そよ風の吹くのを待つ

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『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。(詩篇104篇1~4節)」

 「たきび」の歌の三番に、「こがらし」が出てきます。

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

 「こがらし」、冬になると人を屈めさせ、背を丸くさせ、上着の襟を立たせさせる冬風のことです。今年は、まだ木枯らしの吹く前に、寒波襲来で、ここ栃木市でも、マイナス4℃にも気温が下がりました。足元から這い上がってくるような寒さに、震えるほどです。この木枯らしを「凩」と言う感じで表記する様です。それでも、今日は強烈な風が吹き荒れ、巴波川の観光船が運航をやめていました。日本海側は大雪に見舞われた地が広くあります。

 この「風」ですが、季節ごとに、地域ごとに、様々な風が吹く様です。私たちが子育てした街は、「八ヶ岳おろし」の寒風が吹き降りて来て、半端ない寒さで縮み上がらせてくれました。これを「颪(おろし)」と書くのだそうです。

 今や、いつ止むとも知れずに、「戦争の風」、「不景気の風」が、ロシアの方から吹き始めて、世界中を巻き込んで、吹き荒れています。世界中で、〈寒け〉を感じてしまっています。それで「風」だって、歓迎される風だってあるわけです。そこで、「風」を取り上げてみたいのです。

人は誰も ただ一人旅に出て
人は誰も ふるさとを振りかえる
ちょっぴりさみしくて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人はだれも 人生につまずいて
人はだれも 夢破れ振りかえる

プラタナスの 枯葉舞う冬の道で
プラタナスの 散る音に振りかえる
帰っておいでよと 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も 恋をした切なさに
人は誰も 耐え切れず振りかえる

何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
振りかえらず ただ一人一歩ずつ
振りかえらず 泣かないで歩くんだ
何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
吹いているだけ 吹いているだけ

 私の世代のフォークソング・グループ、シューベルツが歌ったものに中に、「風」がありました。この曲は、一世を風靡したのですが、はしだのりひこがリーダーでした。同学年で、同志社大学で神学を学んだということで、関心を向けたことがありました。5年ほど前に亡くなっていて、同世代も、そんな時をあ迎える年齢になったのだと思わされたことでした。
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 北風に変わって、春の到来を告げる風を、「春一番」と言います。氷が溶けると北国では春ですが、関東などでは、最近は観測されないで、無発表のまま、春になっている年がある様です。中国では、北にいても南に住んでいても、「春節chunjie」が、待ち遠しい春をもたらしていました。

 東の方に移っていって吹いてくるのが、「東風(こち)」です。梅の花の香を匂い起こすと言って有名なのです。南風は、「はえ」とよぶそうで、梅雨が明ける頃の風を、九州地方では、「白南風(しらはえ)」と呼ぶのだそうです。

 また、「いなさ」と呼ばれる風があります。台風の時期に、強く吹く南東の風のことで、四国や中国地方から東の地域で、呼ばれる様で、漢字表記は、「東南風」です。農業や漁業に従事する人たちには、豊作や豊漁をもたらすと言って歓迎されているのです。それに反するように、静岡県などでは、強風被害をもたらすとして、警戒されている風で、「辰巳風(たつみかぜ)」とも言われています。

 瀬戸内地方から伊豆地方にかけて太平洋沿岸の各地では、「まぜ(真風)」と呼ぶ、春から夏に、南から吹く弱い季節風があります。

 また「山背(やませ)」と言う風もあります。関東から東北、北海道にかけて、夏に、東から吹く風です。歓迎されない冷風で、冷害や凶作をもたらす、農作物には敵の風です。秋の稲作などの収穫が危ぶまれ、農夫の顔を曇らしてきた風だったのでしょう。

 寛永、享保、天保の頃には、「江戸三大飢饉」と呼ばれる飢饉がありましたが、「山背」が吹いたのでしょうか。米の不作、年貢米不足、米価の高騰など、農民に打撃を与え、「一揆(いっき)」などが起こっています。歌で歌われる様なことにない、歓迎されない風には、吹いてもらいたくないものです。

 さらに、最近は、日本でも「竜巻」の現象が見られ、被害があります。これは積乱雲の発生などの前兆が見られます。これに対して「つむじ風」は、「竜巻」のように雲を伴うことはないのです。晴れた日に強い日射で地面が暖められて発生することが多く、「竜巻」よりもずっと小規模です。 風速もそれほど強くはないですが、それでもテントなどを巻き上げる力はありますから注意は必要です。「つむじ風」は晴天時にいきなり発生することが多いようです。

