花々に囲まれて主と春を待つ

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 去年の誕生日に、お祝いとしてシクラメンの花鉢を贈ってくださった方がおいでです。今も窓辺で、綺麗な様子で慰めていてくれます。先週の雪、その降り積もる世界と窓のガラスに隔てられたシクラメンとが、そのコントラストを見せてくれて、今も美しいのです。

 親の信仰を、子どもに強いて、その宗教活動に連れ歩いている母親と、その活動に従って、屈託のない幼児期、少年期の時間と心を、傷つけられて、社会性が育っていない、いわゆる「宗教二世」を、助けて、その縄目や束縛からの解放する働きをしてきている姉妹がおいででした。その方がお祝いにくださったのです。

 私たちを、いつも助けてくださった方でした。今は、ご主人の実家に戻られておいでで、時々メールもくださいます。この方のことが思い出されます。数年前に、安倍氏が狙撃された事件の裁判の判決が出て、ずいぶん重い刑が下されたようです。人一人の命を奪ったのですから、厳しさも当然なのでしょうか。その方も「宗教二世」で、お母さまが、献金に躍起になって、家族もご自分の人生も台無しにされた、新興宗教の被害者家族の子です。

 その姉妹が、一度、そんな境遇の青年をお連れになって、交わりに来たことがありました。私も宗教二世でしょう、母親の信仰を継いで、伝道者の道に入ったのですから。母はパートで働きながら、教会に通い、献金もしていたようです。でも家事を放棄するようなことはありませんでした。14の救いを堅持し、父に厳しく怒られて、夕食をとらせてもらえなかった時に、台所の叩きの上に跪く私に、丼飯に味噌をのせて食べさせてくれたことがありました。
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 その母の教会では、献金箱が、礼拝堂の入り口の内側の壁際に置かれてあるだけで、月定献金や集会ごとに、それを入れる籠や袋が回ってくるようなことはありませんでした。どなたが献金をしているかは、だれにも分かりませんでした。礼拝出席も厳守していましたが、強制があった様子もありませんで、いそいそと母は出席し、週日の聖研や祈り会にも出かけていました。父は一言の文句も言わなかったのです。

 私たちの教会でも、同じでした。義務の献金ではなく、自分の心で決めたように献金がなされていました。私は、どなたにも献金を促したことも、強いたこともありませんでした。それに、教会員制度も名簿もなかったのです。教会の主がご存知なら、それでいいのだと思ったていたからです。礼拝出席も強制がありませんでしたが、無秩序でもなかったのです。それが母教会の在り方でした。

 地震などで被災された方たちのために、援助を覚えた人が、その旨明記して献金されたら、確かな送金先に、会計をされる方が送金し、その報告はなされていました。ところが、献金を強いることだってあるのです。キリスト教会でも、牧師が全部自在に使って、その報告もなされない事例もあると聞いて、驚いたことがありました。

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 伝道とか証詞を義務付けることもしませんでしたが、新しい来会者はおいででしたし、友人やご家族を連れておいでだったりしていました。教会が機能するための欠けは少なかったと思っています。不満も不足も不備もありませんでした。自主にお任せし、牧師手当てが足りなければ、あの使徒パウロように、Tent makerとして働けばいいのであって、私は、それを実践しました。

 あの姉妹がお連れになった青年が、自らの命を断ってしまったと、教会堂に来られて祈っておいででした。助けられなかったと、姉妹は自らを責めいたのです。私たちは、神さまを信じていても、魂の救いを切望し、証をしても、無力さを覚えてしまうことがあります。私たちができることに限界を知るべきです。そして自分を責める必要はないのです。私たちは、そう言って彼女を支えたのです。

『なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(新改訳聖書 1コリント7章16節)』

 何故なら、私たちのできることは、わずかであって、人を救いに導くのは、聖霊のお働きです。お任せしないと、自分を責めてしまい、喜びも責任も日常も失ってしまいます。私たちの限界を知って、神さまのお働きにお委ねして、自分のできる分を誠実に果たせば良いのだと思っています。

 自分の家族や友人の救いも同じです。祈っているのですが、なかなか救いに導かれないことだってあります。ある牧師さんが、訪ねてきた青年に救いへの道を語ったのに、自死してしまい救えなかったと自らの限界を知らされたのです。職業牧師だって、そう弱さを感じることだって多くあります。限界を知るべきであって、死後にも悔い改めの時があるという聖書解釈(セカンドチャンス信仰)や、全ての人が救われるという教えに逃げ込んで、責任を取り違えてしまうこともあるのです。

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『こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(ローマ14章12〜13節)』

 聖書は、神は愛だと語っているから、その神さまが人を裁かれることなどあり得ないと信じている方がおいでです。人は、やて神の前に立って、申し開き、弁明でしょうか、そうする時があると、聖書は記しています。

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル9章27節)』
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と、死んだ後に審判があるとも言っています。神の愛と裁きは、相反して矛盾しているのでしょうか。だからヒューマニズムと、自分を責め立てて、異なった聖書解釈に、逃げ込むのでしょうか。それとも、どうすべきでしょうか。聖書をしっかり読むなら、自明のことなのです。

 80を過ぎて、もう2、3年生きられるかなと思っています。どんな結末を迎えるのか、自分には迷いがありません。「キリストのさばきの座(2コリント5章12節)」に、自分は立たされて、報酬を得られ、主なるキリストと共同相続人として、永遠を過ごせると確信しているからです。「大きな白い御座」の審判の座の前に立つことがないとも確信しています。そんな信仰を母から受け継ぎ、そう教えられ、そう聖書を読み、そう人に語らせていただいてきました。素敵な一生に感謝の朝です。

