歌舞伎と京劇

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 中国の地方都市で過ごした間に、何度か、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいたり、語学留学の折の旅行で四川省の成都に出かけたりして観る機会がありました。この劇は、日本の「歌舞伎」に強く影響を与えたものなのだそうです。歌舞伎に「隈取(くまどり)」と言う、顔に赤や黒の墨を塗って演じる出し物がありますが、京劇も同じ様に顔に描くのです。

 娘婿が、長野の県立高校で英語を教えていて、飯田市に住んでいた時だったでしょうか、南アルプスの近くの大鹿村で演じ続けられている「農村歌舞伎」を、次女に誘われて観たのが、最初の歌舞伎観劇でした。江戸や上方で上演して人気を博していた歌舞伎が、農民たちに感動を与えたのでしょうか、演目も衣装も舞台も真似て、農民のみなさんによって、三百年もの間、上演され続けて、武士の生き様に触れ続けてきたのです。

 その時の演目は、「藤原伝授手習鑑 寺小屋の段」でした。主君の身代わりに死んでいく少年の心の動き、そうすることを義とする武士の生き方が演じられていて、驚かされたのです。と言うよりは、そう言った武士の生き方を、信州の山奥の片田舎で、農民のみなさんが涙ながらに演じ続けたということに驚いてしまったのです。

 それが、日本の文化や伝統あって、武士とは面倒な身分だったのだと思わされたのです。華美でなく、無名の村人の役者の演じる伝統芸は、魅力的でした。車を運転できれば、また行って観たいほどです。

 そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、中国のみなさんが言ったのを聞いて、『じゃあ、外国人に分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ない向こうでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ているのです。

 長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんLでみました。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに演じ、観られ楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。

 何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を観てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。

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 今、北関東の街に住んでいるのですが、県下の村でも、同じ様な農村歌舞伎があって、それが受け継がれているのだと聞いたことがあります。宇都宮藩の米所といって、主に藩主が食べたお米を災害していたのが、「西方(にしかた)」で、今でも、わざわざ米を買いに出かけるのだと聞きました。頂いて食べたことがありますが、本当に美味しいのです。

 きっと、江戸や京都に出かけたみなさんが、歌舞伎を観劇して、感動を与えられて、『俺たちも!』と、大鹿や西方の様に、農村歌舞伎を演じ続けた村は、日本中に多くあったのでしょう。「文化」は、そういった風に作り上げられてきているのでしょう。今日日、日本を訪ねた欧米のみなさんが言う、「礼儀正しい日本人を、作り上げた一つの基盤が、そこにあったのでしょうか。

(“ウイキペディア”の大鹿歌舞伎、京劇の挿絵です)

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トマトと瀬面に

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 12月になりました。わが家族にとって、今月は4人の誕生月なのです。長女の主人、2人の孫、そして私です。暖かな冬に、驚かされていますが、今朝の天気予報ですと、今夕には大雪になると言っていました。

 そん中、わが家のベランダで、トマトは、大きくなっていて、もうミニトマトのサイズから、じょじょに大きさを増しているのです。赤く熟すかどうかが、目下の関心事です。また眼下の巴波川の波は、暖冬の陽を、キラキラと輝かせて、昨日は綺麗でした。

 また一才の歳が加えられますが、就学前の肺炎で、死の危機があったのに、この歳まで生かされてきました。母の篤い看病と祈りがあって、持ち直したのです。純毛の毛布を、生家に父が取りに行って、寒い冬を越せて、生き延びたのです。その毛布を、家から持ってきてもらったハサミで、切り刻んでしまったのだそうです。暇を持て余してでしょうか。

 熊の出没騒動、東南アジアの大雨被害の甚大さ、各地の地震と火事、戦争、地上は大きな問題を抱えていますが、これらの人的自然的な災害は、今後、どうなっていくのでしょうか。大いに心配なのです。祈るばかりの私の12月です。

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温かな手紙の紹介

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 よしおくんのおばあちゃんからの手紙への渥美清の返事

 「こんにちは。おばあちゃんからお手紙いただきました。僕は寅さんの映画に出ている、おじさんです。名前は渥美清といいます。よしお君は毎日元気でやってますか。

 僕は、今、こうやって元気そうに見えますけども、生まれたときはね、1900ぐらいしかなかったんです。お父さんの片っぽの手のひらの上にちょこんと乗っかったくらいに、それは小さな赤ん坊でした。あまり体が丈夫でなくて、小学校も休む日の方が多くてね、全部を通して、4年ぐらいしか行っておりません。