 寒波襲来、収まらない新型コロナ感染、インフルエンザの流行の気配、それにウクライナ戦争、ミャンマーの政情不安などの年末ですが、私の歓迎するのは、春を呼ぶ「そよ風」です。頬をやさしくくすぐる様な風で、そんな心地よさを感じたいと、切に願っています。

 さあ、主は、どんな風を、これからの時代、この地上に向け、吹かされることでしょうか。

(「北風小僧の寒太郎」、「そよ風」です)

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極秘カリーの味を

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 今日(12月22日)は、「冬至」で、この日を境に、太陽が回復(?)し、日中の時間が逆転して長くなっていきます。日本では、「冬至祭」はありませんが、ゲルマン民族は、この日を、“ yulu ” と呼んで、太陽の復活を祝ってきています。聖書には、イエスさまの誕生日の記録がありませんから、1225日に近い、「冬至祭」と混淆した経緯があります。

 父の家では、お風呂に、柚子を浮かべて、入浴をした覚えがあります。また、カボチャを食べたかも知れません。結婚したわが家は、季節行事にはこだわりを持ちませんで、365日を同じ様に、救い主の神さまと家族に感謝しながら生きてきて、二人だけになった今も、変わらない一日一を日を過ごしています。

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 長く過ごした中国の華南の地でも、「冬至」には、「汤圆tangyuan」と言う、甘い湯の中に浮かした団子を、家族で食べていました。でも、間も無くやってくる「春節」への待望の思いが強烈だったので、盛り上がりは薄かった様にかんじていたのpです。

 そう言えば、中部山岳の街にいた時には、南の方の村の知人が、毎年この時期に、栽培している柚子を、バケツいっぱいにして、毎年届けてくれたのです。持て余した量でしたので、近所に配ったり、お風呂にも入れたりしたのです。

 今日は、お客さんがあって、一緒に、弟が贈ってくれた、子どもの頃の父に連れ出されて、弟が父と二人だけで、家族に秘して食べた懐かしい味の「中村屋カりー」を、サラダと卵スープでお出しし、一緒に食べました。みなさんも『美味しい!』と言ってました。父の味がしたのです。

 食べ物と行事の collaboration は、世界中で見られるものです。チマキの端午の節句、うなぎの土用、カボチャの冬至など、今年も守られ、祝されての年の瀬です。

(中国のこの時期に食べる「湯円」です)

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一人の人格者として

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 明治の初期に、日本にやって来た外国人は、医者や技術者だったり、開校したばかりの学校の教師たちでした。多くが「お雇い外国人」でした。その他に、宣教師たちも、すでに幕末には来日していました。

 その中に、1877年に来日(横浜港に上陸しています)し、横浜から新橋に向かう汽車の中から、大森駅付近の崖の断層に、貝殻を発見し、その九月には発掘調査を行なったのが、モースと言う動物学者でした。その「大森貝塚」からは土器、骨器、獣器などを発見しています。

 残念なことに、彼は進化論者で、日本の学校の教育で進化論が教えられる先鞭をつけた人でした。でも彼の学問的貢献は大きかったのです。数度にわたる来日の後、滞在時の見聞を、「日本その日その日」で著しています。

 スケッチで、訪ねた場所や、家の様子、モースが目にした珍しい道具や風景などを描いて、それらが添えられています。写真とは違った趣があって、興味深いのです。極東アジアの島国の様子を、よく観察していたのが分かります。動物学者の目には、人もその範疇なのでしょうか、彼は、カルビニストのお父さんに育てられているのに、そこから離れてしまっていて、進化論者でした。晩年は、このモースが、どうだったのか気になります。

 でも彼の観察眼は確かでした。日本人の特性や民族性、道徳性、品性まで見ていたのです。日本の社会が衛生的に高度なものを持っていたことにも触れています。当時のアジア諸国に比べて、ずいぶんと違っていたのを認めています。この数年、新型コロナの感染症が、収束することなく、今も拡大していますが、明治初期に、日本には、感染症が少ないことにも、その本で触れています。

 そう言った日本人の徳の高さは、来日した多くの外国人の一致する意見でした。とくに目に付いたのは、子どもたちへの大人の接し方、扱い方でした。『日本は子どもたちの天国での様だ!』と感じていたのです。親切に、丁寧に子どもたちに、大人が接していたのに注目しています。

 自分の子どもの頃を思い返してみても、私たちの時代も、総じて大人は、注意深く接してくれ、危険なことやよくないことをすると、誰彼なく注意してくれ、見守ってくれ、ある時は叱ってくれたのを思い出すのです。街のおじさんやおばさんは、親切でした。親爺にはゲンコツをもらいましたが、それも愛のムチでした。