 今朝も、窓辺で、昨日たっぷり水やりを終えたシクラメンの花が綺麗です。また、誕生祝いに頂いたポインセチアも、弟が家内に贈ってくれた小鉢の胡蝶蘭と長女が家内に誕生日に送ってくれた胡蝶蘭が芽を膨らませてきて開こうとしています。ベランダでは、婿殿や次男が送ってくれた花々が、春を待っています。次女夫婦が買ってくれた防寒着も、もうすぐ脱ぐ時が来そうです。先日は、長男家族がたこ焼きパーティーを開いてくれました。昨日、投函してから2週間ぶりの外孫娘からのGreeting cardが届きました。もうすぐ主が来られるでしょうか?

 主に愛され、みんなに愛されて、孤独を感じることなく、今を感謝で過ごしています。

(“いらすとや”“Christia ncrip arts”のイラストです)

 

ただ恩寵によって

 

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『あなたがたは、恵みにゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。おこないによるのではありません。だれもほこることのないためです。(新改訳聖書  エペソ2章8・9節)』

 1971年の春に、私は、母が通い、高校生だった弟が、宣教師さん夫妻の必要のために、背負子を背に、冬季に必要なストーブ用の薪運びをして、薪割りをし、上の兄が献身し牧師となり、すぐ上の兄も含めてバプテスマを、兄弟4人が受けた教会で、教会の礼拝などでピアノ奉仕をして、保育士をしていた女性と結婚したのです。

 そこは、テキサスの教会から派遣された宣教師さん夫妻が開拓伝道されて始まった教会でした。引っ越して来て住み始めた街に、十字架を掲げていない教会を、その結婚相手のお母さんに、母が紹介されて集うようになっていた不思議な関係があるのです。その街の路上で、偶然出会って、この二人は、お互いがクリスチャンであることを、初見で認め合ったのだそうで、それで話が弾んで、その教会が紹介されたのです。

 出会いとは不思議なものがあります。路上でたまたま出会った双方の娘と息子とが、主の前で、誓い合って結婚したのですから、縁(えにし)の妙と言えば、とても不可思議なことに違いありません。その教会にいた何人もの姉妹たちの中から、兄が家内を紹介してくれて、司式は、その宣教師さんと兄とがしてくれたのです。

♯ 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
誘(いざな)いの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰(たれ)ぞ直(ただ)ちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し♭

 この「人生の海の嵐に」の賛美を、結婚式の中で歌うように選んだのは私でした。私の最初の職場に出入りしていて、私を教師として推薦してくださった方で、この方の教えておいでの大学の附属高校で、教師をしていた時だったのです。この方の奥さまは、家内が学んだ高校の音楽教師だったのにも驚かされていました。

 この方が、結婚式に参列してくださって、『人生が、まだ始まったばかりの二十代の半ばの彼が、人生の嵐など吹き荒れていないのにね!』と、式後のレセプションの時に、家内に、そう言ったのだそうです。実はそうではありませんでした。〈危機の中2〉とよく言われますが、ご多聞にもれず、そこを通過した私は、運動部の先輩に仕込まれて、イッパシの不良になっていて、Y本や喫煙や喧嘩やコソ泥や不正乗車などに、手を染め始めていたのです。もう嵐に巻き込まれていて、嫌なほど暗い顔をしていたことでしょう。

 それでも、酔っ払って酩酊している大人たちを見て、『あんな目の濁った小汚い大人にはならないぞ!』と言う思いはあったのです。それでもギリギリのところで、深みに堕ち切らなかったのは、母親の祈りがあって、主の忍耐と憐れみを受けた以外には考えられません。中3の終わりに、担任が、『よく立ち直しました!』と言ってくれたのです。附属校に上げてもらえて、まあまあ守られて、大学まで行かせてもらいました。

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 就職も、中高の恩師の紹介で決まり、社会人になりました。上べは、さっそうたる青年に見えたのだそうです。小さい頃からよく知っておられる近所のおばさんに、そう言われたことがあったのですが、内実は、小汚い大人の仲間入りをしてしまっていたのにでした。

 100%真性の「小汚い大人」になっていたのでしょう。熊本に出張した時、当時、北九州の大きな街で伝道されていた宣教師さん家族の帰米中の留守役を仰せつかった上の兄が、そこにいました。その兄の所に、仕事の2日ほど前に出掛けて、寄ったのです。そこで〈聖なるショック〉を受けたのです。殴られたり蹴られたりし、学生時代は麻雀狂で、酒は飲む喧嘩はするの兄が、10人ほどの高校生ばかりの教会で、何と伝道者として、嬉々とし、楚々として奉仕している姿に強烈な驚きを覚えたのです。まさに、「あの兄の変貌ぶり」にでした。そのお世話していた高校生の中から、やがて、開拓伝道に遣わされ、牧師となったり、牧師の婦人になった方たちが何人も起こされたのです。

 人間って、こんな風に変わるものなのだと、驚きを感じて、兄の家、教会堂に2日ほど滞在する間、酒もタバコもやめていたのでした。その晩、兄を誘って、寿司屋に一緒に行きました。そこで上寿司を、私が奢ったのです。そんな贅沢はできずに、倹(つつま)しく義姉と幼い甥と生活をしていた兄が、上トロ寿司を食べましたら、鼻血を出してしまったではありませんか。久しぶりのご馳走に、のぼせたのか嬉しかったのか、異変を見せたのです。それにも驚かされたのです。

