創作四字熟語

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 千代田生命が企画し、募集した「創作四字熟語」が、世相を四字で言い表す、漢字力が素晴らしいと思います。中国で生まれた漢字には、興味が尽きません。日本で生まれた漢字も熟語もあるのです。サイトにあった、30年間の最高傑作です。中学一年の国語の時間に、「呉越同舟」と言う四字熟語を学んだのを覚えています。2022年は「遠客再来」でした。旅行や宿泊の支援があって、遠くへの旅が再開したからです。

2019年(平成31年)
(令和元年)
「国祭令和」(こくさいれいわ)国際平和新元号「令和」に変わり、国中がお祭りムードに。社会
2018年(平成30年)
「台量発生」(たいりょうはっせい)大量発生台風が多発し、次々と日本列島に襲いかかった。社会
2017年(平成29年)
「棋聡天才」(きそうてんさい)奇想天外将棋の天才、藤井聡太棋士。文化スポーツ
2016年(平成28年)
「四士奮銀」(ししふんぎん)獅子奮迅五輪陸上男子400mリレーで、日本チームが銀メダルを獲得。文化スポーツ
2015年(平成27年)
「仮装狂騒」(かそうきょうそう)仮装競争年々盛んになるハロウィーンイベント。社会
2014年(平成26年)
「用意終活」(よういしゅうかつ)用意周到死後のことまで生前に準備する。社会
2013年(平成25年)
「凍庫写寝」(とうこしゃしん)投稿写真悪ふざけ写真のネット投稿が頻発。社会
2012年(平成24年)
「税途多難」(ぜいとたなん)前途多難消費増税や復興税の使途により政治混乱。政治経済
2011年(平成23年)
「帰路騒然」(きろそうぜん)理路整然大地震や台風で帰宅困難に。社会
2010年(平成22年)
「諸牛無情」(しょぎゅうむじょう)諸行無常口蹄疫の感染拡大防止のため、大量の牛を処分する非常な事態となった。社会
2009年(平成21年)
「遠奔千走」(とおほんせんそう)東奔西走土日休日の高速道路料金が遠くまで走っても千円に!!政治経済
2008年(平成20年)
「苦労長寿」(くろうちょうじゅ)不老長寿後期高齢者医療制度。長寿医療制度という愛称もむなしく何かと不評。政治経済
2007年(平成19年)
「医師薄寂」(いしはくじゃく)意志薄弱医師不足による急患問題。政治経済
2006年(平成18年)
「住人怒色」(じゅうにんどいろ)十人十色耐震強度を偽装した建物とは知らずに買った住人、怒りの色は隠せない。社会
2005年(平成17年)
「無職無習」(むしょくむしゅう)無色無臭ニートの増加は大きな社会問題に。社会
2004年(平成16年)
「様様様様」(よんさま)ヨン様ヨン様!流行芸能
2003年(平成15年)
「八方取税」(はっぽうしゅぜい)発泡酒税あらゆる所から税金を取ろうと、発泡酒も増税。庶民は泣きました。政治経済
2002年(平成14年)
「日本熱闘」(にっぽんねっとう)日本列島サッカーW杯では日本全国が熱くなった!文化スポーツ
2001年(平成13年)
「万国胸痛」(ばんこくきょうつう)万国共通米国でのテロ、それに対する報復。世界はどちらにも胸を痛めている。国際情勢
2000年(平成12年)
「圏外孤独」(けんがいこどく)天涯孤独いつも携帯電話でコミュニケーションをとっている人にとって、圏外になった時の孤独感はひとしお。社会
1999年(平成11年)
「着歌繚乱」(ちゃっかりょうらん)百花繚乱街にでるとあちらこちらからケータイの着メロが賑やかに乱れ飛んでくる。流行芸能
1998年(平成10年)
「倒行巨費」(とうこうきょひ)登校拒否倒れる金融機関に巨額な公的資金を投入すること。政治経済
1997年(平成9年)
「靴下象様」(かかぞうよう)隔靴掻痒ルーズソックス。流行芸能
1996年(平成8年)
「高官無恥」(こうかんむち)厚顔無恥官僚のスキャンダル。政治経済
1995年(平成7年)
「震傷膨大」(しんしょうぼうだい)針小棒大阪神・淡路大震災は人々の心にも大きな傷を残した。社会
1994年(平成6年)
「政転辟易」(せいてんへきえき)青天霹靂青天の霹靂で首相になった村山さん。国民を辟易させないよう宜しくお願いします。政治経済
1993年(平成5年)
「扇扇狂狂」(せんせんきょうきょう)戦戦兢兢扇子を持って踊り狂うお立ち台ギャル。流行芸能
1992年(平成4年)
「紫煙楚歌」(しえんそか)四面楚歌フランスで禁煙令が施行され、日本でも禁煙ムードが高まった。国際情勢
1991年(平成3年)
「台風逸果」(たいふういっか)台風一過度重なる台風により、出荷目前の果実が多数落下した。社会
1990年(平成2年)
「異旗統合」(いきとうごう)意気投合東西ドイツ統合。国際情勢
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雪を詠む