 いろんな病気をしました。ほとんど体操の時間は、一人ポツンと運動場に立って、みんなのことを見ている方が多かったです。それから大きくなって、25歳の時は、また病気をしました。これで死ぬか生きるかくらいの大きな手術をして、10日間ぐらいは、もう助からないんじゃないかなと言われるくらいに危篤でした。

 今でもあまり無理ができません。僕のことをいつもいつも最後まで心配してくれていたおふくろも、もういません。生まれた時から、親子4人きりの家族でしたが、一番初めにお兄ちゃんが、そしてお父さん、お母さん、みんな死んで、僕一人だけになりました。

 でも、体を大切にして一生懸命生きています。僕の体のことだけを家族の人は心配してくれました。だから、僕が自分の体を大切にするということは、僕の家族を大切にすることだと思っています。

 よしお君も、つらいことや、じれったいことや、悲しいことがたくさんあるでしょう。でも、もっとつらい人がいっぱいいます。おじさんは何年間か遠いところの療養所に入っていました。そのとき、そういう人をいっぱい見ました。それはもうきりがありません。

 おばあさんや、おうちの人の言うことをよく聞いてね、可愛がられるようにしてください。そして、楽しく元気に毎日を過ごしてください。

 おじさんも、映画やテレビに出るとき、よしお君のこと思い出します。わざわざお手紙をくださったおばあちゃん、それから一生懸命働いてるお父さんに、よしお君からよろしくお伝えください。それでは、さよなら」

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  これは、優しく温かな手紙ではないでしょうか。実は、渥美清の出演した映画は一度も観たことがありませんでした。ただ、YouTubeでは、第一作と第二作を観たのは、5年ほど前のことでした。主人公がテキ屋稼業だったので、教会に真面目に行き始めた頃でしたから、敷居が高くて行かずじまいだったからです。

 日本人の善意や哀感が溢れていて、オッチョコチョイの車寅次郎の人とが出会い、とくに人気女優がマドンナとして登場し、有名男優が脇役で登場するのが、鍵の様な映画なのです。それに、日本各地を旅をするのと、昭和の時代の風景が映し出されていて、懐かしさに誘ってくれるのも味噌の様です。

 渥美清は、アフリカ撮影で出掛けた先から、お母さんにアタて手紙が残っているのです。

『拝啓、おふくろさま。僕元気!』

 この簡潔な便りを、中国の日本語を学ぶ中国の学生さんに紹介して、作文を書いてもらったことがありました。病弱な清少年を、支えてくれたお母さんへの感謝が、遠いアフリカに出かけている自分を心配しているだろうと思って、そんな感情が溢れていて、実に素晴らしい便りで、感動していた私は、少ない言葉で、想いを伝える術のあることを、学生さんたちに知って欲しかったのです。

 そうすると渥美清は、名優と言うだけではなく、巧みな手紙の差出人でもあるのです。惜しまれて亡くなられた俳優さんでした。よしお君は、どんな想いで、この返事をおばあさんの朗読で聞いたのでしょうか。こんな手紙を書いてみたいものだと、今も思うのです。

(“いらすとや“のおばあちゃんとアフリカのキリンです)

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観天望気

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 『弁当忘れても、傘忘れるな!』、新潟に行った時に、地元の人からそう聞いたのです。天気予報を聞かなくても、雨の多い地域では、いつ雨が降ってもよい様に、傘持参で外出する様にとの日本海側の街や村で生きていくための勧めです。この地域に降る雨に濡れると、身体を壊しやすいからでしょうか。ところが、アメリカの西海岸で生活する次女家族は、ここに訪ねてくると、小雨程度では、決して傘などささないのです。

 雨降りの多い地では、天気の変化を気遣う必要を感じないからです。もう初冬ですが、秋の天気は、男心の様に変わりやすいのだとか言うそうで、一昨日の夕焼けで、西の空が赤くて綺麗でした。だからでしょうか、朝のうち晴れていたのに、9時近くになると雲が出て来て、曇ってきてしまいました。布団干しには困ったことです。