 それから出張先に行ったのです。東京の本部から来た若造の私を、夜になると接待の宴を開いてくださり、芸者さんをあげて酒宴が催される、それが私の出張のお決まりで、山口や博多や新潟に行くと、どこでもそんな接待を受けるのでした。お決まりの乱行でした。恥ずかしい行状の数々、きっと表では、立場上、敬意をあらわしても、心の中では馬鹿で小生意気な若造者だと、私は呆れられていたのでしょう。恥も外聞もなくなりつつあった頃でした。

 その時の出張は、ほどほどにブレーキがかかったのでしょうか、真面目に過ごして帰京したのです。その年の暮れには、留守役を兄は終えて、東京に戻り、母教会の副牧師になったていたのです。その兄家族が、教会の牧師館に住むことになって、住んでいた家が空くことになったわけです。そこに住まないかと兄夫婦に言われて、住み始めたのです。どうも兄夫婦の謀(はかりごと)だったのです。その職場から推薦されて、都内の高校の教師に、翌春にさせていただいたばかりだった頃でした。

 教会の姉妹(自分と結婚した相手ですが、この時点ではまだそんな話になっていませんでした)の自転車を貸してもらって、家から駅近の教会に寄って、自転車を、そこに置いて電車通勤をし始めたのです。義姉に誘われて、夕食を食べるようになって、義理堅い私は、仕事のない日曜日には、感謝のつもりで、兄が牧会する教会の礼拝に、義理で出るようになっていきました。実は、母に誘われて高校生の頃から、特別集会があると時々出席していて、信仰告白をしていたのです。でも教会から遠ざかって、ふしだらに生きていた私なのにです。次第に水曜日の聖書研究会に出るようになり、何と土曜日の祈祷会にも出てしまい、深みに入り込んでいくのです。

 ある週の祈祷会中に、付き合い始めていた女性が、車で連れ出そうと訪ねて来たのです。それを断ってしまうほどに、教会に入り浸りな感じの頃でした。自分でも、本当の自分ではないような、人生上の一大変化の時期を過ごし始めていたのです。その秋に、宣教師さんの友人で、ニューヨークの聖書学校で教える四十代後半のアメリカ人が、教会にやって来て、特別集会がありました。ギリシャ人のお父さんとアラブ人のお母さんの息子で、若い頃はボクサーだった方でした。

 その特集に、出るように、兄に誘われたのです。〈聖霊のバプテスマ〉を受けるための特集でした。ちょっと気狂いじみた発言をするように見えた姉妹たちが、教会にいて、嫌だなあと思っていた私は、出たくなかったのです。その日、仕事から帰って来て、夕食には、兄の食卓に、その元ボクサーのおじさんも一緒でした。食べ終わって家に帰りたいのに、帰れないでいて、もじもじしていている内に、けっきょく集会に出る羽目になったのです。

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 その晩の集会で、兄が、私の座る後ろの席に来て、前の席に座るように招いたのです。何かが起こりそうに感じ、こわくて突っぱねて出ませんでした。二日間の集会で、次の日も同じような状況でしたが、その特集に出て、兄に誘われると、フイットと立ってしまい、前の席に座ってしまったのです。自分の意思に反して、そんな風になってしまったわけです。講壇で話を終えた、ボクシングで痛めたのでしょうか、すこし斜視のギリシャ人とアラブ人の血を引く髭のおじさんが、私の頭に手を置いて、異言で祈り始めたのです。

 天から降り注ぐのでしょうか、体の奥底から湧き上がるのか、突き上げてくるのでしょうか、経験したことのない衝動があって、口から異言が突いて出たのです。意識はしっかりしていましたので、発狂したのではなかったのです。自分の意思に反して、舌がもつれるようにして、語ったことのない異質の言葉が吹き出したのです。恍惚状態ではなかったと思います。ただワーワーと言ったのでもなく、言葉でした。ただ意味不明のノンコントロールの発言でした。

 五旬節のエルサレムで、イエスさまの弟子たちが、聖霊なる神さまの導きの祈りの中で、語り始めたと同じような経験でした。世界中からエルサレムを訪れていた人々が、自分の国の言語で、その人たちが語っているのを聞いた、その他国の言語を予想させる言葉を、私は語ったのです。パウロがしきりに、その経験を勧めた、あの言語の実体験だったのです。ただ語っていたのではなく、神を褒め称えていたのです。まさか、自分の舌と唇が、不思議な、自分では理解できない言葉を語るとは、驚きでした

 その異言を話している時、私は声を出して泣いたのです。様々な罪を悔い改め、それが赦された感謝に、心が溢れて泣いたのです。あのままだったら滅びて当然だった私が、まさに滅びる寸前、罪に汚れた小汚い闇に落ち込んでいた男の私が、すんでのところで神さまの憐れみを受けたのです。そして、十字架が、実母も実父も知らない母が、14で信仰告白をし、クリスチャンとなって救われるための十字架だけではなく、この自分の罪の赦しのためであり、救いにための十字架だと、初めて理解できたのです。そして献身の思いも湧き上がってきていました。