 ところが、最近ニュースで騒がしいのは、保育士や教師たちによる子どもへの虐待です。なぜそんな接し方をしてしまうのか、その問題の根は深そうです。

 イエスさまの所に子どもたちが連れて来られた時の記事が、聖書の中にあります。

 『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせ言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。(マタイ1816節)』

『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ191314節)』

 イエスさまの時代、子どもたちは軽んじられていた様です。そんな中で、子どもたちを叱る弟子たちに、イエスさまは、『許してやりなさい。』と言いました。《子どもたちの様になること》と、天国に入ることとを関連づけて、お話ししておられたのです。ただ単純に、子どもの様になることです。難しい神学論や教理論ではないのです。

 子どもが重んじられる世界こそが、「神の国」なのです。私の願いは、傷ついた子どもたちの心の癒しです。主と呼ばれる神さまは、「アドナイ・ラファ(われはエホバ、汝を癒すものなり)」ですから、癒すことのできない人の傷などありません。また大人で、子ども時代に、心に傷を負わされた人たちが、この「主」から、忌まわしい記憶でさえも消えてしまう様な癒しと回復がなされることを願うのです。もう亡くなって、そばにいない人でも、赦すことができるのです。そうすることができるのが、聖書の神、イエスさまです。

 子どもに躓きを与える者たちへの神の処罰は、ずいぶんと厳しいことに注目すべきです。いわんや虐待などと言うのは言語道断なのです。彼らは次の時代を担うのですから、聖書のことばによるなら、愛や優しさで接し、一人の人格者として認めなければならないのです。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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美化することなく

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 「降誕節」、神が人となられて、人々の間にお生まれになられたことこそ、この方が「救いの君」で、神のご計画されたことの成就でした。それでキリストの教会は、そのことを感謝して、偉大な神さまを礼拝し賛美してきたわけです。

 飼い葉桶の中に寝かされた赤児、訪ねてきた羊飼いたち、星が煌めいていた夜の出来事が物語られ、絵に描かれてきました。ところが、その飼い葉桶は、家畜の餌の干し草が入れてあって、家畜が、涎を流しながら食べて、洗われることのなどなかったものです。匂いだって半端ではなかったはずです。一説では、死者を覆う布で、赤児のイエスさまは産衣として包まれていたかも知れない、と言われています。輝き、イルミネーションなどもなく、薄暗い中での誕生でした。実際には、そんな様子だったのでしょう。

 しばらくたって、東方の博士がやってきた時に、王の出現を聞いて、怯えた王ヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を殺させています。しかし、み告げによって、イエスさまは両親と共に、エジプトに難を逃れています。すんでにところで、殺されそうな危機を、イエスさまは経ているのです。そんな血生臭い出来事が続いていたのです。

 北欧やアメリカなどの家庭で、このシーズン、樅の木が飾られ、綿製の雪の白さ、煌めく星などで飾り立てて、清さや美しさや喜びに溢れています。ところが二千年前の誕生の様子は、まるっきり違っていたのです。少しもロマンチックでも、ムーディでもなく、静かでもない中に、神の子はおいでになられたのです。聖書を精読すると、これこそが誕生の事実でした。

 降誕を祝うなら、どうしても誕生間もない頃に、多くの男児が殺された一件に目をつむることも、33年半の後の「十字架の贖罪」の死も、それらを抜きにしては、考えられないのだと思うのです。この神の子の到来は、罪を犯した人を救うために、神がご計画され、イエスさまを神の子と信じる人たちの罪の身代わりに、十字架に死ぬために、イエスさまはお生まれになられたのです。

 旧約聖書に預言された、救い主の姿は、絵に描いたようでも、美形の俳優が演じる様な華やかなものではありませんでした。イエスさまの誕生の、およそ500年前に書かれた、「イザヤ書」という預言書には、次の様に預言されてありました。

 『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(5323節)』

 「見とれるような姿もなく」、「輝きもなく」、「見栄えもない」と、やがておいでになるキリスト、メシア、救い主の外貌を、イザヤは預言したのです。通りすがりの人が目を見張ったりすることなく、光に包まれていたような気配は、全くありませんでした。また豊かな家庭ではなく、木工大工の養父に養われ、夭逝したヨセフに代わって、その大工職を継いで、母や、父違いに弟妹を養ったようです。ご生涯のお姿は、まさに「苦難の僕」でいらっしゃったのです。

