カモ帰る

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 鴨が帰って来て、巴波川が賑やかになりました。最初3、4羽でしたが、今ではざっと50羽ほどになって、エサの取り合いをしているのが見うけられます。

 生まれ故郷のシベリヤ、カムチャッカ、モンゴル、黒竜江省あたりに帰って、そこで産卵して、雛を育てるのだそうです。遠距離を飛べる体力がつくと、家族で戻ってくる様です。カルガモが、道路を横切る様子が、ビデオで見られる様に、7、8羽が群れているのですが、そんな大家族でなさそうで、どうかなと思案してしまいます。

 トマトの種が地に落ちて、芽を出して、すくすく育って、11月と言うのに、小さな実をつけています。ウインターコスモスの切り花を家内の和歌の同人からいただいて、テーブルの上で咲いています。散歩道の小学校の花壇と、いつも花のお世話をして、きれいな花を咲かせているお家の庭に、菊の花が咲いていました。

 もう冬の足音がして来ています。南に富士の高嶺が見え始めました。

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こんなこともあった13年間

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 「伯楽」と言う仕事があります。野生馬や生まれたばかりの馬の子を、躾けるのですが、そのタイミングを外してしまうと、もう躾けるのが難しいのだそうです。華南の街に住んでいた時に、障碍を負われた少年を訪ねたことがありました。お母さんは、その子の養育を、おばあちゃんに任せて、アメリカに密航していたのだそうです。

 そのおばあちゃんは、孫の世話を一生懸命されたのだそうです。リハビリの専門家に診てもらったところ、今のうちに矯正訓練を続けるなら、身体機能をある程度恢復することができると言われて、おじさんたちの援助でし始めたのです。主におばあさんが、メニューに従って矯正を行っていたのですが、それは世話をするおばあちゃんには、耐えられにほどに辛く見えたのです。可愛さのあまり矯正をメニューの通りにせず、遂に、同情心でやめてしまいます。

 それで、矯正の時期を過ごしてしまったのです。第三者が、しかも専門の立場でする様な体制が、まだ整っていない時期でもあって、家族の間で行われていたわけです。半年でも1年間でも、矯正センターで、厳しい訓練をしていたら、と悔やんだのですが、時期を失ってしまったわけです。

 彼はニコニコして、私たちを迎えてくれ、舌でパソコンを操作して、仕事ができる様になっていました。古い軍港の近くの養老院が、この若者を受け入れてくれて、世話をされながら一室で、お世話をいただきながら過ごしていたのです。

 私たちの住んでいた街の郊外に、アメリカ人が運営する、障碍を負われたお子さんたちのお世話をしている施設がありました。何人もの師範大学の学生のみなさんが、ボランテアでお手伝いをしていたのです。その運営者が、この少年のお世話をしてくださると言うので、転院したのです。そんな重度の障碍を負っている少年のお世話を、愛の限りを尽くしながら懇切にお世話しておいででした。

 この方は、クリスチャンで、そこでは定期的に聖書研究という名で集会が持たれていて、私たちも訪ねて一緒に集会に参加したのです。珍しくも大胆に異言を語られていて、賛美礼拝が行われていました。隣国で奉仕している方たちの多くが、聖霊派の背景が多かったのではないでしょうか。東北部で過ごした1年間、ホテルが外国人のための宿舎になっていて、そこで週日には、有志が誘い合って、祈ったり賛美したり集会が持たれていました。その集いも、聖霊派の背景のみなさんが多かったのです。

 そこでは、政府公認の外国人のための超教派の礼拝がもたれていました。劇場の様な、大きな講堂の一室を借り受けて、入口でパスポートの提示が、礼拝出席には必要でした。そこの礼拝に出たり、街中の公認教会にも出席しました。その伝統ある教会には、400人ほどの会衆が集っていたでしょうか。ものすごい熱気でした。聖餐式には、多くのみなさんが、泣きながら感謝して、パンと杯に預かっておいででした。本物の信仰者でした。