 あれから55年になります。本当に献身し、宣教師に従って聖書を学び、訓練の8年の後に、宣教師さんの後の責任を負って、61まで、そのl開拓教会で奉仕し、隣国に出掛けて、日本語を教えながら、教会で奉仕をさせていただきました。そんな年月を経て、今の自分が、ここにあります。あの赦された経験は、今も鮮明で、その確信は少しも揺らいでいません。滅びの淵に立っていた私が、こんな人生を歩められたのは、救い主イエスの愛と憐れみ、忍耐と赦し以外に考えられません。昨日は、今季初めての雪が降り、14cmほど積もったでしょうか、一面、真っ白な雪景色でした。この降り積もった雪よりも、真綿よりも白くされ、赦されたことを思い返して、ただに恩寵に感謝を覚えた一日だったのです。

(“いらすとや”の嵐、雪景色、“Christian clip arts”の五旬節の火です)

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もうすぐ春がくる

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 よく散歩をするコース上に、一軒の土建屋兼住宅の屋上に、ドームを載せてる家があります。残念ながら、夜間に行ったことがないので、昼間の佇まいから感じ取れるのは、天体に興味のある子どもに、親御さんが備えたのでしょうか。しばらくの間、楽しんだのでしょうけど、学校を出て、他県の学校に入学したか、就職して家を離れたかで、天体観測ドームが遊休しているように感じるのです。子育て経験ある身としての想像です。

 今でもベランダに出ては、夜空見上げるのが好きで、天空に煌めく星々を眺めると、吸い込まれそうに感じるのです。そう言えば、子どもの頃、息子たちを相手にキャッチボールの相手をしてくれた父を思い出します。家の前の道路で、思いっきり兄たちや弟と、投げ合ったのです。けっきょく、すぐ上の兄だけが、野球部に入って、甲子園を目指す野球小僧になったのですが、上の兄も弟も私も他の競技をし始めました。

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 上の兄は、高校で陸上部、進学してからはアメリカン・フットボール、をし、次兄は高校球児で甲子園を目指し、ゴルフが好きでした。弟は山登りを同級生として、富士山や奥多摩の山小屋で強力までし、大学では少林寺拳法とアイスホッケーをし、柔道も六段の段位者になっています。体育教師を母校でしましたから、スポーツ全般に通じているのでしょう。かく言う私はバスケットボールとハンドボール、大人になってテニスをしました。山歩きもし、海でも泳ぎました。.

 やはり、父がキャッチボールを一緒にしてくれたことが、根にあって、それぞれにスポーツをさせてもらったのです。日本が豊かになって行くにつれ、余暇が、スポーツだけでは芸術や文学や趣味に生きていけるように変わって行ったのでしょうか。相撲と野球は、一番陽の当たる、脚光を浴び、子どもたちを楽しませた競技だったのですが、今は多彩で、正月の箱根駅伝、サッカーやバスケット、氷上競技などに陽が当てられるようになっています。
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 とりわけ野球は、MLBで活躍する日本選手の活躍は目覚ましいものがあります。サッカーも欧州リーグで活躍する選手を輩出していて、驚かされています。メジャーではなかったスポーツが、脚光を浴びているのにも、昔日の感なしで、バレーもスケートもスキーも盛んですし、カーリングとかスケートボードという競技もあって、新しい動きに疎くて、驚かされています。今、ミラノ・コルティナで冬季オリンピックが記載されているそうです。.

 自転車競技も、競輪しか知らなかったので、する人が多くなって来て競技大会が開かれたりで、実に多種多彩なのにも驚かされてばかりです。こちらに越して来たばかりの頃に、小輪の自転車を手に入れて、輪行袋も買って、電車でよその街を訪ねて、自転車で走り回ろうとしたのですが、在栃も8年にもなって、あれよあれよと時間がたってしまい、その上、病気がちにもなって、夢のまま終わりそうな今です。

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 どうも、するスポーツから観るスポーツになってしまって、ちょっと寂しくもありますが、時々自転車をこぐのですが、そのまま遠くに行ってみようと思いますが、帰り道が心配で自重してしまっています。これまた致し方のにことなのでしょうか。あんなこと、こんなことのあったのを思い返しながら、過ごしています。

 春の気配が感じられてきました。散歩の楽しみが返ってきそうです。速歩ではなく、のんびり、キョロキョロと散見しながら、春を見つけようと思っているところです。そして、家に帰って、煎餅をかじるのもいいものでしょうか。今日は珍しく雪の予報が伝えられています。次男が来ると言ってきましたが、どれほど積もるのでしょうか。次男の足が心配になっている早朝です。

(“いらすとや”のイラストです)

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その右の手で堅く握られて

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『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41章13節)』

 この聖書のことばを、家内のお母さんが、入院する前に、カードに書き記して、手渡してくれました。1983年の8月の終わりのことでした。上の子たちが小学生、r次男が3歳だったでしょうか。生涯初めての全身麻酔の手術を、東京女子医大病院で、次兄と二台並べられた手術台で受けたのです。名前を呼ばれて、「か」が聞こえた後の記憶はありませんでした。目が覚めたのは、激痛によってでした。目を向けて見守ってをいてくれた看護士(その頃はまだ看護婦さんと呼んでいました)さんの目と合ったのです。

 入院した病室に、私を見舞ってくれた宣教師さんに、『イエスさまの十字架の痛みの何十分の一ででも味わえるのですから感謝します!』と、初めての経験への恐れがあったからでしょうか、軽口をたたいてしまったのです。その「十字架の苦痛」など、人が味わえるはずがないのにでした。そう言ったのに、その舌が乾く間もない術後、咄嗟に、「鎮痛剤」の注射を、その看護婦さんにお願いしたのです。

