのです。自分にとっての青春の街は、東京の西の新宿なのに、数度しか行ったことのない浅草に、郷愁を感じてしまったようです。サトウハチローが作詞し、万城目正が作曲した「浅草の唄」があります。
つよいばかりが 男じゃないと
いつか教えて くれた人
どこのどなたか 知らないけれど
鳩といっしょに 唄ってた
ああ 浅草のその唄を
可愛いあの子と シネマを出れば
肩にささやく こぬか雨
かたい約束 かわして通る
田原町から 雷門
ああ 浅草のこぬか雨
池にうつるは 六区の灯り
忘れられない よいの灯よ
泣くな サックスよ 泣かすなギター
明日もあかるい 朝がくる
ああ 浅草のよい灯り
吹いた口笛 夜霧にとけて
ボクの浅草 夜が更ける
鳩も寝たかな 梢のかげで
月がみている よもぎ月
ああ 浅草のおぼろ月
劇場や舞台、映画館や寄席などが多くあって、芸人たちが集まって、名を売るための下積み時代を過ごし、励んだ街だったのです。ハチローの世代には、この浅草は特別な街だったのでしょう。同じように浅草を舞台にした、1970年代に初頭に歌われた歌に、「唐獅子牡丹」がありました。昭和時代の初期の東京、浅草を舞台にした、博徒の生き様を描いた映画の主題歌に歌われたのです。その歌で、「エンコ(浅草公園の公園を逆読みたようです)」、「浅草(あさくさ)」、「六区(劇場が多く歓楽街でした)」などが歌い込まれていました。「東京行進曲」の3番には、「粋な浅草」が歌われ、「東京ラプソディー」の3番には、「ジャズの浅草」とありました。
花の雲 鐘は上野か 浅草か
江戸期に、芭蕉も、浅草の浅草寺でつく鐘の音を聞いたのでしょう。江戸勤番の侍や、商家のお手代や手伝いなどの働き場を求めてやって来た人たちも多く、江戸の闇に逃げ込んだ逃散者などもいたようです。百万都市の江戸には、さまざまな闇と華があって、躍動していたのです。梅雨の走りの週末の浅草は、それでも外国人が、とくに家族が多くおいででした。
江戸市民、東京市民、東の栃木や福島などからやってきた人々に、夢を見させてくれた舞台のような街で、日本文化の中では東の東京の文化、日本文化の特別な発信基地だったのでしょう。そんな残滓(ざんし、残りかす)を感じさせる所に、外国人ばかりではなく、この私も魅力を感じてしまいました。タクシーで、予約してもらった浅草橋のホテルまでの道筋に、仲見世につながる雷門が見え、「どぜう(泥鰌を四字でなく三字で表現したようです)」で有名な古暖簾の飲食店の前を通りました。
隅田川があるからでしょうか、道幅が狭く、家々が連なる風景も独特で、身近さを感じさせてくれました。隅田川の河岸には、遊覧船が繋留されていて、昔の狭い濁り水の流れではない、きれいな川が窺えました。伝統の街、気取らない庶民の街、母に食べさせたいと次男が買ってきてくれた「よもぎ餅」を作る店も、隅田の向こう岸にあります。昔が恋しいのは銀座ばかりではなく、ここ浅草もなのでしょう。若い父が闊歩している姿が思い描けそうでした。
そのホテルに会いにきてくれた次男が、「たい焼き」を買ってきてくれたのです。家内と3人で食べたら、あんこはそんなに多くなかったのですが、甘すぎずに実に美味しかったのです。住んでいる街にも、長く親しまれてきているたい焼きがあるのですが、浅草のものは至極美味でした。あんこ好きの父の味、浅草の味だったからでしょうか。
(ウイキペディアの浅草猿若町の図、素材Libray.comのドジョウです)
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