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 その国では、外国人は宣教活動ができなかったので、ビジネスマン、医師、医療従事者、エンジニア、教師、福祉活動などをしながら、間接的に福音の宣教をしてたのです。それぞれ教派とか教理などの立場から離れて、助け合いながら、それぞれを認め合って交わりが行われていたのです。とても素晴らしい和合の交わりでした。ですから、教えている学生さんたちや、一緒に働いておでの方たちや、街で出会った方たちの中から、信仰を持つ方たちが起こされ、秘密裏に浸礼でのバプテスマが行われていました。

 その大きな街の私たちが住んでいた宿舎に、訪ねて来られた国立の名門のN大学の学生さんがいて、彼も信仰を持ち、バプテスマを受けたのです。彼は、英語と日本語ができて、私の父が青年期を過ごした、鉱山で名のあった街の出身者でした。下の息子が役員をしていた会社への就職の話があったりしたのですが、なぜか叶いませんでした。いろいろなことがあって、華南の街に移ったわけです。

  そこでは、12年間を過ごしたのです。中には五代、六代のクリスチャがいて、みなさん助け合いながら、励まし合いながら、信仰生活や訪問、証をし、社会生活も忠実に励んでされておいでです。主への愛を隣人への愛として押し流しているのです。どんなに私たちは、みなさんから助けられ、支えられたか知れません。今ものその交流が続いていて、何回か訪ねてくださったこともあるのです。

 その障碍を負っておいでの少年は、もう大人になっておられて、彼のおじさんと従兄弟の方が、今の様子を話してくれます。このご家族が、東京にいて、北海道で事業を計画中しておいでです。私たちを、時々訪ねてくれるのです。素晴らしい出会いや交わりに感謝しています。

(“いらすとや“の教会、“ある信徒”さんのイラストです)

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THE GREAT GOOD PLACE

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 “ 3rd place“と呼ばれる場所があります。先日、NHKのラジオで聞いあり、そんな題名の本もあって読んだりしたのですが、としますと1stも2ndもあることになります。自分が、”1st place”としている場所があるのです。今朝、その場所のことを思っているところです。そこは生まれ故郷と言いたいのですが、そうではありません。自分にとっては、これから行く所で、どうも永遠の居場所になる模様です。

 ほぼ通常、第一の場所は「家庭」、第二の場所が「職場」、そして第三の場所は「趣味や余暇を過ごす場所」なのでしょうか。アメリカで都市社会学を学んだ、レイ・オルデンバーグが著した「サードプレース(みすず書店 2013年刊行)」を、今読んでいます。原題は“THE GREAT GOOD PLACE”で、副題は、

“Cafes,Coffee Shops,Book stores, Bars,Hair Salons and  Other Hangouts at the Heart of a Community”

とあります。喫茶店や本屋やバーや理容室や他の遊び場(心を解き放って遊べる共同体)のことの様です。日常の義務から解放されて、思いっきり心を休ませたり、次に進む力を自分の内側に養う、余暇を過ごす場所、第一でも第二でもない場所に意味を持たせて記しています。

 中国にいました時に、学生たちと街の中心に出掛けたのです。そこは清朝時代から続く巷間、店や劇場や喫茶室やレストランなどが、軒を連ねている様な一廓がありました。帰国する数年前に地下鉄の駅もできていたのです。そこに、滞在期間中に、”Starbucks”が出店したのです。アメリカ風にではなく、中美折衷の意匠で建てられた店舗でした。美は、中国語でアメリカを美国と表記します。利用者のほとんどは、学生で、テーブルにパソコンを置いて、mag cup で珈琲を飲んでいました。ちょっと違うのは、スプーンでコーヒーをすくって、口に運ぶ飲み方をしていたのです。

 そこは、シアトル、ホノルル、東京、栃木にある店と、同じ雰囲気なのです。授業や試験から解放されて、肩から力を抜いた彼らは、どこの国の都市にいる若者たちとも同じでした。文化や習慣には国境や民族の差はありません。まさに「スターバックス文化」でした。