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 あの正岡子規が、34歳で早逝していたことを知って、驚いてしまったことがありました。写真で、子規の容貌を見て、六十近い初老の顔を覚えていたからです。俳句を読んでも、老成した枯れた俳人の句だとばかり思っていたこともあって、意外だったのです。この時季を詠んだのでしょうか、次のような子規の俳句が残っています。

いくたびも 雪の深さを たずねけり

 「不如帰」と書いて、ホトトギスと読ませるのですが、この俳人は、自分の俳号を「子規」にしました。「hototogisu」と入力しますと、漢字の候補に「子規」が出てきます。「鳴いて血を吐く ホトトギス」と言われるように、このホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血を 吐いているように見えるわけです。このことについて、ウイキペディアに次のようにあります。

中国の故事「杜鵑の吐血」にちなむ。長江流域に(秦以前にあった)という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀がによって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず/帰ることが出来ない)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」のだそうです。

 正岡子規は、「野球」を好んで、その普及に尽力したスポーツマンで、「打者」、「走者」、「四球」、「直球」などの野球用語を英語から翻訳した人でもありました。しかし、22歳の時に喀血し、結核に罹ってしまうのです。それで、「子規」と号しています。当時、結核は不治の病だったので、一旦罹ると、それは死を意味していたのです。

 上にあげました、俳句ですが、大雪が降った日のことです。床に伏せている子規は、外出することなどできませんでした。ただ思いの中で、降り積もった雪の深さを、何度も何度も確かめるように、思い続けていたに違いありません。それとも家人に、雪の量を尋ねたのかも知れません。

これがまあ ついの栖(すみか)か 雪五尺   一茶

 五尺も積もる雪深い地で、一茶は晩年を過ごし、死期を感じたのでしょうか。昨年末は、寒波襲来で、日本海側の北陸、東北、北海道の降雪は、記録的だとニュースが伝えていました。ここ栃木県も、奥日光や那須では、雪が深く積もっているのです。それに比べ、関東平野の奥に位置する栃木市のわが家では、日差しが差し込んで、陽が落ちるまで暖房なしで過ごせるのです。子どもの頃を過ごした街や村でよく雪が降って、雪合戦やソリなどの遊びを楽しんだのを思い出します。

(村田収の描いた雪の風景です)

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エルサレムの平和を祈る

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 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。  おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 (詩篇122篇6~7節)』

 『終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。(2テモテ3:1)』と聖書にあります。今、世界を見回してみますと、「困難な時代」の到来に違いありません。強権を握った独裁者の新たな台頭、世界と主要国の内的分断、世界の国々の左傾化と他方で右傾化、ロシアによるウクライナ侵略戦争、人権の侵害、神の定めた秩序への反逆、男女の違いがボケてきたこととおかしな権利主張、さらには地震の頻発、原子炉や核爆弾の脅威、気象異常による風水害、地殻変動による地震、温暖化による氷河の溶解、食料の毒化、人の愛の冷化、人間不信、家庭崩壊、疫病の世界大の感染、医療に限界、などなどがあって、聖書が警告していることが起こっています。

 混迷の時代、不安の時代、恐怖の時代の真っ只中に、世界が置かれ、一人一人がいます。これからの時代、世界は、そして人はどうなっていくのでしょうか。イエスさまは、弟子たちの「終わりの日の前兆」、「主の再臨」についての質問に答えて、次の様に言われました。

 『イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21:811)』

 「神の都」と呼ばれたエルサレムについて、イエスさまは、続けて次の様に言われました。

 『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21:20)』

 2000年の時を経て、世界中に散らされたユダ人たちは、Zionism と言った、『エホバなる神が父祖に約束された地に帰ろう!』との願いが、散らされていた地のユダヤ人たちに、一様に起こったのです。族長のアブラハムと契約を結ばれた主なる神さまによって、イスラエルが復興させられて、1948年に、国として建国させられました。

 今やウクライナ戦争に向けられたロシアの銃口は、究極的には、イスラエルに向けて銃火を吹こうとする前触れなのでしょう。建国以降、イギリスやアメリカは、イスラエルを助けて、今日に至っています。やがて国力を弱めていくアメリカは、経済的にも軍事的にも助ける力を失くす時がきます。ところが、

 『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者(イザヤ41:14)』

 「わたし」とおっしゃる神さまが、天の万軍を率いて、直接、このイスラエルを助ける日が来ます。北からの連合軍は、その日一日で滅びてしまいます。これは、聖書に預言されたことなのです。

 「エルサレレムの平和」、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平安)」を求め祈れと、天に高く上げられた神さまが命じられて、2023年を迎えました。主の御名があがめられますように!