 子どもの頃に、夕焼けが綺麗だと、明日は晴れるだろうと言うのを聞いて、そうだったのを思い出します。ここに住み始めて7年ほどになりますが、西の大平山に雲がかかったり、また北の男体山に雲がかかると、さらに東の筑波の峰に虹が見えると、天気の変化があるのだそうです。

 ラジオで、今ではネットで天気予報を見聞きできるのですが、雲の動きや山の見え方などで、次の日の天気を知ることにできることに感謝ばかりです。田んぼのカエルの鳴く声だって、雨模様のサインだったわけです。そう言うのを、「観天望気」と言うのだそうです。昔の人は、今よりも季節の移ろいに敏感だったのです。農作業などは、決まった時期に咲く花によって、種まきや刈り入れの時期を決めたりした様です。また猟で獲物を獲ったりするには、気候の変化、雲の動きなどを知ることが重要だったのでしょう。漆を木の器に塗る作業だって、湿度のあるなしで決めていたそ様です。みんな天気と深く関わり合っていたわけです。

 中国大陸を、長大な揚子江と黄河が流れていますが、その「黄河」の中流から下流あたり、誇り高い「黄河文明」の中心を、「中原(ちゅうげん)」と呼んでいます。みなさんは中華文明の発祥地だと誇り高く言うのですが、河南省の鄭州市辺りにあたるのです。その地域の気候の一年の太陽の動き、移り変わりを、二十四に区分して、「二十四節気(にじゅうしせっき)」と言います。

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 私たちの国でも、それに倣って、立春、春分、夏至、冬至とか言って、季節の節目を大切に感じているのです。もう来週は、「小寒(12月5日)」になります。今日あたりの巴波川には、チョコっと流れの畔を歩いて目に入った鴨の数は、百匹ほどだったでしょうか。暑さを避けて、生まれ故郷で夏を過ごして、秋になって帰って来た鴨は、その移動のために、季節の動きをよく知っているのだと感心してしまいます。

 黄河下流域と私たちの住む日本とは位置が違いますが、北から南に長い列島の中で、気候は随分と黄河中流地域とは違うのです。今夏など、日本全土は、9月になっても猛暑に襲われたのですが、やっと秋から冬の天候になって、酷暑だったのを知らない鴨たちは、深まりゆく秋、やってくる日本の冬を謳歌するのでしょう。高温記録を更新しているチグハグさを感じてしまう、昨今の気象です。来年は、どうなるのでしょうか。杞憂だとよいのですが。

(“ウイキペディア“の華北中原の冬、巴波川の鴨です)

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こんな人がいました

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『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。(新改訳聖書 エレミヤ31章4節)』

 捕囚の民となって、異国に連れて行かれても、父祖に約束された地、カナンに帰って来られるのです。だから今は泣いていても、やがて笑える時が来るという、主の約束のことばを、ユダヤ人は信じ続けています。イスラエルの人たちは、国を追われ異国に住んで、どこででも嫌われてきています。それでも自分たちの民族のアイデンティティを失わず、住み着いた地で、宗教的に同化しなかったので、受け入れられずに嫌われたのです。だから神には認められていました。

 しばらく私たちが過ごした中国にある開封、上海、ハルピンの市街地に、ユダヤ民族のコミニティーがあるのですが、その中で、開封から教え子が来ていたことがあって、遊びに来るように誘われながら、帰国してしまっていたのです。聖書の神に約束された民で、虐げられ、迫害され、嫌われ続けてきた民ですが、神の約束にしがみつきながら生き続けてきた民の子孫で、笑える日が来ることを、彼らは待ち望んでいたのです。

 日本人の中にも、ユダ人の子孫だと主張する人たちがいます。「日ユ(猶太のユ)同祖論者」で、失われたユダヤ十部属の末裔だと信じているのです。皇室にあって、天皇の祖もユダヤ人であり、皇室伝播の諸行事の中に、ユダヤ的なものが残されていると、主張する方もいるのです。

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 日本の軍人の中に、樋口季一郎という方がいました。私の祖父の世代になる方で、戦時下、大陸で、30000人以上のユダヤ人亡命者を助けておられます。その数は、リトアニアの日本領事館で勤務していた、難民に査証を発行した杉原千畝よりも、はるかに多くのユダヤ人だったのです。