 耐えられない激痛でした。自分ではけっこう我慢強いと思っていましたが、根っからの弱虫だったのです。初めての大掛かりの手術は、それまで小学校の2年生の時、中耳炎で、耳の中の化膿した部位の切開を受けたのですが、あの時の痛さは、いまだに記憶に鮮明なほどだったのですが、それとは比べられないほどでした。

 「豪語」と言う言葉がありますが、伝道者として召されても、未熟な信仰者の私は、赤っ恥をかく強がりだか、信仰だかを、宣教師さんに、そう語ったことを、強く恥じたのです。主に、『ごめんなさい🙇!』と言いました。また、『自分は良いことをしたのだから、この痛さから解放してください!』と、主に交渉をしたほどだったのです。

 術後の翌日、同室の同じ手術を受けた患者さんから、『歩いた方がいいですよ。回復が早くなるから!』と言われ、歩行器を、まだ無理と思っていたでしょう、看護婦さんにお願いして、病棟の廊下を、痛みをこらえながら歩いたのです。強がりでオッチョコチョイの私は、無理をして、それをし通したのです。見舞いに来た家内や子どもたちに、いいところを見せたかったからでもあっからでしょうか。

 あのイエスさまの痛さと苦しみとは、信ずる者の贖いの代価となられて、身代わりに全て信じる者の罪の呪いを負われて、あの呪いの十字架についてくださった時のものでした。人の想像をはるかに超えた、心身両面の苦しみ、とくに愛され続けてきた御父から、【見捨てられる】、十字架の頂点で、救われる人々の罪、私たちの全ての罪を身に負われて、【罪となられた】ことの、父なる神との断絶でした。聖(きよ)いお方としては耐えられなかたに違いありません。

 十字架の贖い、罪の赦しは、この方法しかなかったのです。神の御子である方が、神であることに固執しないで、人となられて、マリアの胎に、聖霊によって宿ってくださったのです。信じる私たちが、生きる者とされるために味わって下さったのです。養父ヨセフの大工職を継いで、およそ30歳の時に、ナザレの家を出て、ヨハネからバプテスマを受け、伝道の生涯に入られ、神の国を宣べられたのです。12人の弟子たちを、ご自分の働きの後継者として選ばれ、教えられ、彼らと活動を共にした後の十字架だったのです。

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 そのことが解って、今や60年近くたちます。先々週、大学病院の手術台の上に、5時間ほど寝ていました。生まれてから心臓が動き続けていること、その神秘さに驚いていた矢先、2024年の暮れに、自分が、その心臓を病むなどと考えてもみなかったのに、心電図検査の結果、心房細動、不整脈と診断されたのです。それで、主治医に、“ Catheter Ablation (カテーテル・アブレーショ)“ をすることを勧められました。家族の勧めもあったのです。でも、不整脈は治らないままでした。2年経って、もう一度、アブレーションを主治医に勧められ、家族の思いもあって受けたわけです。

 右足の付け根から、動脈の中に、カテーテルを挿入して、心臓まで運び、零下40〜50℃の低温で病巣を焼くのだそうです。医療スタッフにお任せして、ほとんど痛みを感じないで目覚めたのです。病院では、メスを使って、患部を手術するのではないからでしょうか、「検査」と呼んでいます。その検査の2日後に退院しました。4人部屋の病室は、入れ替わり立ち替わりで、慌ただしく患者さんの出入りが激しかったのです。

 同室のお一人から談話室で声を掛けられました。明日一時退院して、10日後に再入院すると言われ、同年齢の方と話をしたのです。若い頃から病気をしてこられ、リストラにあったり、釣り好きとか、脳の疾患で、奥さまの作ってくれる食べ物の味がしないとか、娘さんがいるとか話してくれました。

 同じ時代の同じ風の中を生き抜いてきた者同士、気が合ったのでしょうか、話も合ったのです。お隣の茨城県の方だそうで、栃木と同じ訛りのある話しっぷりでした。主治医がベッドの上の私に、検査の準備をしていた時に、そっとカーテンを開けて、一時退院の挨拶をして出て行かれたのです。人懐っこい方で、病室で、わたしの履いていたスクールシューズが、カーテンの下に見えなかったとかで、面会室で、私の履いている靴を見て、隣の患者だと解って話しかけてこられたのです。『どこで買われたのですか?』と聞かれて会話が始まりました。

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 今では、病室風景も様変わりしているのでしょうか、カーテンを閉め切って、隣同士でも会話がなくなってきているのを感じたのです。痛かったりして不自由でも、自分のベッドの回りのカーテンは開け放ってあって、以前はよく、目を合わすと、仕事の話や子どもの頃の話をしたり、食事の終わったトレーを運び合ったり、助け合ったり、労わり合ったのですが。病気の種類、病棟によって、そして時代の変化もあって、部屋の雰囲気や状況も違うのです。

 入院患者が多すぎて、内臓器の疾患で、循環器科、泌尿器科、整形外科の混合病棟でしたので、看護師さんとみなさんとの話が耳に入ってきて、どうも重症そうでした。われわれ世代の年寄りの老人病棟のようだったのです。みなさん、何かひっそりと寡黙でした。