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この一年に

 


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 ペットボトルの水をもたずに散歩を始めて、途中で、美味しいコーヒーを飲みました。一杯120円で、20円値上げされていました。また両毛線の線路脇で、健気に咲くタンポポの姿に元気付けられたのです。無人野菜販売小屋をのぞいたのですが、小銭がなくて、手に取っただけでした。よく歩いた一年でした。

 三百六十五日が一日の様に、主に守られて、平穏に過ごすことができて、私たちは大晦日を迎えることができました。世界では、ウクライナへのロシアの侵略戦争、ミャンマーの政変後の混乱、物価高、人心の動揺、豊かな時代の貧困などで、よいことが少なかった一年でした。

 例年のことですが、新しさへの期待が、心ん中に膨らんできますが、それが年の暮れの慣わしなのでしょう。そんな気持ちで新年を迎えようとしています。ただ期待は、万物に創造者に、救い主に向けたいものです。このブログの一年のご講読に感謝します。

 こんな年の暮れは初めてですが、出かけようと思ったのですが、行き先が仕事じまいとのことで、時間を持て余してしまったので、桂三木助の「芝浜」を聞いているところです。聖書の言う「改心(回心)」と、話の筋が似ているので、呵責なしで聞いている年の瀬であります。ありがとうございました。

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太初に道(ことば)あり

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 人生に必要なものについて、チャップリンは、『人生は怖がりさえしなければ素晴らしいものになる。勇気と想像力と、ほんの少しのお金だ!』と言ったそうです。ラルフ・エマーソンは、『その日、その日が「一年で最高の一日である」と心に刻め。』と言いました。あなたの必要は、なんでしょうか。

 絵本の出版社として有名な「福音館」の社長をした松居直は、『空気と水とことばです。』と言っています。さすが児童文学者です。人は人格を持ち、「ことば」を語り聞くと言う交流のできる神の被造物ですから、「ことば」が必要だと言うのは至言ではないでしょうか。様々な語り手がいて、世は「ことば」で溢れています。大切なのは、《だれに聞くか》です。どんな動機で、どんな背景から語ったかに注意しなければなりません。

 主の弟子のヨハネが記した「ヨハネの福音書」と「ヨハネの手紙」には、次のようにあります。

 『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)』

 『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、--このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--(1ヨハネ1:12)』

 ここで「ことば」と日本語に訳されたのは、ギリシャ語の「ロゴス logos / λόγος 」で、アラム語では「メモラ」と言うそうです。アラム語と言うのは、イエスさまの時代の日常会話のことばで、父を「アバ(マルコ14:36)」と聖書に記されたのと同じ日常語のことばです。「メモラ」は、「神が人の目で見える形で顕れてくださったお方」、「神の契約の仲介者」、「救いをもたらすお方」などと言う意味を含んだことばだと言われています。深く細かな意味を含んだことばのようです。

 家内の母は、学生の頃、神田の古本屋街を、何度も「真理」を探し歩いたそうです。終戦後、上の娘が、駅前でもらった、「約翰傳(ヨハネの福音書の文語版)」を読み始めて、「太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道はすなわち神なり」の「ことば」が、義母に関心の的になりました。

 その頃、栄養事情が悪く、肋膜炎を起こして、東京の郊外の清瀬にあった「結核病院」に通っていました。病友に女子大生がいて、医師の不用意な〈ことば〉を聞いて、ショックを受けた女学生は、その晩に亡くなったそうです。権威や立場のある人の言葉の重さに、人の死期を早めるような〈ことば〉を使った、その医師を、義母は責めたのだそうです。

 そんな時期に読み、出会った「神の子イエス」を表す「ことば」を知ろうと、冊子を配ったアメリカ人宣教師を訪ねたのです。問答を重ねて、ついに、「ことば」である神、十字架で、信じる者の罪を負って身代わりに死んでくださった、イエスをキリストと信じたのです。101歳で召されるまで、信じ続けて、安息に入ったのです。

 私の母は、聖書が語る「ことば」を聞いて、神さまが「父」であることを知って、父なし子の欠けを、私生児の惨めさや孤独を埋め合わせて余りある「救い」に預かりました。95歳で召されるまで、信仰を持ち続けたのです。

 『ふたり(パウロとシラス)は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16:31)』

 義母も母も、イエスさまを、「主」と信じたことで、永遠のいのちに至る「救い」を自分のものにしました。そして子や孫やひ孫である、家族に、その「救い」が及んでいるのです。聖書には、神のことばが溢れていて、私たちに永遠のいのちを得させてくれます。

(聖所に置かれた「燭台」のイラストです)

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全世界に出ていきなさい

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Whale

 

 『他人から見て、ここが安全、現実的、可能、賢明だと思えること以上のことをしたい。私は、成功にではなく、従順に召されました。イエスを知り、イエスに従うことが最高の喜びです!』と、米国サウザーン・バプテストのイラン宣教師のカレン・ワトソンが言いました。彼女は、2004315日、母国に帰ることなく、イランから天の故郷に帰って行きました。殉教の死を遂げたのです。38才でした。

 二十世紀は、「福音宣教の世紀」だと言われて来ました。もっとも多くの宣教師が、世界中に出かけた世紀だと言うことになります。ハドソン・テイラーのように、多くの教会を建て上げ、おびただしい数の献身者を輩出し、何百と言う協力者を得て働きを拡大した方もおいです。でも、そのような成功的な働きの影で、『ただ一人の回心者を得るために!』と願って、灼熱の地に、酷寒の地に宣教された方が多くおられたことを忘れてはいけません。