 旧ソ連と中国の国境に、オトポールという街があり、中国側には満州里が接しています。そのオトポールに、多くのユダヤ人の難民が逃れて来たのです。1938(昭和13)年3月8日、樋口は、その情報を聞きます。人道的には救助したかった樋口は、自分は軍人であって、同情だけの行動を躊躇したのです。慎重を期して考えた挙句、軍人としての地位からの失脚も覚悟してしまいます。

 そこで、ユダヤ人救出を決意し、食料や衣服の手配する様に、部下に指示を与えました。上海に向けて、南満州鉄道の特別列車を出す様に要請し、それが実現したのです。そして3月12日、その列車で、ハルピンに到着したユダヤ人に、査証(visa)が発行されます。杉原千畝が、リトアニアで発行した「命のビザ」よりも2年ほど前のことでした。

『いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカ6章21節)』

 無事に逃れ切った多くのユダヤ人は、ナチスドイツの図ったユダヤ人撲滅運動から逃れることができたのです。樋口季一郎は、陸軍中将の身分で、敗戦を迎えます。樋口に対し戦犯としての訴えを、ソ連は要求しました。戦前、特務機関員としてソ連に滞在していたことがあったので、ソ連は、「スパイ罪」を突きつけるつもりでいました。

 その危機を救ったのが、樋口に命を救われたユダヤ人たちでした。世界ユダヤ協会(本部はニューヨーク)は、素早く動いて画策するのです。ソ連の要求を飲まない様にするために、アメリカ国防総省に訴えたのです。それで、樋口に対する戦犯とするソ連の画策が終わります。あの狂乱の戦時下に、こんな行動の人がいたということは、素晴らしいことではないでしょうか。

 ユダヤ人は、よくても悪く言われても、神の選民なのです。私は、エルサレムの平和を祈っています。聖書が、そう記しているからです。そして、キリストの教会とユダヤ人のためにも祈ります。双方とも、神の民であり、神さまの愛の対象であるからです。整えられて、救い主イエスさまのおいでを待ちたいのです。

(“ウイキペディア“のイチジクの葉、ハルピン駅です)

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恩師の誕生日に

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 日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の前線に送り出された、竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。

 『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力な”ダイアレクテシャン(弁証理論家)”であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』

 また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて、家路についた信徒たちの後を帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』と祈ったと言われています。いかに彼が主の前で、謙虚であろうとしたかが分ります。

 説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄、人の思いが省かれているのです。

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 みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本を著わすためには、編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。この竹森牧師も、カルヴァンに学んだ教役者でした。

 ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。半世紀近くが経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。

 『あなたの説教は面白くない。A牧師の様に説教をしてください!』と迫った信者さんがいます。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのですから、落語会か寄席に行かれた方がいいのではないでしょうか。説教は、時事講話でも漫談でも、自分の神学を語るのではなく、「いのち」を求めて来会される方に「いのちのみことば」を、分かつ霊的作業なのであります。

 説教の機会を与えられて、講壇に立って、初めて聖書から話をした時のことです。それを聞いていた宣教師さんは、二人きりの時に、説教の内容については一言も言いませんでしたが、態度と技巧について、けっこう厳しく批評をして下さったのです。それを忘れません。この方が、熊本においでの時に、献身するかどうかをテストされるために、結婚したての家内と訪ねました。

その時、キャンプ場の夏季聖書キャンプで初めて説教の機会が与えられたのです。その時は一言も批評されませんでしたが、開拓伝道を始めて間もない頃の最初の説教の後でした。そう言われた日を、また思い出したのです。この方は、素晴らしい聖書教師、説教者でした。今日は、Thanks giving day、その宣教師さんの誕生日です。

(“ウイキペディア”によるジュネーブの様子、恩師の古里の特産品の桃です)

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ただ感謝する今を

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 戦国の悲運の武将、真田幸村が、こんなことを言い残しています。

「定め無き浮世ニて候へば、一日さきハ不知事候。我々事などハ、浮世にあるものとハおぼしめし候まじく候(運命の定まるところのないこの浮世のことですから、一日先のことはわかりませぬ。我々などはもう浮世に在るものと思われないようになさって下さい。(出典 上田情報ライブラリー )」