 ヨーロッパ映画を見ていると、道路と店の間に簡易テーブルや椅子を置いて、コーヒーを飲んだり、食事をしながら話を弾ませて楽しんでいる光景を、よく観た、あの交流の場です。また、子どもの頃に、里山の林の中に、木々の間に、運んできた板や縄やむしろで隠れ場を作ったり、土を掘った穴の上に、板やむしろで屋根を作り、そこに土をかぶせて作った、あの隠れ場、城です。英語ですと、”private room “でしょうか、「秘密基地」で、楽しい思い出の光景が甦ってまいります。

 大人になって、子育て中に、月に二度ほど、けっこう大型のスーパーマーケットの床清掃の仕事を請け負って、14,5年続けたことがありました。夜間の6時間ほどの仕事でした。ポリシャーで床洗浄の後に、綺麗にモップで拭き、Wax仕上げをしたのです。それを終えて、掃除用具を店の倉庫に納めてから、街の朝湯の銭湯や山間の温泉に出掛けたのです。湯に浸かる時のホッとした時と場所は、疲れを癒してくれた一時でした。それこそ「隠れ場」だったのでしょう。

 聖書に次の様な箇所があります。

『父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたため”にわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。(新改訳聖書 ヨハネ17章24節)』

 私にとっての、第一の場所は「わたしのいるところ」と、主イエスさまが仰った「所」に、この私をご一緒に、永遠におらせていただける場所なのです。これに過ぎる、“THE GREAT GOOD PLACE”はありません。七十代の終わり頃から、思いもよらない病気をし始めたのです。いえ、歳を重ねて、老化の兆候が見え始めたと言うべきでしょうか。1、2時間温泉に浸かり、体を横たえて休んで、お昼を食べると、もう回復していた若い頃の自分が、もう病気がちになったわけです。

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 年相応の今を過ごしていて、別にもがきません。子育てを家内とし終え、宣教師さんから受け継いだ教会の奉仕を、家内と一緒にし終えました。それから隣国に出掛けて、13年を過ごしました。2018年の暮れに、娘の様にして、何かとお世話してくださった方が、家に来て家内の様子を見て、『すぐに病院で医師に診てもらいましょう!』と、省立第二病院、本院に連れて行ってくれました。即入院になったのです。

 一週間後に、主治医から、『すぐ日本に帰って、大きな病院で診察を受けてください!』と言われ、すぐに帰国しました。栃木県にある獨協医科大学病院に行き、診察を受けましたら、そこも即入院でした。4ヶ月の入院で、ターミナル病院に転院て、家にしばらくいて、その手続きを考えていましたら、何と病状が回復して来たのです。通院し始めて、免疫力を高める薬剤を投与されて、40回受けましたが、肺腺ガンが消えて、痕跡だけが残ってしまったのです。

 心地よい居場所、気兼ねなく過ごせる空間、非日常的な場所で、子ども時代の秘密基地などこそが、心を休めて、癒される場所だったのです。その様な場所を、どなたもが必要としている様です。そこがあるからこそ、次に進んでいけたのでしょう。夏になると天敵の蚊に刺されやすい体質で、今年は、酷暑で、蚊の発生が少なかったそうで、5回ほどしか刺されませんでした。ところが涼しくなっての10月になって、何と二度も刺されてしまいました。蠅帳型の蚊帳(かや)で5月頃から張って寝るのですが、その「避難基地」の蚊帳の中も、”3r place “で、「秘密基地」の様に、私は潜り込むのです。

 それらは、永遠という時を考えますと、一時期の空間、場所です。ところが、主イエスさまと、共にいさせてもらえる場所は、永遠の“THE GREAT GOOD PLACE”であります。ご一緒に、そこに行きませんか。もう病むことも、痛むことも、悩むことも、苦しむことも、悔やむことも、そして死ぬことのない世界なのです。そう救い主が約束してくださっておいでです。