 肩をいからせ胸を張り、大股で歩き、あるいはサラブレッドのような名馬に乗り、長船(おさふね)の様な刀匠が鍛えた剣を腰に下げたり、錦糸銀糸の衣に、飾り立てた鎧をつけた軍神の様にでなく、「下僕」のように、汗で埃の中を、粗衣を纏い、粗食を食べ、太くなった指で杖を持つ姿でいらっしゃったのが、救いの君でした。

 私たちの願う姿など、何一つありませんでした。もっと驚くことが預言されてありました。

 『多くの者があなたを見て驚いたように、--その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた--(イザヤ521314節)』

 見る人が驚いてしまうような「醜さ」を持たれたお方だったのだと言うのです。『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(532節)』とあります。わが家の近くの「うずま公園」の樹木は、春になると、みずみずしい若芽を出し、若葉を開き、青葉を繁らせています。ところがイエスさまは、荒地に生出でる植物の根の様に、細く節だらけだったのかも知れません。

 イエスさまの誕生を、人は美化したいのです。あの歓喜の讃歌、「第九」が演奏され、ハレルヤコーラスが歌われ、星空が広がり、溢れるほどの花々で飾られた世界に、この幼子を置きたいのです。人は抱いてあやすことのできる赤児の様であって欲しいからです。

 でも、〈私の期待通りのイエスさま〉像を捨てなければなりません。私の願う様にではなく、私の身勝手な願いなどではなく、神のみ思いを、ありのままで受け入れることこそ、救い主と出会う道なのでしょう。

 サウル王のような、ダビデのような、アブシャロムのような美貌、身長を持たない、尊ばれたり、羨ましがられる姿をとらずに、イエスさまはおいでくださったのです。

 救い主に容貌への期待だけではなく、救いの計画、人の取り扱いも、神の定めを受け入れることが必要なのでしょう。降誕を祝うなら、その事実を求めて、あふれるほどの感謝と賛美で、接しなければなりません。御降誕は、贖罪抜きには考えられない、神さまがなさった出来事でした。

(宵に輝く「金星」です)

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メディカルカフェ in うつのみや

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 美味しいコーヒに誘われて、いえ以前一緒に教会生活をさせていただいた、転勤族のご家族がおいでで、その姉妹が紹介してくださってでした、まちなかメディカルカフェ in 宇都宮に、201912月に、家内を車椅子に乗せて、東武宇都宮線で出掛けたのです。

 この集いは、ガンと闘っているみなさんと、医療関係者、ボランティア、家族、協力してくださる喫茶店やパン屋さんの協力で、月に一度開催される交流会なのです。通称、がんcafe ” です。

 順天堂大学病院の「がん哲学外来」の樋野興雄医師が始められて、全国展開していて、多くの街で開催されています。闘病者と、それに寄り添おうとするみなさんが、なんでも話そうとして集っていています。この数年はコロナ禍で、開催がおぼつかなく、最近ではhybrid で行われてきました。私たちは、3年ぶりに、宇都宮市生涯学習センターで、昨日開催された がんcafe “ に参加しました。

 三三五五と会場にやって来られたみなさんとのテーブルごとの話し合いをするのです。手術を何度も繰り返しながら、新しく迎えるその日その日を、明日に向かって生きようとされておいでのみなさんの闘病姿勢には驚かされたことです。話し手と聞き手の、それぞれの思いの交流なのです。

 やはり亡くなられた方もおいでで、そのニュースを聞く辛さがありますが、みなさんはよい思い出を語られ、だれもが迎える時を意識しながら、今を生きておられるのでしょう。それは闘病者だけではなく、全ての人が、そういう今を生きているわけです。

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 この9月に、壬生町の総合運動公園で行われた、リレーフォーライフ(Relay for Life )とちぎに参加しました。400mの競技場の周囲を、亡くされた方は思い出を胸に、闘病のみなさんは、家族や友人やボランティアのみなさんなどに支えられたり、して、《いのちのリレー》をされていて、私も、昏れなずむ中を、そのグランドを一周してみました。

 1985年に、アメリカのタコマ(Tacomaワシントン州)で始められた Event で、現在世界約30ヶ国、 4500ヵ所で開催されています。会場には「ルミナリオ(LUMINAIRE)」と言われる、照明点灯装置、日本の提灯のようなものでしょうか、それに懐かしい思い出などのメッセージを書き込んで、その400mの送路のはしに置かれてありました。

 家族や友人への思いは、どなたもが強いものです。ただガンだけが死をもたらすわけではありません。どなたも、やがて迎えることです。でも、その対局に、「永遠のいのち」のあることを、聖書は記し、それに至る道を示しているのです。

