.
.
1957年1月、第1次南極地域観測隊が派遣され、南極のリュツォ・ホルム湾にある東オングルに、「昭和基地」が開設されました。現在は、世界の気象観測網の拠点にもなっており、約30名の隊員が1年間観測活動を行う日本の主要基地として、半世紀を超えて維持、管理、運用を続けています。南極観測隊が、日本から最初に派遣されたのが、その頃、自分は中学生でした。日本が、昭和基地を設けて、他の国と協力して国際気象観測に当たったり、南極点踏破などに貢献したのです。通っていた中学校の先輩が、第一次観測隊の一員で、講演に来てくれたことがありました。その話を心驚かせて聞いたことがありました。
自分と同じ学舎で学んだ先輩が、当時、注目の南極観測に従事していたのは、後輩としての誇りでした。それで身近に南極を感じて、その重要な務めを再認識したのです。寒く過酷な地に行ってみたいと思ったことはありませんが、冒険心を刺激されたことはあったでしょうか。小学校低学年の時に住んでいた街の道路の反対側で、大きなお店をやっていたご両親の子で、一級先輩に弟さんがいました。
その南極観測に、実は悲しい話がありました。人や機材や物資の運送のために、まだ雪上車が作られる前に、橇を引くために、樺太犬が雪上移送のために派遣されていたのです。この樺太犬は、従順で融和性や忍耐力に優れ、樺太でずいぶん昔から、人間の近くで、人や物資の搬送を任って橇を引いて、忠実な働きをする犬種で、重宝された家畜のようでした。翌年、第二次の観測隊が接岸しようとした時に、大嵐があって、その天候不良のために、ヘリコプターで人や機材を運んだのだそうです。天候不良の中、苦渋の選択で、運び切れなかった14頭の樺太犬を観測基地に、鎖に繋いで残したのです。それはは苦渋の選択と決断でした。
ところが一年後の1959年に、第三次観測隊が昭和基地にやって来た時に、14頭の内、一年後に2頭の兄弟犬のタロとジロが生存していたのです。それは奇跡的な出来事で、日本中に喜びのニュースが伝えられました。そんな歴史を記す観測事業は、連綿と今日に至るまで続けられています。やがて南極に環境保護の必要が言われて、犬の派遣はとりやめになったのです。生存の二頭は、残留遺棄された越冬用食料やアザラシの糞を食べ繋いで生き抜いて、犬同士が共食いななかったと、犬の世話をされた北村氏は語っていたそうです。リーダー格のリキが、若い二頭の世話をしていたのも生存の理由だとしています。
冬に、私たち駕 日本に戻った時、しばく滞在させていただいた家で、階段で転んで、左肩を激しく打ったったのです。湿布しておけば治るだろうと思っていましたら、一向に痛みが引かなかったのです。教会の方に、華南の省立病院に連れて行ってもらって、MRIを撮ってもらい、札幌の整形外科病院に送信のです。その診断は鍵盤断裂で、入院加療、リハビリが必要だとうので、札幌に参りました。鍵盤断裂の専門医院だったからです。
この手術とリハビリで滞在した札幌に、北海道大学植物園があって、そこでタロとジロの帰国後の世話がされていたそうです。14歳ので長寿を全うして死んでいます。死後に剥製にされ、タロは北海道大植物園で、ジロは東京・上野の国立科学博物館で剝製として展示されているのです。
盲導犬、警察犬、狩猟犬、介護犬、セラピー犬たちは、賢明に仕えて、私たちの助けを担っています。これほど、人の近くで助けとなり、仕えてきた動物は他にありません。家内が道で出会ったい飼い主との会話で、『オスですか、メスですか?』と聞いたことがありました。すると飼い主の女性が、しばらくして、『この子は女の子です!』と答えてくれたそうです。飼い犬ではなく、もう家族の一員なのだと知らされて、キョトンとしたのだそうです。それだけ人と犬の距離が近いのだと思わされたのです。
(“いらすとや” のタロとジロ、犬橇です)
.





