(“いらすとや”の秘密基地と温泉入浴です)

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いつもと違った日曜日に

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 『夢を買うのです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいました。私は、宝くじを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。中学生の頃に、競馬馬の調教師の子が、級友に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生のころに一度行ったきりでした。

 父の家の川向こうに競艇場がありましたが、行きませんでした。ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、教会に行くようになってからは、まったくやめてしまいました。

 開拓伝道の貧しい中で、その貧しさを克服しようとして、わずかなお金で宝くじを買った牧師さんがいました。『主よ当ててくださいますよね。教会堂を建てるのは御旨に適っているのですから!』と祈ってクジを買ったのですが、当たりませんでした。神さまは、そんな方法で教会堂を建てたいとは願われませんでした。

 株がいけないと言っているのではありません。労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、現代の会社経営には、どうしても必要なのです。そして、小学生が、これを学ぶのも大切なことです。出資者がいて、企業が事業を展開することが出来るからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースを聞きます。小額の投機で、多額の利益を得られることに魅力を感じてしまっているからなのです。大反対です。

 オランダで首相をしたことのあるアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言ったのです。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が、心を誘惑して、神より離れさせ、運とツキに依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・神以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・心惹かれております・・神の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてしまいます・・嫌悪せざるを得ません。』と、次の時代を担う学生たちに、百年も前に、そうAdviceされたのです。

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 私たちは、運命の力に、自分の人生を任せたり、賭け事に運を求めたりするのではなく、神の摂理に自らを任せるべきです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまうのです。私は「運」や「つき」に、自分の人生が左右されることを願いません。たとえ状況が悪く感じられることがあっても、それは、『神さまは、何かを教えたり、注意されているだ!』と思うことにしています。

 結婚や留学や離婚のために貯えてあった貯蓄が、40年以上前、教会堂のための土地と会堂と教会の事務機材の購入のためにささげられました。夢の実現よりも、神のご計画に賛同され、また留学計画は、主によって不要になったからです。しかし主は、主と社会の前でなされた、その選択と決断と信仰とを覚えておられるのです。聖書に、次の有名なみことばがあります。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ(新改訳聖書 エレミヤ2911)」

 秋のど真ん中に、『どんな素晴らしい実りが、自分の生涯に、まだ残されているに違いない!』と思い定める季節でもあります。これまで何度、実りの秋を迎えたでしょうか。昨日の朝は、お隣の家のご夫人をお手伝いをして、家内とラジオ体操仲間のご夫人と、柿もぎをしたのです。カラスに食べられる前に、カラスと競争したわけです。江戸期から舟運をされてきた家で、今の家に越して来られる前に、その家の庭にあった柿の木の種を植えたのだそうです。

 お父さまが建てられた6階建ての住宅の一室に、部屋を私たちはお借りているので、毎年、よく頂いてきた柿の実は、甘くて美味しいのです。それから朝食をとって、9時過ぎからMLBの最終戦を見始めて、10時になって、家内と二人で、聖餐式を持ち、礼拝を守り、頌栄を賛美して終えたのです。それから再びMLBの観戦に戻りました。野球という人生を凝縮させた Drama の観劇、いえ観戦でした。選手とスタッフとフアンなど、人の織りなす最高の試合、作品とでも言えそうでした。

 Dodgersと相手のBlueJaysの健闘、死闘、素晴らしかったのです。ただ単縦に楽しめました。すごい演出あるentertainmentでもあるわけです。そんな輝かしさの背後に、高校のグラウンドで、私たちのクラブと分け合って練習していた野球部、そこで兄も走り、打ち、投げ、捕っていたグラウンドにあった、泥と砂っぽい光景が目に浮かんだのです。昨日の興奮の余韻が残る夜明けであります。

(”いらすとや“のバッター、グラウンド整備の様子です)