 40年前は、三十代の終わりの年齢での入院手術でしたから、働き盛りの患者さんばかりでたが、今回は老人ばかりでした。札幌の整形外科病院で、鍵盤断裂の縫合手術をした時は、みなさんが中年くらいの患者層でした。病室内でいじめられた方に、相談されたり、旭川の方は、開拓農民の子で、家や学校での体験談をいろいろと話してくれ、『夜間のカップラーメンがうまいので、どうですか!』と言って、二度ほど頂いて、二人でこっそり食べたら、本当に美味しかったのです。食堂で、ワイワイガヤガヤできたから、そんな話を聞けたのでしょう。

 今回は5日間の入院、検査で退院したのです。退院の翌々日が、掛かり付けの街医者の診察日だったのです。タクシーを呼べばいいのに、次男が置いていったヘルメットを被り、自転車でソロリソロリと出掛けてしまいました。病院からの検査結果と今後の治療の方法などの指示書を、掛かり付け医に渡したのです。投薬も必要で、処方箋で隣の薬局で薬を処方していただく必要があったからです。

 帰りに、行きつけのスーパーに寄って買い物をしました。やはり、だいぶ無理をしてしまったようです。それで、それ以降は、しずかに優等生をしています。

 昨日は、寒さと少々体力不足の家内の通院日で、代理で宇都宮の病院に私が参りました。私と同世代の漢方医とペイン医を兼ねた方 が主治医で、家内の様子を伝えたのです。毎月一回、宇都宮で持たれる、がん患者と医師と医療スタッフ、そして家族の交わりである「メディカル・カフェ」で、この方は、医療スタッフもされておいでで、良い交わりのある医師なのです。同じくクリスチャンでもあることから二重に交わりが与えられているのです。家内がとても信頼を置いているお医者さんで、私たちが頼りにしている医師なのです。

 さて、老いるとは病との併走のように感じるのですが、健康だった日々を感謝し、今の治療も回復も感謝しながらの私たちです。昨日は、息子さんのプレゼントのセッティングで、金沢旅行をされた隣家の友人が、金沢名物の「きんつば」をお土産に届けてくれました。同病の隣人、友人との交わりにも感謝しているのです。

 そして、何よりも、その右手で、手を優しく握っていてくださる神さまに、最大の感謝な朝であります。

(“いらすとや”のイラストです)

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静かに人を支えられる人に

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 まだ2月の初め、まだまだ寒波の影響が強い日本海側や北海道や東北地方は、雪害だと報じられているのに、もう歌っていいでしょうか。春の訪れを待ち望む想いは、どこにいても同じですから、小学校の音楽の時間に、先生のオルガンの音に合わせて、思いっきり歌った思い出の歌なのです。

1. 春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色うつくしく
咲いているねと、ささやきながら

2. 春の小川は、さらさら行くよ
えびやめだかや、小鮒の群れに
今日も一日ひなたでおよぎ
遊べ遊べと、ささやきながら

 どなたも、歌った覚えがおありでしょうか、今ごろに一番ふさわしい歌なのではないでしょうか。

 赤坂東宮御所に、徳仁さまが皇太子時代にお住まいだった頃のお話です。結婚されて、待ち望まれてお生まれになられた愛子さんが、4歳ほどの頃のことです。お住まいのカーテンをそっと開けて、外を見ておられました。体調が思わしくなくて、外に出られず、室の中にいた時のことでした。

 そんな愛子さまの背中を見ていたお世話係の方が、可哀想に感じたのでしょう、外に出てから帰ってきました。『春をお部屋に持ってきましたよ!』と言って、テッシュに包んだ小さな花束を愛子さまに手渡されたそうです。時間を持て余して、手もちぶさたをしている愛子さんに、庭に咲いている花、タンポポとスミレ、そしてネモフィラを摘んで届けたのです。

 わが家では、この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!』と大声で言って出掛けて行った日々がありました。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩、住宅地を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。白雪の山から吹き降ろす山おろしが、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。

 一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。それを『お母さん!』と言って手渡していたのです。

 東宮御所では、お世話をされるKさんが花を積んで、愛子さんに手渡したのです。すると愛子さんは、『わあきれい、ありがとう!』と感謝したのだそうです。このKさんは、昭和、平成、令和と、宮内庁職員として仕えてこられた方で、幼い愛子さんが安心できる存在だったのです。

 40年ほど、そうして御所の雑務に仕えてこられたのです。雨が降ると、お出かけの主人の家族にさっと傘を差し出し、庭の手入れをして過ごされてきておいででした。時が経って、その方が退職されることになりました。忠実なお仕事をされて、職員の間で尊敬を集めておられた方でした。このKさんのために退職祝いの会が開かれました。

 皇族方も集まられて会が催されたのです。その集まりに、すでに二十歳になられた愛子さんが出席されておいででした。一通の手紙をしたためて、そっと、この方に手渡されたのです。そして、その会のもたれていた部屋から出ていかれたそうです。公務が待っていたからです。

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 その手紙には、次の様な感謝の言葉が綴られていました。『長年、私たち家族を支えて来てくださったことを、決して忘れません。』、『私が外で遊べなかった日、そっと花束を手渡してくださいました。自分のために何かをしてくださる方がいると初めて、その時知りました。』、それは、この方の思いやりへの感謝でした。

『しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに、仕える者になりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新改訳聖書10章43、45節)』