 エスキモー伝道をされた宣教師は、長い間伝道をしましたが、誰一人救われませんでした。ある時、エスキモーの命の糧である、鯨が不漁で、一頭も捕れませんでした。切羽詰まったエスキモーたちは、その宣教師に、『鯨が取れたら、お前の言うキリストを信じる!』と言いました。それでも鯨は取れなく、怒ったエスキモーたちは、宣教師を断崖から突き落として殺してしまったのです。

 その死骸を見にいくと、その宣教師の横に、一頭の鯨がいたのです。それでエスキモーたちは回心していきました。何1つ励ましになることを見ないで、その宣教師は天の故郷に帰って行かれたわけです。ところが、この彼の死が、エスキモーの中に「リバイバル(信仰覚醒)」をもたらすことになったのは、神さまの方法だったのでしょう。

 この地上で数限りないほどの、主にある男女が、宣教の途上で召されて行きました。この地上で一番、宣教の難しい地域を上げるなら、アラブの国々だと言えます。「力の宗教」、「戦闘的な宗教」であるイスラム教は、イエスさまが宣べ伝えるように言われた「福音」を受け入れるのが、最も難しい宗教的背景を持っていると言われています。イスラム教徒が、回心してクリスチャンになるには、死の危険が伴います。

 私たちが日本の歴史で学んだ、キリシタンバテレンの「宗門改め」の行われた徳川幕府の時代に、日本人がキリシタンになることが、どんなにリスクの高いことであったかを知らされます。『日本人への伝道も実に難しい!』と思えます。みなさんや私が、救われてクリスチャンにされたことを考えますと、その難しい地で、主に遣わされて宣教に励まれた宣教師のみなさんに、心からの感謝を覚えるのです。

 中国宣教は、” China in land mission “ で宣教活動をしたハドソン・テーラーや海岸部を宣教したイギリスの聖公会の働きの実が、共産革命後も残り、どんなに迫害されても、クリスチャンを抹殺できませんでした。私たちが会った非合法の信仰者たちの中には、六代、七代のクリスチャンがおいででした。まさに、聖霊は無神論の国でも働いておいでなのです。

 カレンは、安全な株を買いませんでした。『成功することよりも、従順を!』と願ったのです。ですから、最も困難な道を選んだことになります。その困難さの中で、『イエスさまを、もっと知りたい!』と願ったわけです。こう言ったスピリットがアメリカの教会の中には、まだ脈々と残っています。

 『アメリカが崩壊しないのは、海外宣教にお金を費やしていることだ!』と、上院のチャプレンが言われましたが、目に見えるものを生み出すための拠出金ではなく、『一人の回心者を得て、主に栄光を帰す!』ために、アメリカの教会の良心が、今もなお動き、献身がなされているのであります。二十一世紀の福音宣教は、アジアの教会の出番だと期待されています。日本の青年たちよ、『全世界に出て行き・・・福音を宣伝えなさい」との主の声を聞きなさい!

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道すがら

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日光連山(男体山、女峰山、大真名子山、赤薙山、定釈山、太郎山などがあります)が冠雪して、実に綺麗です。これは、道の駅「にしかた」からながめた山貌です。住んでいるアパートからも、北の方に見えますが、季節の移り変わりによって違うのが、自然本来の姿なのでしょう。今度は、看板群の向こうから撮ってみたいなと思っています。

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夕方の南の空を仰ぐと、三日月が出ていました。見事な月蝕があった秋でしたが、年末の尖った月は、何か寂しそうです。月に託して、地球上に起きっている、戦争や災害や人の不正、多くの涙が流された一年であったでしょうか。

 

 

昨日の散歩で行った、市の総合運動公園の運動場から見上げた雲の動きです。雲が陽の光を遮るのですが、雲の切れ間から、また顔を出して、冷たい体を温めてくれました。遊具で、お母さんと三歳ほどの女の子が遊んでいる姿を見て、いつかウクライナの街の空の下でも、安心して母子で遊ぶ時がやってきて欲しいと願ったことです。

 

 

散歩の道筋にある家の玄関の様子です。North Carolina に、お嬢さんが留学されたのか、嫁いだのかなと想像してみました。散歩途上で、 ” I  ❤️ Jesus “ なんて、玄関を飾る家は、ここ一軒です。ご両親も、そんな告白をする人たちなのでしょうか。

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宮崎県

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 「鬼の洗濯板」と言われる、荒波に侵食された海岸線を見た時、江ノ島や九十九里浜の砂浜の海岸ばかり見てきた私でしたので、本当に驚いたのです。九州貧乏旅行で、宮崎市の青島を訪ねた時のことでした。実は、父から、自動車学校で、運転免許証を取るための受講料を、まとめてもらったお金で、九州に遊びに行ってしまったのです。父に、こっぴどく叱られてしまいました。

 古代日本を「蜻蜒洲(あきつしま/秋津島)」と呼んだのですが、宮崎県歌の中にこの表現が出てきます。日本神話に見られる日本誕生で、その地形が蜻(とんぼ)に似ていたので、そう言われた様です。

