.
.
まだ2月の初め、まだまだ寒波の影響が強い日本海側や北海道や東北地方は、雪害だと報じられているのに、もう歌っていいでしょうか。春の訪れを待ち望む想いは、どこにいても同じですから、小学校の音楽の時間に、先生のオルガンの音に合わせて、思いっきり歌った思い出の歌なのです。
1. 春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色うつくしく
咲いているねと、ささやきながら
2. 春の小川は、さらさら行くよ
えびやめだかや、小鮒の群れに
今日も一日ひなたでおよぎ
遊べ遊べと、ささやきながら
どなたも、歌った覚えがおありでしょうか、今ごろに一番ふさわしい歌なのではないでしょうか。
赤坂東宮御所に、徳仁さまが皇太子時代にお住まいだった頃のお話です。結婚されて、待ち望まれてお生まれになられた愛子さんが、4歳ほどの頃のことです。お住まいのカーテンをそっと開けて、外を見ておられました。体調が思わしくなくて、外に出られず、室の中にいた時のことでした。
そんな愛子さまの背中を見ていたお世話係の方が、可哀想に感じたのでしょう、外に出てから帰ってきました。『春をお部屋に持ってきましたよ!』と言って、テッシュに包んだ小さな花束を愛子さまに手渡されたそうです。時間を持て余して、手もちぶさたをしている愛子さんに、庭に咲いている花、タンポポとスミレ、そしてネモフィラを摘んで届けたのです。
わが家では、この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!』と大声で言って出掛けて行った日々がありました。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩、住宅地を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。白雪の山から吹き降ろす山おろしが、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。
一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。それを『お母さん!』と言って手渡していたのです。
東宮御所では、お世話をされるKさんが花を積んで、愛子さんに手渡したのです。すると愛子さんは、『わあきれい、ありがとう!』と感謝したのだそうです。このKさんは、昭和、平成、令和と、宮内庁職員として仕えてこられた方で、幼い愛子さんが安心できる存在だったのです。
40年ほど、そうして御所の雑務に仕えてこられたのです。雨が降ると、お出かけの主人の家族にさっと傘を差し出し、庭の手入れをして過ごされてきておいででした。時が経って、その方が退職されることになりました。忠実なお仕事をされて、職員の間で尊敬を集めておられたかたでした。このKさんのために退職祝いの会が開かれました。
皇族方も集まられて会が催されたのです。その集まりに、すでに二十歳になられた愛子さんが出席されておいででした。一通の手紙をしたためて、そっと、この方に手渡されたのです。そして、その会のもた
れていた部屋から出ていかれたそうです。公務が待っていたからです。
その手紙には、次の様な感謝の言葉が綴られていました。『長年、私たち家族を支えて来てくださったことを、決して忘れません。』、『私が外で遊べなかった日、そっと花束を手渡してくださいました。自分のために何かをしてくださる方がいると初めて、その時知りました。』、それは、この方の思いやりへの感謝でした。
『しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに、仕える者になりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新改訳聖書10章43、45節)』
さらに、『あの時のお花の匂いは、今でも覚えています。あの花束が一番嬉しかったのです!』、家には、たくさん部屋はある中で、自分が戻っていられる空間が、この部屋、この方との交わりだったのだとも述懐しています。『Kさんのように、静かに人を支えられる人でありたいと思っています。目立たないで、人の前に出ず、ただそっと苦しみや不安の中にいる人を受け止められる人でありたいのです!』と、大人になった愛子さんは、そんなことを綴ったのです。
この手紙に、そのご家族に仕えたKさんは、『自分の仕事が、誰かの心に残っていた、それがだけで十分すぎるほどです。』、これこそが、「沈黙の哲学」なのです。言葉で示すことでも、行動でもなく、背中で示す生き方、仕えた姿勢です。
(知人が送信してくださった「コスミレ」です)
.
