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中国の地方都市で過ごした間に、何度か、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいたり、語学留学の折の旅行で四川省の成都に出かけたりして観る機会がありました。この劇は、日本の「歌舞伎」に強く影響を与えたものなのだそうです。歌舞伎に「隈取(くまどり)」と言う、顔に赤や黒の墨を塗って演じる出し物がありますが、京劇も同じ様に顔に描くのです。
娘婿が、長野の県立高校で英語を教えていて、飯田市に住んでいた時だったでしょうか、南アルプスの近くの大鹿村で演じ続けられている「農村歌舞伎」を、次女に誘われて観たのが、最初の歌舞伎観劇でした。江戸や上方で上演して人気を博していた歌舞伎が、農民たちに感動を与えたのでしょうか、演目も衣装も舞台も真似て、農民のみなさんによって、三百年もの間、上演され続けて、武士の生き様に触れ続けてきたのです。
その時の演目は、「藤原伝授手習鑑 寺小屋の段」でした。主君の身代わりに死んでいく少年の心の動き、そうすることを義とする武士の生き方が演じられていて、驚かされたのです。と言うよりは、そう言った武士の生き方を、信州の山奥の片田舎で、農民のみなさんが涙ながらに演じ続けたということに驚いてしまったのです。
それが、日本の文化や伝統あって、武士とは面倒な身分だったのだと思わされたのです。華美でなく、無名の村人の役者の演じる伝統芸は、魅力的でした。車を運転できれば、また行って観たいほどです。
そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、中国のみなさんが言ったのを聞いて、『じゃあ、外国人に分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ない向こうでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ているのです。
長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんLでみました。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに演じ、観られ楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。
何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を観てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。
今、北関東の街に住んでいるのですが、県下の村でも、同じ様な農村歌舞伎があって、それが受け継がれているのだと聞いたことがあります。宇都宮藩の米所といって、主に藩主が食べたお米を災害していたのが、「西方(にしかた)」で、今でも、わざわざ米を買いに出かけるのだと聞きました。頂いて食べたことがありますが、本当に美味しいのです。
きっと、江戸や京都に出かけたみなさんが、歌舞伎を観劇して、感動を与えられて、『俺たちも!』と、大鹿や西方の様に、農村歌舞伎を演じ続けた村は、日本中に多くあったのでしょう。「文化」は、そういった風に作り上げられてきているのでしょう。今日日、日本を訪ねた欧米のみなさんが言う、「礼儀正しい日本人を、作り上げた一つの基盤が、そこにあったのでしょうか。
(“ウイキペディア”の大鹿歌舞伎、京劇の挿絵です)
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