想像もし得なかったことが

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 良くても悪くても、日本は欧米、とくにアメリカ合衆国との関わりが、幕末以来、求められ続けています。黒船が浦賀沖に現れ、国を挙げて衝撃を受けたのが発端だったと言えるでしょうか。捕鯨船の寄港を求めるアメリカ大統領の親書を携えての来航でした。多分、その使者がペリーで、「ペルリ」という名前は、日本人が初めて知ったアメリカ人の名前だったことでしょう。

 今回、新総理に、高市早苗さんが就かれて、日米が“ win-win ”の関係なのだそうで、その良い関係が保たれて、世界中に起こっている衝突や危機が避けられるための努力がなされていくなら、それは素晴らしいことにちがいありません。Leaderのみなさんには、まっすぐに、この国を導いてほしいと願って祈るのみです。

 そんな公的な接触以降、有為の青年たちが、イギリスやアメリカに渡って、学んで帰ってきて、近代日本を築き上げてきたわけです。ヘボンなど、医師や技術者や宣教師として、幕末に日本にやって来た人たちがありました。難船で救助されアメリカに渡って、英語を習得して通訳として活躍したたジョン万次郎がいて、さらに留学した新島襄、内村鑑三、津田梅子などは、次代を担う青年たちへの教育を始めて行きました。政治や殖産興業のための事業、さらには社会事業に至るまで、精一杯に生きてきたのです。そんな中で、キリスト教的な感化を強烈に受けた青年たちも多くいたのです。

 日本が、列強と肩を並べようと躍起になって、結局は、アメリカを代表とする列強と、戦争に突入してしまいます。そして敗戦の憂き目を味わって、不落の日本列島が、アメリカ軍の猛攻で壊滅的な状況に置かれたのです。そんな戦後まもまく、朝鮮戦争での特需、児童の栄養援助や物品援助のLALA物資の供与などがあって、かろうじて戦後復興を遂げることができました。

 その奇跡的な復興が遂げられたのは、戦勝国アメリカ合衆国から援助と、困難から立ちあがろうとした日本人の独特な不屈さ、日本人特有の苦しい中でも笑えるような柔軟さがあったからでしょうか。かく記す自分も、進駐軍の米兵に、“Give me chocolate!”とおねだりした時代の子でした。実は、その屈辱的な子どもの頃の出来事への反動で、十代になって予科練や海軍兵学校に、時代錯誤のように憧れ、軍歌を覚えては歌って、日本主義の子になろうとしていたのです。そんな偏向の私を見捨てなかった、創造者で赦しにあふれた神さまと出会って、取り扱われたのです。なんとアメリカ人宣教師のもとで、8年間、その日本主義の亡霊から解き放つ作業があって、取り扱われたのです。

 子どもたちの最終教育のために、アメリカに送ることができ、民主主義とキリスト信仰を、学校と教会とで学ぶ機会が備えられたのです。アメリカ人と日本人の血を引く牧師さんと出会い、『わたしがお子さんたちの面倒を見ましょう!』と言って、長男と次女の二人を、15歳で次々と面倒をみてもらいました。長女と次男も、ハワイや北米の街で教育を受けることができたのです。

 母は、島根県出雲市で伝道されたカナダ人宣教師との出会いで信仰者となっています。家内の母親も、アメリカ人宣教師と戦後になって出会って、信仰者となっているのです。15で昭和初期に信仰者となった母と、戦後信仰者となった義母をおばあちゃんとする、私たちの子どもたちは、その同じ信仰を継承していていることになります。
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 今、戦争に巻き込まれた職業野球人たち(今のNLB日本プロ野球機構)について触れた本を読んでいます。アメリカのハワイ州の真珠湾に、1941年12月9日に爆撃機で攻撃を加えて、太平洋戦争が始められてしまいます。戦時中の日本の野球界は、敵性言語の使用が禁じられ、GIANTSは〈巨人軍〉に、ストライクは〈ヨシ一本〉に、野球用語が変更されたのです。そのあたりの経緯が、その本に、次のように記されています。