 日向宮崎と言えば、椎葉村の「ひえつき節」でしょうか。平家の落人伝説の中で生まれたもので、意味も分からずに、子どもの頃に、私も歌っていたのです。

庭の山椒(さんしゅう)の木
鳴る鈴かけてヨーホイ
鈴の鳴る時ゃ
出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ
何と言うて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと
言うて出ましょヨー

那須の大八
鶴富おいてヨーホイ
椎葉たつ時ゃ
目に涙ヨー

 全国に、「落武者伝説」があり、わが県の北、福島県の会津に近い、湯西川にも残されています。自分たちの祖先への想いというのは、どこでも強いのでしょう。京の都から遠ければ遠いほど、栄誉を誇った時と今の現実とを比べて、悲哀も感じながら、詩を読み歌ったのでしょうか。

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 律令制下、「日向国(当初は薩摩国・大隅国を含む領域でした)」と呼ばれ、徳川時代には、幕府直轄の天領が多くあったようです。高鍋藩、延岡藩、佐土原藩、飫肥(おび)藩(現在の日南市になります)、薩摩藩、その他に旗本領などもあったのです。

 歴史の中では、あまり知られていませんが、維新後に起こった西南の役の戦場は、宮崎県にまで及んでいて、薩摩藩とは敵対関係にあって、宮崎県が誕生した背景があるようです。

 現在、県都は宮崎市、人口は105万人、県花はハマユウ、県木はフェニクス、県鳥はコシジロヤマドリです。霧島連山が、火山の火口を見せて、得意な山貌があり、高千穂連山も含めて、天孫降臨の神話を生み出したのが、この日向国なのです。

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産業は、第一次の農林水産業が盛んで、比率からすると、農業は47都道府県のうち、その比率は第一位を占めています。県民所得は、東京都の半分近くなのだそうですが、物価は安いとされています。出始めの頃、売れ残った値引きした物でしたが、宮崎産のマンゴウは、形状も味も台湾のマンゴウに似ていて美味しかったのです。ただ原価は高かったのです。

 中学の同級に、「白鳥」と言う姓の同級生がいました。国語教師が、1年の国語の最初の授業の自己紹介の時に、彼の紹介後、

白鳥は 哀しからずや 水の青 空の青にも 染まずただよふ

を、彼への  ommage(敬意)なのか、からかいなのか、教えてくれたのを、鮮明に覚えています。若山牧水の短歌で、この教師の担任のクラスに、牧水の孫がいて、すぐ上の兄の親友にも、そのお兄さんがいました。若山牧水は、宮崎県の出身で、酒と旅を愛して、「漂白の歌人」と呼ばれ、酒量が過ぎたのでしょうか、肝硬変を患って、43歳で没しています。もっとも有名は短歌は、

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

 私が、酒をやめたのは、クリスチャンになった時に、聖霊に満たされた時に、その後、ピタッと飲めなくなったのと、12歳の時に知った牧水の生涯の最後を、教訓にしていたからなのです。そうですから、好きではなかった国語教師に感謝すべきかも知れません。

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 県民性について、『宮崎県の典型的男性を表す言葉として「いもがらぼくと」、女性を表す言葉として「日向かぼちゃ」がある。前者は「芋がらで作った木刀」の意であり、見掛けは立派だが芯のないお人よしであることを意味し、後者は、見た目は黒く小ぶりだが味はしっかりしているということを意味しており、民謡(但し、近年の作によるもの)にも歌われる。(ウイキペディア)』と言われています。

 台風が時々通過する県ですが、普段は、穏やかで、県民性も穏やかかも知れません。延岡から来ていた同級生が、そんな風貌でしたが、いつの間にかいなくなってしまいました。九州男児と言うよりは、延岡人だったのでしょう。

(鬼の洗濯板、コシシロヤマドリ、宮崎マンゴウです)

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失われた物と者

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 『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。(伝道31468節)』

 室町mystery “  の原因が、やっと解明されました。わが家の台所には、三本の「包丁」があったのです。この2年ほど前から、一本、一本と、二本の包丁が、次々に消えてしまってしまいました。一本が残っていましたので、『いつか出てくるからいいか!』でいたのです。

 考えられるのは、週二回、生ゴミ(可燃物)を出すのですが、そのゴミに紛れて、収集センターに行ってしまったのかも知れとも思っていました。おっちょこちょいの私でも、それでも包丁二本も出すことは考えられなかったのです。

 昨日は、長男家族がやってきたのです。来年受験で、その準備中の息抜きの孫娘も週末、両親に従って、高校生の兄と一緒に、四人で訪ねてくれたのです。まさに《良薬4錠》に、バアバは大喜びで、一変に happy になってしまいました。

 外食よりも、何か作ろうと、一昨日は、バスに乗って「道の駅」に、買い出しに行き、お土産用に「にっこり(大きな地場産の美味しい梨です)」と、この時期は珍しい、スチューベンという銘柄の葡萄、新鮮な野菜を買いました。昨日は、朝一番で、行きつけのスーパーに買い物に行ったのです。