 さらに、『あの時のお花の匂いは、今でも覚えています。あの花束が一番嬉しかったのです!』、家には、たくさん部屋はある中で、自分が戻っていられる空間が、この部屋、この方との交わりだったのだとも述懐しています。『Kさんのように、静かに人を支えられる人でありたいと思っています。目立たないで、人の前に出ず、ただそっと苦しみや不安の中にいる人を受け止められる人でありたいのです!』と、大人になった愛子さんは、そんなことを綴ったのです。

 この手紙に、そのご家族に仕えたKさんは、『自分の仕事が、誰かの心に残っていた、それがだけで十分すぎるほどです。』、これこそが、真の奉仕を知り、それを実行された人の「沈黙の哲学」なのです。言葉で示すことでも、行動でもなく、背中で示す生き方、仕えた姿勢だったことになります。

(知人が送信してくださった「コスミレ」、「タンポポ」です)

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如月となり次兄の癒しを祈る

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 二月、如月(きさらぎ)となりました。眼下の巴波川の流れは、まだ温むこともありませんが、ベランダの右手に見える大平山の山肌は、木々の芽が膨らみ始めているのが、遠く見られるのです。湧き上がるような様は、やがて萌え上がるのでしょう。例年、この時季に見られます。

 雨のない晴天続きですが、湧き水を水源とする、この川は、流れの川面に、陽の光をキラキラと輝かせて、漣(さざなみ)を見せています。江戸期から、明治、大正まで、ここと江戸を結んで舟運が行われ、綱手道(写真左右に見えるのは時を経た逞しい男衆が歩いた敷石です)を人力で曳いて、江戸からの荷を運び、この河岸でおろしたのだと聞きます。悠久の時の流れを思わさせられています。

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 日の光は、気温こそは低いのですが、つよさをまあいきわえていまあう。まだ明けやらぬ早朝の今は、ー5℃ほどの気温で、身が震えます。昨日撮った、トマトが、2月なのに、枝に青い実を、まだつけているのです。冬の奇跡が春に持ち越して、小さな命を繋いでいます。

 まだ自分の足で立ち、歩けているのを感謝するこの頃です。すぐ上の兄が、腰を痛めていると言ってきています。今夏、八十五になります。カレブは、この年齢で壮健であるのを告白しています。木通(あけび)採りをする、この兄の後について、山の中に分け入り、小川で魚つかみで、バシャバシャと兄を追った幼い日が、昨日のように思い出されます。次兄が腰痛から癒やされ、回復するように祈る、2月最初の日の朝です。

 

誡太子書

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 第95代の花園天皇(1297年8月14日〜1348年12月2日)が書き残した「誡太子書(かいたいししょ)」に、次のように遺されてあります。原文は、漢文書ですが、口語文を引用します。