 「日本野球連盟は、日本野球の確立という言葉を、しきりに用いているが日本野球というものはすでに確立されているにである。・・・アメリカの国技であり、、競技であるなどと考える事は、余計な偏見であって、今更日本野球の確立などという必要は少しもない・・・球団名を日本化にするとか、連盟旗、球団旗を日本字にするとかは、しよう末節の問題だから、敢えて悪い事とは言わないが、規則の日本化を実行するというのは、どういう意味か明瞭では無いが、まことに不可解の話である。・・・それは最早野球競技ではなく、他の異なった競技となってしまうのである・・・(『野球界」30巻24号、昭和15年12月15日 鈴木宗太郎記)」

 中国大陸に軍を進めていた時期にも、野球が行われていて、どうにか試合を続ける努力がなされていたのです。17歳の沢村栄治は、ピッチャーで、日本が招待したアメリカチームの名選手、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらと対戦し、多くのバッターを三振に打ち取るほどでした。1934年(昭和9年)11月20日、日中戦争の開戦の2年前、静岡の草薙球場でのことでした。ゲーリックに打たれたホームランの一点だけを奪われて敗戦でしたが、アメリカのチームは、沢村の怪投に度肝を抜かれ、沢村は一躍注目されたのです。

 その後、沢村は読売巨人軍で活躍するのですが、日華事変(日中戦争)が始まって、兵士として中国の戦線に送られるのです。ボールを手榴弾に握り変えて、最前線で大活躍をしますが、野球人生を縮めるほどに肩を壊してしまいます。その兵役を終え帰国し、野球に復帰しますが、以前のような快投乱舞は、もうできませんでした。やがて巨人軍から解雇され、悲運の野球人生を終えようとする頃、3度目の応召で南方戦線に向かいます。ところが途中、東シナ海の屋久島付近で、米軍の攻撃で船が沈没して、亡くなってしまうのです。あの快投から10年後の1944年、沢村栄治27歳でした。
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 それから80年経った現在、名ピッチャーの沢村栄治を彷彿とさせる、大谷翔平がMLBでの信じられないほどの活躍を見せています。怒らせた人は多々いるでしょうけど、これほどアメリカ人、アメリカの野球フアンを熱狂させ、喜ばせた日本人は、この大谷翔平以外にはいないのではないでしょうか。衝撃的な活躍を見せ、今も、World Seriesの最中で、Toronto Blue Jaysと対戦中で、驚異的な投打二刀流で大活躍をしています。

 このような時の到来を、誰が予想したでしょうか。体力的にも態度にも、アメリカのMLBフアンが称賛し、高く評価するほどの選手の出現をです。94歳の電気店、ミシン店を経営してこられた方と、この月曜日にお会いしてお話をしました。市民大学で机を並べて学んだ同級生でもあり、自治会の元会長さんでもあるのです。この方が、31歳の大谷翔平を諸手をあげて誉めておいででした。

 アメリカのサンフランシスコと、カナダのトロントを、上の兄と一緒に 訪問した時に、教会の牧師さんが、それぞれ案内してくださって、大リーグのbaseballを観戦したことがありました。その折、二都市の球場で、それぞれ、もう引退したイチローと松井秀喜の活躍振りを観たのです。子どもの頃にも兄たちに連れて行ってもらって、後楽園球場で日本プロ野球の巨人戦を観戦したことがあります。その時も超満員だったので、いまのアメリカンリーグも同じです。沢村栄治や川上哲治、そして村上雅則、野茂英雄などの初期の選手がいて、今の大谷翔平、山本由伸らがいるMLBでの驚くべき活躍があるのでしょう。

 アメリカ人野球選手と比肩でき、彼ら以上に活躍する姿を、戦火に散った沢村栄治、その他の多くの戦死された職業野球人のみなさんは、想像もしえなかたことに違いありません。

(“ いらすとや“のピッチャー、”ウイキペディア“の沢村栄治、MLBのロゴマークスです)

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