 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 (ヨハネ524節)』

 厳然たる「死」は避けられませんが、「死からいのちに移されること」を、聖書は明確に告げるのです。どうしようもない運命で、諦めてしまうのではなく、「いのちの付与者」である神さまを信じる者には、永遠のいのちをいただけ、「不死」を着ることができるのです(1コリント15章54節)。この希望を持って、残された時を輝いて生きていきたいものです。

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 一昨日は、6週一度の通院で、近くの医院に出掛け、帰りにスーパーで買い物をして帰って来ましたら、家の玄関の鍵がポケットの中になく、どこかに落としてしまったのです。立ち寄り先に電話して、届いてないか聞いたのですが、どこにも無かったのです。『届いたら連絡させてもらいます。』と言ってくれました。

 どうもなさそうなので、家内用の鍵で、合鍵を作ろうとカインズに出掛けたのです。『マスタキーでないと・・・』とカウンターで言われてしまいました。店の防犯上の決まりなのでしょう。それで散歩の道筋に、『合鍵作ります!』の看板の見覚えがありましたので、その店に回ったのです。

 店番のおばあちゃんが、難しいことは言わないで、コピーを作ってくれました。やはりプロの仕事で、家に帰って来て、その鍵で玄関の扉が開いたのです。それで、聖書の記事を思い出したのです。

 『ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。 2列王656節)』

 この人は、無くしたのではなく、水の中に落としてしまったのですが、預言者エリシャが、一本の枝を水の中に投げ込んだら、重い斧が浮かんだのです。私の失くした鍵も「借り物」でしたから、返さなければなりません。自分はエリシャのような預言者ではなかったので、「木の枝」を投げませんでした。

 助け手エリシャは、いつでもいてくれそうにありません。道具を使う人は、それを使う前に、点検整備が必要なのでしょう。借り物ならなおのこと、楔(くさび)で斧と手持ちの握りの部分がしっかり収まっているかを見るべきです。今回の私の鍵の紛失の場合は、管理が足りなかったのです。

 無くしたのは、脱いだ手袋と一緒に、上着のポケットに鍵を入れていたので、手袋を出す時に地に落ちたのでしょう。ズボンのベルトにキーを収める小物を持っていましたが、冬場にベルトを使わないズボンを履いていたので、それを使わなかったからです。

 今朝は、ズボンを履いて、鍵のホルダーをしっかりベルトとのつなげました。アルゼンチンの研修旅行に行った時に、お土産の小物を買って来ていて、その holder が引き出しにありましたので、それを取り出したのです。

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 鍵といえば、聖書にも「鍵」が出てきます。

 『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。 わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。 彼は、父の家にとって栄光の座に着く。(イザヤ222223節)』

 この預言のことばによると、「鍵」はだれの肩に置かれるのかと言いますと、主イエス・キリスト、救い主、神の子のです。イザヤの時代、パレスチナの地で用いられていたカギは、どんな物だったのでしょうか。どのようなものにしろ、その役割は「開閉」で、閉じられた部屋や箱などを「開ける」ことだったのでしょう。神に関わる秘密や奥義が、開かれていくのかも知れません。その「ダビデの家」、統治者なる神が、イスラエルの王として膏注いで、選ばれたダビデに、その神の民イスラエルの国を任せました。

 ただし、ダビデには、多くの人の血を流したこと、また民の数を勘定して犯した罪がありましたが、やがて「ダビデの子」と自らを言われた、神の御子イエスさまこそが、鍵の担い手でいらっしゃることを預言したのです。マタイの福音書では、神さまが、ペテロに鍵を用いることが欠かされとの記事があります。

 『わたしは、あなた(ペテロ)に天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ1619節)』

 ここに語られているペテロは、教会の土台の岩になるほどの祝福に預かっていますから(マタイ1618節)、「キリストの教会」こそが、「天の御国」、神の奥義、神の約束などと深く関わることを、たとえば解いたり繋いだりできる権威を与えられていることを、ここで言っているのではないでしょうか。

 とにかく、イエスさまこそが、「天の御国」にしても、約束にしろ奥義も、その施錠された世界で、それを開くことにできる方です。私たちにもできるのです。なぜなら私たちは、「キリストと共同相続人(ローマ817)」なのですから。驚くほどの委任、約束、祝福をいただいているのではないでしょうか。

 私の家の鍵は、私の住んでいる玄関しか開けられません。でも、神に関することを開いたり閉じたりすることのできる鍵が、私の手の中にあるのです。それって、きっと「信仰」のことなのでしょう。