 浮世、今生の世のことを言うのでしょうか、そこには何時までもはいられずに、必ず去らねばならないと、戦国の名武将の真田幸村(信繁)は嘆いています。運命に従わなければならない、自分の一生なのでしょう。明日のことは知る由もなく、皆目分からないのです。幸村は、そんな一生を忘れ去って欲しかったのでしょうか。亡くなったら、自分なんかいなかったと思っていいですよ、と言ってる様です。

 関ケ原の戦いで西軍に加わって敗れてしまいました。家康は、幸村を死なせないで、高野山へ幽閉させるのです。彼はお父さんの昌幸と二人で、そこにいました。妻を娶り、子が与えられて家庭生活を許され、高野山の麓の部落に住み着いたのです。兄の信之らからの仕送りでの生活は厳しかったそうで、援助をたびたび願う手紙を出しています。

 十数年、そこでお父さんは、志半ばで死んでいきます。大坂夏の陣が始まると、幸村は戦場に駆けつけるのですが、戦死してしまうのです。信州上田に生まれ、最後には異国に住み、戦さで果てた悲運の武将だったわけです。その生き様を思うと、昭和の平和な時代に生まれ、今、令和の時代を生きられて幸せなのかも知れません。聖書は、次の様に記します。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(新改訳聖書 詩篇90篇10節)』 

 過ごした年月を思い返して、アッという間に年月は過ぎ去り、飛び去っての今です。自分の一生が、不思議なものであったことを思い返し、一日たりとも、一時たりとも偶然はなく、いのちを付与してくださった創造主に導かれてきたのです。人と機会とに出会って、あちこちと動き回って、北関東の静かな街に住み着いて、ここでも多くの人と出会ってきました。

 そして、これまで関わってきた人たちとの死別が時々あり、人生の短さを痛切に感じてしまう年齢になってきました。人は亡くなると、告別式が行われ、故人の遺徳や思い出が語られるのです。みなさんが善人として一生を過ごしているのでしょうか。汚職、選挙違反、家庭を顧みない、ふしだらの行状、税金の不正申告などの過去を持ち、どうでなくても不満ばかりの一生だった人が亡くなって、その方への弔辞を聞いて、時には、『ウソだ!』と思っている弔問客が多くおいでなのではないでしょうか。

 ところが、好々爺だった晩年に知り合った、過去や真実を知らない人は、『素晴らしい人生を生きたのですね!』と、隣席の方に言っています。スクリーンに映し出された故人の写真は、どうも苦笑いしているのでないでしょうか。なぜ笑ってるのかと言うと、そうではなかったからです。

 被害者は、鞭打ちたいほどに憎い相手なのに、死んでもらって、ホッとしている人だっておいでです。なぜ日本人は、死んでしまうと、みんな善人になってしまい、神や仏になってしまうのでしょうか。と言うよりは、悪い過去は封印してしまい、触れないのです。だから故意に、そう「してしまう」のわけです。過去はともかく、日本人は、みんな成仏して冥土に行けるとになっているのです。

 きっと葬送する人が、自分の時を迎えたら、悪口や真実を語らないで、良い人で、極楽往生したいから、美辞麗句をならべるのでしょう。秀吉は、「浮世のことは夢」だと言う辞世の句を詠んだのですが、どうして善いことばかりではなく、辛いことも暗いことばかりなのに、死んでしまうと、褒められてしまうのでしょうか。真実を知る人にとっても、被害を被った人、貶め入れられた人、痛烈に嘘で訴えられた過去を過ごした人がいるのにです。

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 今改めて、自分の最後について、子どもたちに思いを書き記しておこうと思っています。失敗や行き過ぎが多く、短気で、すぐに怒ってしまい、それて最悪なのは、一晩眠ってしまうと、したことを都合よく忘れててしまうのです。ちっとも良い夫や父親でなかったこと、『善い人でした!』なんて言われたくないのです。それでも、赦されて、精一杯生きてこられたのです。

 それで、葬儀不要、墓不要、持ち物は全部廃棄、骨は粉末にして眼下の川に流すこと、これらを守って欲しいだけなのです。総合的に思い返しますと、いい人生だったと思うのです。思い置くことは多くないので、召される日まで、生かされ、赦されて、みなさんには、もう少し我慢をしていただこうと願うばかりなのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新改訳聖書 1ヨハネ1章9節)』