 「タコ・ライス」を作ったのです。新鮮な野菜と、肉と卵とチーズ、それに自家製のソース(玉ねぎ、洋梨、キウイフルーツ、ニンジン、コンソメ、ケチャップなど)でした。結構良くできたのです。孫娘が25日が誕生日で、私が17日で、京都の友人が送ってくれたパウンドケーキと息子たちが買ってきてくれたケーキに、ローソクを立ててお祝いしてくれたのです。

 食事の片付けを、いつもの様に、嫁御と二人の孫が、きれいにしてくれました。夕方になって訪問チームは帰って行きました。みんなを送るのは寂しいもので、〈惜別の祖父母〉でした。

 今朝、朝食の用意をしたのです。ところが包丁が見当たらなないではありませんか。〈またか〉でした。定位置管理をしていて、刃物はケースにしまう様にしているのですが、戻っていないのです。また消えてしまったのです。そう言えば、流しのシンクの下の戸袋に、包丁入れがあったのを思い出して、開けてみたら、な、なんと包丁三本が、きれいに並んでいるではありませんか。嫁御は、そこで管理し、私は、プラスチックケースで管理していたのです。扉の陰が「死角」になっていたのです。

 謎が解けて、『なーんだ!』の今朝の台所でした。探しても、探しても、習慣化してない所には、目も心も行かないわけです。発想の転換のおかげで、さらに〈習慣〉の理解の違いが分かって、一件落着で、嬉しい朝です。見つかるのに「時」がありました。

 失われ、彷徨っていた私は、二十代中程で、やっと創造主に見つけられ、神の元に立ち帰ることができました。神さまの憐れみよってでした。今は、この地で寄留者の様にして、仮住まいで生かされていますが、やがて「天の故郷」に帰ることができるのを待ち望んでおります。

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私の掘り出された穴

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 『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。(イザヤ511節)』

 このブログは、次男の勧めと管理で、2012331日、母の95回目の誕生日に始めて、今日に至っています。それ以前にも、別の title でブログを発信をしていたのですが、お隣の国での発信ができなくなり、触れる内容に注意しながら、「悠然自得」と言うtitle で再開したのです。

 開設の目的は、子どもたちや孫たちに、父として祖父として〈自分史〉〈家族史〉を語り残そうとして記しているつもりなのです。出自、来歴、思想、交友、学び、出会った人、出来事や時事雑感、思い出などを取り上げてきています。公開してますので、興味のあることで検索するとhit して、お読みくださる方からコメントが来たりしています。そんなことをご理解の上、お読みいただいたら嬉しいです。

 どなたも、そうなのかも知れませんが、父の足跡を追い求めたいと言う願いがあります。昭和初期の横須賀市で入学した旧制中学校、東京に転校して学んだ中学校、中学を卒業して学んだ秋田市の旧制の秋田鉱専(旧制専門学校)、そんな学校跡や生活したあ街を訪ねてみたい思いが消えません。そして青年期を過ごした東京、仕事のために滞在した旧満州の奉天(今の瀋陽です)の鉄道会社(鉱山部門)、京城(今のソウルです)、山形、甲州の御岳などもです。自慢話にならない様にと思っています。

 父が生まれたのは、日本海軍の鎮守府の置かれた横須賀で、海軍工廠の技官をしていた家系で生まれ育っています。父の話によると、後に国会議員となる、海軍の機材を港で扱う港湾労務の元締めに、仕事の差配を、曽祖父が任せていたそうです。その方の娘さんの結婚相手の名前をとって、私の名前をつけたと言っていました。その子どもが、有名な政治家になっています。

 

 

 日本海軍が、自国の軍艦をイギリスから買っています。父の話によると、旗艦船を買うために出掛けた一行に、曽祖父が随行していたそうです。その船は、1898年に発注されており、1902年に竣工しています。「戦艦三笠」と艦名があって、対露の日本海海戦で東郷平八郎が指揮した船です。今は、横須賀港に記念館として停留しています。何年も前に、次兄と弟、そして横須賀の父の実家の敷地に住む従兄弟に案内されて、訪ねたことがあります。

 京浜急行電鉄の駅の近く、港に面した丘の上に、父の生まれた家が残されています。昔は、「家の格」と言うものが重要だったのだそうで、父の生母は、父を産んだ後、離縁され、父だけが残されています。父の生母は足入れ婚の様だったのでしょう、父は、嫡出子にならなかったのです。祖父が再婚し、継母の下で、父は大きくなったのです。祖父をあまり語らない父でしたが、私が髭を蓄えると、『俺の親父にそっくりだ!』と言っていました。

 思春期の頃でしょうか、父は、家に居た堪れなくて、東京の親族を頼って家を出ています。そこから私立の中学校に通うことになりました。どんな中学生、成績だったのでしょうか、旧制中学に入れるのですから、まあまあだったのでしょう。試験の面接官の前で、『「教育勅語」を暗唱したので入学できたんだ!』と、真偽の程は不明ですが、父が言っていました。

 なぜ父が、「鉱山学」の専門学校を選んで、何になろうとしたのかも聞きませんでしたが、戦争が終わるまで、満州や朝鮮半島、山形や山梨の鉱山で働いたのですから、鉱石採掘の実務に特別な思いがあったのでしょう。家には、立派に結晶した水晶が、置いてありました。少なくとも軍用機の防弾ガラスの原料であった石英を、軍名で掘る責任を追って、「軍需工場」を率いていたのです。その頃の写真が残っていて、「戦勝祈願」などと書かれた日の丸の旭日を染め抜いた鉢巻をした従業員の集合写真が、母のアルバムに残っています。