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ドジョウ

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 近所の小川に出掛けては、ザルですくい獲ったのが「泥鰌(どじょう)」だったそうです。だれがかと言いますと、私の父でした。だれと一緒に行ったのかと言いますと、予科練に行こうとしていた「シゲちゃん」でした。どこでかと言うと、母の故郷の島根県の出雲だったのです。

 『凖ちゃんのお父さんは、ドジョウが好きで、いつも誘われて、小川で獲ったもんです!』と、出雲を訪ねた時に、懐かしそうに話してくれました。母の家の隣に住んでいた方でした。当時は街中の小川は、コンクリート製の堤などなくて、自然のままでしたから、ドジョウも多くいたのでしょう。

 そのせいでしょうか、『凖、駒形に行ってドジョウを喰おうな!』と何度も、元気だった父が言っていました。よほど美味しかったのでしょうか、『俺の子だからきっとドジョウが好きなんだろう!』と思ったのか、喰いしん坊の私にご馳走しようとしたのかも知れません。

 東京の街に詳しい父でしたから、浅草の銘店にも、何度も足を運んだのに違いありません。「駒形」と言うのは、六区とか浅草寺(せんそうじ)とか雷門の近くにあって、人の賑やかな街だったのでしょう。今でも通りの傍に店を構えて、営業をしています。

 江戸以来の「どぜう料理」を出すので人気店の様です。「柳川(やながわ)」と言う鍋料理があるのです。骨の苦手な人には、骨抜のドジョウに、さきがけにしたゴボウを、醤油や味醂などの割り下で煮込み、卵とじにして、ネギのみじん切りを添えてあるのです。

 江戸時代からのドジョウ料理で、鰻などと一緒に、人気料理だったようです。本格的なものは食べたことがないので、父を思い出しながら、浅草を訪ねてみたいのです。コロナをお土産に帰って来てはいけませんので、まだ自重しているところです。

 東武鉄道は、浅草から埼玉、千葉、群馬、栃木の各県を、12の路線で結んでいて、1899年の開通しています。創業者は甲州人、現在の山梨県山梨市出身の「鉄道王」と異名をとった根津嘉一郎です。繁華な東京と地方を結ぶ鉄道路線を創業したことは、鉄道に使命をよく心得た人だったことが分かります。

 この根津嘉一郎は、教育事業にも財力を用いて、武蔵大学、武蔵工業大学など、大きな大学ではないのですが、次代を担う優秀な人材を育てて来た学校を設立しています。根津の命名した社名の「東武」とは、〈武蔵国の東部〉と言う、田舎を結ぶ路線を目指して命名した社名のようです。

 浅草から、小学生が電車に乗って、大平山に遠足をしたのだそうです。また栃木県から、賑やかな大都市東京を訪ねて、観劇など文化に触れ、買い物のためにも、多くの人たちが利用したのでしょう。コロナ禍が落ち着いたら、まだ浅草まで、ここから直通電車では行ったことがありませんので、「柳川」を食べに出向きたいものです。

 特急ではなく普通電車に乗って、地下鉄線、東急線に乗り継いで、JR南武線まで出掛けたことが何度もあります。『イキハヨイヨイカエリハ・・・』で、帰りの東武電車で、栃木への車窓は、利根川や渡良瀬川の鉄橋を越えると、都会から田んぼの多い農村部になって、ちょっと寂しさを覚えてしまいます。

 でも空気も景色も人情も、良い栃木なので、ここが好きになっている私です。でも、まだドジョウ一匹、見たことがありません。浅草、昔は「浅草雷門駅」と呼んだそうで、そろそろな気配がしますので、そんな浅草に、行かなくては!

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教会のいのちは説教である

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 同じ牧師のお話です。

 『昔、私の牧する教会に、Nという老人がいました。私はNさんを好みませんでした。むこうも同様に私を好いてはくれませんでした。親子ほど歳の違う牧師と会員の関係は複雑にして微妙で・・・(役員会で)あわや茶碗が飛ぶかと思われる場面が二度三度。

 役員会を土曜の夜にした時などみじめでした。次の日が日曜です。「Nさんがどうか休んでくれるように!」と何度願ったかしれません。ところが休むどころか日曜の朝になると、定刻きっちり定席に座っているではないですか。

 私は砂をかむような思いで説教しました。Nさんは献金を集め、すばらしい祈りをしました。私は「負けた!」と思いました。Nさんは、説教者が説教職として召されていることの重さを、しっかりと受けとめていたのです。説教者が気にくわんといって、礼拝をボイコットするようなことをしませんでした。