 ただ憐れみ深い父なる神さまに罪赦されて、ここまで生かされてきました。この不動の確信を、主イエスさまが与えてくださって、聖霊なる神さまが、その証印を押して下さって、今があります。それだけで他は要りません。ただ感謝あるのみなのです。

(“いらすとや“ のありがとうのイラスト、朝まだき巴波川です)

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新蕎麦を食べに行く

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 うずま公園の落ち葉の掃除を、朝7時30分に始めて、きれいにしてから家に帰り、11時過ぎに、知人が車で迎えに来て下さって、ラジオ体操仲間のみなさんは市営バスに乗って、出流山の麓の蕎麦屋さんに、他のみなさんはふれあいバスに乗って、総勢14人ほどで行きました。

 蕎麦粉を打って、茹で上げられた「新蕎麦」に、秋野菜の天麩羅、煮しめ、ゆず大根の漬物で、蕎麦会がもたれたのです。秋の味覚を堪能したお昼でした。毎年秋の恒例行事で、ほぼ同じメンバーの参加だったのです。

 今では、栃木市になっていますが、かつては鍋山村と呼ばれ、幕末の変動の時期には、名が上がった出流山万願寺の山門近くで、お蕎麦屋さんが何軒も軒を連ねていて、秋蕎麦を提供しているのです。

 近くは、石灰石が算出されていて、旧国鉄の両毛線の栃木駅へ10kmの距離を、石灰が人力鉄路で搬出されていたのです。今では大型のダンプカーがとって代わって、運び出されていて、時々、行き合うのです。柚子のお土産を、お店に店長さんに頂いて帰路につきました。紅葉と蕎麦は秋の味覚、見覚の遠足でした。

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秋トマトが育って

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 猛烈な暑さがおさまりかけた頃でした、咲き終わった鉢から芽が出てきて、そんなに気に留めなかったのですが、スクスク育っていくではありませんか。緑色の草が大きくなると、なんだかトマトの様な葉を見せて来たのです。その葉の匂いを嗅いで見ると、まさしくトマトでした。

 その枝の先に、黄色い花が咲き始めたのです。しばらく経つと、丸い実ができ始め、少しずつ大きさを増していくではありませんか。11月16日、今朝ベランダに出てみると、ミニトマトほどの丸みをおびた緑色の実に生長しているのです。

 今朝6時の気温は、6℃の中、しっかりとした実が目に入り、スマホを取り出してきて撮影してみました。はたして、霜が降る前に、赤みを着くでしょうか。寒い地域だと、今朝はもう零下5℃だ、とのニュースを聞きましたから、赤く熟すことはないのでしょう。でもしっかり鉢の土に、根を張っているのが分かります。始まりは細っピーの枝でしたが、今では、しっかり土を掴まえていて、離しません。

 その生き生きとしたトマト を眺めると、真っ青な、未熟な頃の自分を思い出してしまっているのです。背伸びの時期でしょう。中学3年間の担任が、髭の濃い先生で、『男は、髭の剃り跡の青さが紋章なんだ。男の子は髭の濃い男になりなさい。女性にモテる様にもなるから!』と言ったことがあって、なおさらそうなりたかったのです。それと、父の様な髭の濃い男になりたくて、風呂に入る度に、父の安全剃刀で、鼻の下や顎を、父がしている様に剃ったのです。ちょっと大人になった様な、背伸びをした気持ちを楽しんでいたのでしょう。

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 その剃刀は、フェザー製の刃で、父は、髭剃りを終えると、ガラスコップの中に水滴をつけて、右手の人差し指で、丸みに合わせて左右に動かして、その刃を磨き研ぐのです。あんなに大事に、一枚の歯を指にして、手入れをして、物を大切にするんだと思って感心したのを思い出します。どうも父には届かずの今です。

 中1の夏に、臨海学校に行った時、級友たちと一緒に風呂に入った時、体格の大きな同級生は、もう生えていて、自分が遅れている様に感じて、劣等感に苛まれていました。それでもケンカだけは強かったのです。チビで奥手の自分だったのに、それでも、いつも間にか、性徴期を迎えたのでしょう、上と下と脇の下に体毛が生えてきたのです。

