そして今年も暮れていく

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 まだテレビのなかった、私たちの子ども時代、チャンバラごっこか相撲、地面に白墨で陣地を書いて、二組に分かれた宝島攻防戦か、ゴム毬に、棒っ切れに素手で、三角ベースを用意して、野球をするかでした。女子は、その脇で、ゴム飛びなんかしていたのです。けっこう楽しかったので、日が暮れて暗くなるのが悔しかったほどでした。

 集団遊びではやはり、その三角ベースボールが楽しかったのです。日本中の広場で行われていたでしょうか。娯楽の少ない時代に、プロ野球が盛んでした。紅梅とかカバヤの飴の箱に、野球選手やお相撲さんの写真のカードが入っていて、それを集めていたのです。野球選手には、川上、水原、小鶴、千葉、別別当などが有名で、あの時代にもプロ野球オタクがいたのです。

 ただのしかしで、それにしてもbaseballは面白かったのです。明治の時代に、今の東京大学と明治学院大学が試合をしています。当時は、欧米の技術が,怒涛のように入り込んで,お雇いの技術者や教師が大勢いて、野球も、明治維新前後に来日したアメリカ人やイギリス人が楽しんでいたのが、日本で行われて普及していきました。そう、野球は、その最たるものでした。

 野球は、アメリカ発祥のスポーツで、イギリスで、13世紀頃に、羊の牧場で行われていたボール競技、クリケットを母胎としていると言われ、瞬く間にアメリカで流行ったのです。アメリカ人のチーム同士で試合していたのが,高等教育の任に雇われた教員たちのリクレーションから,日本の学校にまたたく間に、日本で受け入れられたのです。

 その学校対抗戦で,波羅学校(明学大)のインブリーと言う教師が、塀を乗り越えて観戦に来たのを、第一高等中学校(東大)の学生が赦せずに,暴力を奮ったのです。それが国際問題に発展した「インブリー事件」が起きたのです。試合が始まっているのに、門が閉ざされていたからでした。1890年、血気盛んな応援団の暴挙でした。日米の国際紛争になりかけたのですが、若きインブリー教授が矛を収めたのです。

 令和の代、礼節に長け、いつも微笑み、感謝に溢れた野球小僧の大谷翔平が海を渡ったアメリカ大陸の球場で、プレイはもちろん,人となりが優れていて、どこでも絵になるプレイヤーです。警察警備犬にも一目置かれているのには、驚かされます。登場して,大活躍している昨今です。ただのゲームやショウではなく、野球愛に燃えた男の真剣な参戦です。

 なんか一人の好青年に、注目が集まりがちですが、それもあって野球って面白いスポーツに違いありません。マイナーなスポーツをした身には、なんの騒ぎもなかった日々を思い出してしまいます。

 それにしても,年末の29日です。母が割烹着を着て、姉さん被りをし、はたきと箒で、年末の大掃除をし、お節料理を作っている姿が、仕事納めの父が、家にドテッといる様子が思い出されてなりません。この父と次兄が、わが家では野球小僧でした。そして今年も暮れていきます。

(“ウイキペディア”による1894年の明治学院白金倶楽部のチーム写真です)

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