 Nさんはなかなかのサムライでした。Nさんは、講壇に立つ説教者の中に、年齢、経歴、個性、それらを見ませんでした。見つめるべきは《神の主権》であり、行うべきは《みことばへの聴従》であるとわきまえていたのです。この堂々たるふるまい。みことばの支配の厳粛さに打たれた私は、説教者が育てられるとは、「これだったか!」と、しみじみ思った次第です。(中略)

 説教が大切だ、と言われるわりには、語る者も聞く者も、それを大事にしていない。いったい説教が《いのち》にならぬ理由と原因はなにか。そのへんをとことん考えてみることから、教会の再建は始まります。もちろん前進もそこにはあります。』

 この方は、『教会のいのちは説教である!』と言うのです。私たちの教会を導いてくださった宣教師のみなさんは、まさにそのように教会を建て上げておられました。無駄な例話はしません。面白おかしく話しませんでした。

 なぜなら、会衆は「いのち」を求めて教会にやって来られるからです。くつろぎや笑いはいりません。それは他に求めることができるからです。キリストの教会は、赦し受け入れてくださった神の前に出て、賛美し、十字架の贖いに感謝して、聖餐に預かる神の家なのです。ジュネーブ教会のカルヴァンは、『かくして見ゆる教会は、われわれの視野に、はっきり浮かび上がってくる.なぜならば、神のみことばが、純粋に説教され、聞かされ、聖礼典がキリストの制定に従って執り行われるところ、どこにおいても神の教会が存在することは、疑うべからざることである。』と言いました。

 お隣の国で、私が説教をする時、借家の大広間の集会場の前から二列目に座って、いつも、じっと耳を傾ける青年がいました。故郷から出て来られて、近くのモールの料理店でコックのお仕事を修行されていて、礼拝が終わると出勤していました。《主に聴く》ことをされていてた方でした。私たちの帰国後、故郷に帰られたそうです。彼ほどの聞き手に会ったことは、これまでありません。

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在り続ける教会

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 伝道の道に入って間もない頃に、一冊の本を読みました。牧会30年の辻宣道師の「牧会生活の処方箋」です。教会生活の諸相を綴ったものでした。その本の冒頭に、次の様な記事がありました。

 『ある日、母に言われて元教会員(教会は政府の命令で解散させられていた)だったひとの所へカボチャを分けてもらいに行きました。農家でした。たしか父が牧師であったころ、役員をしていたひとでした。

 驚きました。「おたくに分けてやるカビチャはないね!」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょうか。平穏無事な時は、まっさきに証しなどして張り切っているひとでしたが。

 そのガッシリした体格は、いかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個も分けてくれぬひとになってしまったのか。

 私には弟が三人いました。あのチビたちに何を食べさせようか、とぼとぼ帰っていった日のことを覚えています。リンゴ畑にそろそろ寒さがしのびよってくる夕方でした。

 そんなものかと思いました。人間いざとなれば、信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになってなかなか素直に神もひとも信じられませんでした。』

 この牧師のお父さまは、1942年の初夏に警察に連行され、治安維持法違反で拘束され、拘置所、裁判所、刑務所と続き、懲役二年の服役中に、青森刑務所で亡くなられています。彼が中学二年の時だったそうです。お父さまの亡骸を、お母さまと刑務所に、リヤカーをひいて引き取りに行き、亡骸が棺桶の中で、ごつごつ当たる音を聞きながら教会に帰ったと言っておられます。

 この少年は、戦後、叔父の世話を受け、神学校で学んで、任職されて牧師となられています。牧会者の子弟として生まれ育ち、茨の道をたどりながらも、お父さまと同じ道を歩んだことは、驚くべ強烈な証しではないでしょうか。

 これは、キリストの教会が持っている「二面性」を言い表してる経験談でしょうか。こう言った現実があって、教会は二千年の歴史を持っているわけです。難儀な時や経験を経ながらも、ドッコイ滅びることなく、連綿と、教会の主であるイエスさまと共に、都市にも農村にも漁村にも、そして山村にも、「キリストの教会」はあり続けての今なのです。

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この違いの感謝を

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Looking down on a yellow softball in a brown leather glove with a red baseball cap and an aluminum bat sitting in the grass with a green padded wall in the background

 

 〈ジイのひがみ(僻)〉と言われようと何のその、プロスポーツ界に見られる〈契約金〉の額の凄さに、目の玉が飛び出しそうです。大卒初任給25000円(1967年国家公務員給に準ずる初任給)と言うことで、社会の中に飛び出しました。今年の高校野球からプロに入る、ある若者の契約金が、〈一億円〉なのだそうです。