 そんな思春期があって、青い子が、黒ずんできて、大人の仲間入りは複雑な思いでした。ベランダの青いトマトと、十代初めの自分がoverlapしてきてしまいました。間もなく本格的な冬がくることでしょう。冬用の上着などを、ちょうど昨日出したところです。

(“いらすとや”のトマトです)

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足尾への周遊の遠足で

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 秋晴れで暖かな昨日、日光周辺への小遠足をしてきました。朝8時に家を出て、栃木駅に着き、東武日光線で、東武日光線駅まで急行電車に乗車したのです。駅前から、足尾行きの市営バスに乗り、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅前で下車しました。駅横のベンチで、早めの昼食を摂ったのです。そして、そこから電車でJR両毛線の桐生駅に行き、栃木駅に帰る一日遠足でした。

 日光駅からの市営の小型バスは混んでいて、家内だけの空席があったのですが、私は座れませんでした。まあいいかで、家内の横に立ったのです。すると一人の男の人が、席から立ったではありませんか。中学生ほどの男の子を連れたご両親の一行でした。押し問答をしたのですが、この方が『没問題(OK! 構いません)』と立って、席を譲ってくれたのです。通常ですと、この場面では、座ってる方は、スマホや車外に目を向けたまま、無視を決め込むのですが、私の目を見て席を譲ってくれました。

 中国人のご家族でしたので、中国語で感謝をしたのです。そこで、どこから来られたのかを聞きましたら、『我们広東来了!』と答えてくれたのです。中国の南の広州省の省都で、『行ったことがあります!』と話して、しばらく会話をしました。

 私たちが、中国に行きましたのが、60を過ぎてからでした。初老の私たちがバスに乗り込むと、すぐに何も言わないで、若者のみなさんは、席を立ってくれて、『坐吧zuoba お掛け下さい!』と席を譲ってくれたのです。しかもいっせいにでした。『谢谢xiexie 』と言って、いつも座らせてもらったのです。

 中国人のみなさんは外国に来ても同じなのです。敬老の思いが強いからです。途中で、席を代わろうと言ったのですが、手を横に振って座ろうとはしませんでした。横で、奥さんはニコニコと眺めておいででした。足尾地内に入ってから、途中で降りて行かれたので、家内は、『一路平安 yilupingan 旅のご無事を!』と言って見送っていました。

 日光から足尾への道筋で、中国人魂に触れて、13年過ごした中国での出会いや出来事や交わりを、懐かしく思い出した、バス車内での一時でした。旅行中の外国の方に、そんな親切を受けて、なんとも気分の良い晩秋の遠足でした。

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 乗車した「わたらせ渓谷鉄道」は、元は国鉄線で、それ以前は足尾銅山の銅鉱石の搬出鉄道でした。初期は人車、馬車による鉄路で、鉱夫のみなさんや食糧物資の搬送にも使われていた様です。鉱山が盛況の頃には、この足尾は、宇都宮に次ぐ人口の町だったそうです。中国や朝鮮半島からやって来て、鉱山で採鉱に従事していた方たちが多かったのです。精錬された銅は、年間6000トンほどもあった様です。悲喜交交(ひきこもごも)、さまざまな人生劇が繰り広げられ、日本勃興期、近代化に役割を果たした町だった様です。その歴史の一ページを記したことになる町です。

 秋の旅行シーズンで、一輌だけの電車は混んでいました。沿線の紅葉も見事で、しかも晴れ渡った秋晴れで一入美しかったのです。旅行シーズンでも電車の運行は、単線でしたので、駅での停車時間が長めで、ローカル電車の趣にあふれていて、平常は運転手さんだけでの運行なのですが、シーズンでしたので車掌さんも乗車していて、切符の精算だけではなく、記念品の販売の売り子さんも兼ねていて、これまた地方色を感じられたのです。

 家を出て、電車とバスの利用の一日で、周遊ということで途中下車なしで、それでも7時間ほどの遠足だったのです。秋の陽を浴び、心も体も温もって、家内は満足そうに、来県以来初めての小遠足に疲れたのか、もう座席に暖房も入っていましたし、心地よい揺れもあって、転寝(うたたね)三昧(ざんまい)の遠足後半でした。また遠足しようね、の感謝の一日でした。