 甲府連隊長が乗っていた軍馬よりも、父の馬の方が良かったとかで、連隊長が譲って欲しかったそうですが、譲らずに乗り続けたそうです。ところが、父の馬を世話していた馬丁の方が、子どもが病んで、栄養価の高い食物が欲しくて、父の許可もなく、無断で、父の馬を潰して、肉にしてしまったのです。父に馬肉が届けられたのですが、自分の馬とはつゆ知らず、それを食べてしまったのです。後になって、自分の馬だと分かったのですが、事情を察して、父は不問に付したそうです。

 私たち兄弟と、同世代の子のために、赦したのでしょうか、そんな優しい父でした。そう言えば、四人の子供の将来を考え、東京に越そうとしていた時、大田区に家を買う段になって、上手く騙されて、大金を取られてしまった話も聞きました。さらに涙もろくって、人に同情深かったので、そう言ったことが度々あったのでしょう。

 自分は大きな立派な家で育っていましたが、父が尊敬していた方が、物に執着しない生き方をしていて、手狭な家で生活しておられ、それに倣ったのでしょう、住めればいいだけの家で満足した人だったのです。駅に近くて、至便性が良かった家を買って、また次を考えようとしていたのでしょうけど、そこに、10年も住んだのです。ところが、中央自動車道の計画で、転居せざるを得なくなり、その補償金で買える家を見つけたのです。

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 終戦で、軍需工場は閉鎖され、そこにの残された索道(ケーブルカー)を使って、県有林から払い下げられた材木を、京浜地帯に送り出す事業をしていましたが、私たちの将来の教育を考えて、東京に越したのです。

 東京の三多摩地区を住み替えて、そこから浅草橋、日本橋室町、日本橋伝馬町(だったと思います)、新宿淀橋などの会社で働いていました。六十一で、父はアッという間には帰天してしまうのです。東京に出てからは、ピカピカの革靴を履き、新調した背広に、クリーニングに出したワイシャツにネクタイで、ピシッと決めていたのです。そのお洒落な父が、晩年は、次兄のジャンパーを着て出勤する様になっていたのです。あの変化には驚いた覚えがあります。

 勤め始めて、家に、私が〈食い扶持料〉を入れる様にしていたのを、父がとても喜んでくれて、父は飲まなかったのに、自分でビールを買ってきては、夕食に添えてくれたのです。小田急線で、父は都内に通勤していたのですが、電車の急停車で、クモ膜下を痛め入院し、なんと退院の朝に、入院先で、父は亡くなってしまったのです。すぐ上の兄が、61歳で召された父を、そして父の死後、寡婦となった母を40年も次兄夫婦が世話してくれ、95歳で母は召されました。二親を世話をしてくれ、天の神さまの元に送ってくれた次兄夫婦には感謝でいっぱいです。

 父の職歴を思い返しますと、曽祖父が海軍の技官時代の人脈が、父の戦後の仕事の機会を備えていたのだろうと思うのです。いつでしたか、高校生の頃だと思いますが、私を連れて、父が務める大きな一部上場の会社に連れて行かれたことがあります。そこには、江田島海軍兵学校の校長をしていた方の息子さんがいました。父よりも年上だったと思います。また幕末の薩摩藩士の桐野利秋の子だという方を紹介してくれ、目を丸くして挨拶したのを覚えています。父から聞いたり、歴史で知っていた人の係累に会えるというのは特別なことでした。

 父は複数の会社の責任や顧問などをしながら、働いていたのです。新宿にあった出版会社などにも連れて行かれました。兄や弟も、そんな経験があったのでしょうか、父の働く職場に行くことができ、そこにおいでの父の同僚や上司とお会いできたのは、良い思い出でもあります。自分の働く職場を、父が見せてくれ、人に会わせてくれたのは有益でした。

 二親の信仰について触れてみます。父は、『俺は日蓮宗だ!』と言って、たった一竿の箪笥の引き出しに、経本と数珠を入れていました。でも、青年期にいた満州時代の関係の方でしょうか、神奈川県の川崎で関わっていた教会に、父は、家族に隠れて礼拝出席していました。「下駄履きで出席できる教会」を、牧師さんに言ったのだそうです。そんな教会だったのでしょう。子どもの頃に、『親爺に連れられて横須賀の教会の教会学校に行っていたよ!』と言っていたこともありました。

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 母は少女期に、幼馴染の紹介で、カナダ人宣教師家族のいる教会の教会学校に行き、信仰を持ったのです。一緒に教会生活をした教友が、戦時中に、結婚して、満州の熱河で伝道をした福井牧師と一緒に働いていたと、母から聞きました。ですから、熱心な信仰生活を送った母で、カルガモの様に、よく四人を連れて教会に行ったのです。その後、東京都下の街の路上で、一人の婦人と出会うのです。お互い見つめあっているうちに、互いがクリスチャンだと分かり合ったのか、その方の集うアメリカ人人宣教師の教会に、誘われて行く様になるのです。そこのメンバーとして、召されるまで、母は教会生活を送っています。その教会に、上の兄が導かれ、今は穏退していますが、牧師をしていました。私もその教会で献身し、開拓伝道に従ったのです。