 やってみました、割り算です。4000と出ました。プロ野球チームと契約した高校三年生の若者初任給が、私の時代の初任給の四千人分になります。45年前の貨幣価値と今とは違うのですが、単純比較の結果です。

 先頃、アメリカの球界と契約を結んだ吉田正尚選手は、レッドソックスと〈5年総額9000万ドル(122億円)〉の金額での契約だそうです。サッカーにしろ野球にしろ、普通人との差の大きさに開いた口が塞がらないでいます。

 人生の目的がお金だとするなら、彼らは成功者ですね。73歳で、27才で始めた伝道者の仕事(実務)から、家内の病気を機に退きました。スーパーマーケットやコンビニの床掃除、スーパーマケットの青果部のパート、結婚式の司式をしながら、〈四足の草鞋〉を履き替えて牧会伝道をしながら4人の子を、家内と一緒に育てました。

 とにかく〈分を果たした〉と言う思いでおります。私のような者が、福音宣教の業に携われたとするなら、人の側からするなら奇跡ですし、神の側からするなら、きっと「憐れみ」だったことでしょう。〈大学で教える〉、これが私の学校を出る頃の人生設計でした。能力の問題ではなく、世渡りの術ででした。

 私が奉職した学校には、短期大学がありました。責任をとって声を掛けてくださったのは、その学校の社会科教科主任をされ、私が就職した時には、短大の教授で教務部長をされておいでの方でした。いわば、〈師匠と弟子〉の関係でした。数年の後に、短大で教え、将来、ある大学の講座を持つようなレールの上に、〈大師匠〉に置いてもらっていたのです。

 九州の福岡の教会の留守を任されていた兄を、出張途中に訪ねた時に、私の人生が変わり始めたのです。兄が東京に戻り、教会の責任を受けた時、ニューヨークから神学校の教授が来られ、特集で私の頭に手を置いたのです。その時、《聖霊のバプテスマ》を受けたのです。

 その異言を語っている間、イエスさまの十字架の死が自分の罪の身代わりだと言うことが分かり、同時に『伝道したい!』と言う願いが突然、私の心を占めたのです。野心があった私でしたから、その後、普段の生活の中で、その思いを消そうとたのですが、消えませんで、なお日毎に強くされていったのです。

 兄に責任を委ねたアメリカ人宣教師は、新しい地での開拓伝道をされようとしたのです。何人かの候補がありましたが、けっきょく私を連れていくことを決め、『どうですか?』と打診されたのです。私は、躊躇することなく二つ返事をして、着いて行くことに決めました。学校に退職届を出したのです。けっきょく、この社会で〈不義理〉をしてしまったのですが、《教会の主》から召命と確信してでした。8月になったら出発とのことで、母教会のメンバーの方の鉄工所でアルバイトをし、お嬢さんの家庭教師も始めたのです。

 『キリスト教の伝道をするって、そんなにいい給料がもらえるんですか?』と、そこの従業員の方に聞かれ、返事ができませんでした。出掛けた地は、私の生まれ故郷だったのです。父の友人が果物商で、市の中央青果小組合の理事長をしていておいででした。この方の紹介で、卸商の方が競りで買った青果を、車に積む仕事を始めたのです。パウロの伝道生涯が、Tent maker(天幕作り)であったことに励まされてでした。午後はトラクト配布、夜は聖書学校でした。

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 この50年、辛いこともありましたが、やめようとは考えませんでした。『来てください!』が忘れられず、隣国に出掛け、13年の間、学校で日本語を、週2日教えました。そう、若い日の願いが、お隣の国の大学で叶えられたのです。そして群れの建て上げの手伝いを、家内と共にさせていただきました。実に祝福の溢れる年月でした。

 礼拝出席を、〈パーティー参加〉と言う隠語を使っての知らせを理解してもらえず、遊んでばかりいると言われたこともありました。あちらこちらの群れを訪ねて、講壇には立ちましたが、みなさんに教えらることばかりの年月でした。いつもいてくださったのは、

 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル415)』 『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(同218節)』

 「教会の主」、イエスさまが、いつも助けてくださった年月だったのを思い返して、また新しい年を迎えられるのを感謝しています。ウクライナ戦争、これが発端になって、第三次大戦を引き起こしかねない情勢ですが、助けてくださるお方と共に、どんな事態の元でも生きていきたいものです。

(上海の外灘、路地裏の風景です)

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