 その母の続けられ、積まれた祈りがあったのでしょうか、父が召された入院先の病院の病室で、上の兄に導かれて、父は信仰告白を明確にしたのです。私も同席していました。その入院先の病院で、退院の朝に、父は召されてしまったわけです。父もまた信仰告白者として、天にて再び見(まみ)えることができると確信しているのです。

 父には、母親違いの弟や妹たちがいましたが、非嫡出子で、相続のない子として入籍しています。その弟は、戦時中に南方の戦線で戦死しています。でも父が、天国の国籍を手にしたのは、幸いだったと感謝しています。

 『親孝行したい時に親はなし!』、親孝行をされたい、されなければならない年齢に自分がなって、父への不孝を思い出しています。小学校入学前に、病んで死にかけた私を、可哀想に思って、特別扱いしてくれたのです。中学の時に、渋谷に連れ出してくれ、レストランで仔牛のやわらかい肉料理と黒パン、ロシア料理だったのでしょうか、それをご馳走してくれました。美味かったのです。弟は、新宿の中村屋に連れて行ってもらって、美味しいカレーを食べた思い出があるそうです。きっと父は、二人の兄たちも、一人一人連れ出していたのでしょう。

 カツサンド、うなぎ、ケーキ、ソフトクリーム、シュウマイ、薄皮饅頭、あんみつセットを持ち帰っては、『さあ喰え!』と言って、見つめていた父を思い出すと、それが非行化防止の父の優しい策だったのだと、思い出して微笑んでしまいます。

    父の青年期の挫折体験が、どんなものだったか皆目、三男の自分には分かりません。昭和初期の躓き青年が、どんな生き方をしたのでしょうか。その空白期間を知りたい私は、先日、栃木市大平図書館に出掛けて、ヒントになる様なタイトルの本を、書庫から借りて読んだのです。

 類推はできますが、少し想像するだけしかできませんでした。母と結婚する前に、立ち直ったのでしょう、母が、『私にはいい人だったわ!』と言わせたほどの夫だったわけです。しっかり、危なっかしかった四人の息子たちを、食べさせ、着せ、連れ出し、叱り、拳固を見舞い、笑わせ、怒らせ、抱きすくめ、そして教育を受けさせてくれた父です。劣等感に苛まれずに、生きることができたのは、父のお陰です。

 母が、四人の子を連れて、出雲の実家に帰ったことがあります。小学校2年頃だったでしょうか。父との間に、何かあったなどとは分からず、東京駅から夜汽車だったでしょうか、それに乗って旅をしたのです。混んでいて、横になれない座席で、弟と私とを、母は抱いたり、叱ったりしていたのでしょう、兄たちは無人の車掌室に潜り込んでいたそうです。大社とか日御碕とかに行きました。養母に悟されて母は、四人の養育を考えて、父のもとに帰ったのです。どんな夫婦間にも、色々とあるわけです。

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 私が、国立病院に肺炎で入院した時に、死にそうな私に、高価なペニシリンを使う様にしてくれたのが父でした。そればかりではなく、曽祖父がロンドンで買って持ち帰った、純毛の毛布を、私の体を温めるために、横須賀の生家に取りに行って、病院のベッドで使わしてくれたのを覚えているのです。それを暇をしていた私は、ハサミで切ってしまって叱られたことがあります。バカの子ほど可愛い、のでしょうか、弱い私を愛(いとお)しんでくれた父には、思い出すたびに感謝が湧き上がってきます。

 小学校に行ってる頃でした、その父が、家から私を連れ出して、大きな川のそばで、死にそこないで甘やかされ、わがままな振る舞いの多い私を、こっぴどく叱ってくれたのを忘れられません。まさに〈愛と鞭〉でした。その時はゲンコツなしで、こんこんと諭しながら叱ってくれたのです。それで、少し変わったかな、の私なのです。

 学校を出て、就職先が決まった時に、父は菓子折りを携えて、下落合に住んでおいでの、私の就職先の所長宅を挨拶のために一緒に訪ねてくれました。大きな大学の国文科長を兼任されていた教授宅でした。父の期待に応えないで、二流の学校を出た私でしたが、父は、その就職先に入ったことが嬉しかったのでしょう。江戸期の資料や書籍が家の書庫の中にあって、見せてくれました。父は、そんな分野を学びたかったのかも知れません。話の合間に、興味深く見入っていました。

 子は、父なくして、自分があり得ませんので、自分のルーツを、授業で宿題に出された次女の孫が、いろいろ聞いてきてた時期がありますが、少し細かく記してみたのです。まさに、自分の掘り出された穴、背景なのです。『父は父なるが故に、父として遇する!』、出典不明の、私の座右の言葉です。

(「穴」を掘るシャベル、「戦艦三笠」、「索道」、「相州浦賀」、「浅草」です)

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