「誡太子書」

余聞く、天蒸民を生じ、之(これ)が君を樹(たて)て司牧すと。人物を利する所以(ゆゑん)なり。下民の暗愚、之を導くに仁義を以ってし、凡俗の無知、之を馭(ぎょ)するに政術を以ってす。苟(いやし)くも其の才無くんば、則ち其の位に処(を)るべからず。人臣の一官之を失ふも、猶ほ之を天事を乱ると謂ふ。鬼瞰遁(のがるる無し、何ぞ況いはんや君子の大宝をや。慎まざるからず、懼おそれざるべからざる者か。而して太子は宮人の手に長じて、未だ民の急を知らず。常に綺羅の服飾を衣きて、織紡の労役を思ふ無し。鎮とこしなへに稲粱の珍膳に飽きて、未だ稼穡の艱難を弁ぜず。国に於て曽かつて尺寸の功無く、民に於て豈あに毫釐の恵有らんや。只ただ先皇の余烈と謂ふを以って、猥みだりに万機の重任を期せんと欲す。徳無くして謬って王侯の上に託し、功無くして苟も庶民の間に莅のぞむ。豈に自ら慙はぢざらんや。又其の詩書礼楽、俗を御ぎょするの道、四術の内、何を以って之を得たる。請ふ太子自ら省みよ。若もし温柔敦厚の教をして、性に体し、疏通知遠の道をして意に達せしむれば則ち善きかな。然りと雖も猶ほ足らざる有るを恐る。況んや未だ此の道徳を備へずして、争でか彼かの重位を期せんや。是れ則ち求むる所其の為す所に非ず。譬たとへば猶ほ網を捨てて魚の羅するを待ち、耕さずして穀の熟するを期するがごとし。之を得ること豈に難からずや。仮たとひ勉強して而して之を得るも、恐らくは是れ吾が有に非ず。所以ゆゑに秦政強しと雖も、漢の并する所と為り、隋煬盛んなりと雖も唐の滅ぼす所と為るなり。而るに諂諛てんゆの愚人以為おもへらく、吾が朝皇胤一統、彼の外国の徳を以って鼎かなへを遷うつし、勢に依よりて鹿を逐ふと同じからず。故に徳微なりと雖も、隣国窺覦きゆの危き無く、政乱ると雖も、異姓篡奪の恐れ無し。是れ其の宗廟社稷の助、余国に卓躒たくらくたればなり。然れば則ち纔わづかに先代の余風を受けて、大悪の国を失ふ無くば、則ち守文の良主、是に於て足りぬべし。何ぞ必ずしも徳の唐虞に逮およばず、化の栗陸に侔ひとしからざるを恨みんかなと。士女の無知なる、此の語を聞きて、皆以って然りと為す。愚惟おもふに深く以って謬れりと為す。何となれば則ち洪鐘は響を蓄ふるも、九乳未だ叩かずして、誰か之を音無しと謂はん。明鏡は影を含むも、万象未だ臨まずして、誰か之を照さずと謂はん。事迹は未だ顕はれずと雖も、物理は乃ち炳然たり。所以ゆゑに孟軻は帝辛を以って一夫と為し、武発の誅を待たず。薄徳を以って神器を保たんと欲するも、豈に其れ理の当たる所ならんや。之を以って之を思へば、累卵の頽嵓たいがんの下に臨むよりも危く、朽索の深淵の上に御するよりも甚だし。仮ひ吾が国をして異姓の窺覦無からしむるも、宝祚の脩短多く以って茲ここに由よる。加之しかのみならず中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふ。豈に悲しからずや。太子宜しく熟つらつら前代の興廃する所以を察観すべし。亀鑑遠からず、昭然として眼に在る者か。況んや又時は澆漓に及びて、人皆暴悪なり。知万物に周あまねく、才夷険を経るに非ざるよりは何を以ってか斯の悖乱の俗を御せん。而して庸人は太平の時に習ひ、今時の乱を知らず。時太平ならば則ち庸主と雖も得て治むべし。故に堯舜生れて上に在らば、十の桀紂有りと雖も、之を乱るを得ず。勢治まればなり。今の時は未だ大乱に及ばずと雖も、乱の勢萌すこと已すでに久し。一朝一夕の漸に非ず。聖主位に在らば、則ち無為に帰すべし。賢主国に当たらば、則ち乱無し。若し主賢聖に非ずば、則ち恐る乱唯ただ数年の後に起こらんことを。而して一旦乱に及ばば、則ち縦たとひ賢哲の英主と雖も、朞月にして治むべからず。必ず数年を待たん。何ぞ況んや庸主此の運に鍾あたらば、則ち国日に衰へ政日に乱れ、勢必ず土崩瓦解に至らん。愚人は時変に達せず、昔年の泰平を以って、今日の衰乱を計る、謬れるかな、謬れるかな。近代の主、猶ほ未だ此の際会に当たらず。恐らくは唯太子登極の日、此の衰乱の時運に当たらんか。内に哲明の叡聡有り、外に通方の神策有るに非ずば、則ち乱国に立つを得ず。是れ朕が強ひて学を勧むる所以なり。今時の庸人、未だ曽て此の機を知らず。宜しく神襟を廻らして此の弊風の代に尚くはふべし。詩書礼楽に非ざるよりは、得て治むべからず。是を以って寸陰を重んじ、夜を以って日に続ぎ、宜しく研精すべし。縦ひ学百家に渉わたり、口に六経を誦するも、儒教の奥旨を得べからず、何ぞ況んや末学庸受にして、治国の術を求むるは、蚊虻の千里を思ひ、鷦鷯の九天を望むよりも愚かなり。故に思ひて学び、学んで思ひ、経書に精通し、日に吾が躬を省みば、則ち似る所有らん。凡そ学の要たる、周物の智を備へ、未萌の先を知り、天命の終始に達し、時運の窮通を弁じ、若ここに古に稽へ、先代廃興の迹を斟酌し、変化窮り無き者なり。諸子百家の文を暗誦し、巧に詩賦を作り、能く論義を為すがごときに至りては、群僚皆掌つかさどる所有り。君王何ぞ強ひて自ら之を労せんや。故に寛平聖主遺誡に、天子雑文に入って日を消すべからずと云々。近世以来、愚儒の庸才、学ぶ所は則ち徒に仁義の名を守って、未だ儒教の本を知らず、労して功無し。馬史の所謂博くして要寡き者なり。又頃年一群の学徒有り、僅かに聖人の一言を聞いて、自ら胸臆の説を馳せ、仏老の詞を借り、濫みだりに中庸の義を取り、湛然虚寂の理を以って、儒の本と為し、曽て仁義忠孝の道を知らず。法度に協はず、礼儀を弁ぜず。無欲清浄は則ち取るべきに似たりと雖も、唯是れ荘老の道なり。豈に孔孟の教たらんや。是れ並に儒教の本を知らざるなり。之を取るべからず。縦ひ学に入ると雖も、猶ほ此のごときの失多し。深く自ら之を慎み、宜しく益友を以って切磋せしむべし。学すら猶ほ誤有らば、則ち道に通し。況んや余事をや。深く誡めて必ず之を防ぐべし。而して近曽ちかごろ染むる所は、則ち少人の習ふ所にして、唯俗事のみ、性相近く習は則ち遠し。縦ひ生知の徳を備ふと雖も、猶ほ陶染する所有るを恐る。何ぞ況んや上智に及ばざるをや。徳を立てて学を成すの道、曽て由る所無し。嗟呼あゝ悲しいかな。先皇の緒業此の時忽ち墜ちんと欲す。余性拙に智浅しと雖も、粗あらあら典籍を学び、徳義を成し王道を興さんと欲するは、只宗廟祀を絶たざらんが為ためのみ。宗廟祀を絶たざるは、宜しく太子の徳に在るべし。而して今徳を廃して修めずんば、則ち学ぶ所の道をして、一旦溝壑に填めて、亦用ふべからざらしむ。是れ胸を撃ちて哭泣し、天に呼んで大息する所なり。五刑の属三千、而して辜不孝より大なるは莫し。不孝の甚だしきは祀を絶つにごとかず。慎まざるべけんや。恐れざるべけんや。若し学功立ち徳義成らば、啻ただ帝業を当年に盛んにするのみに匪あらず。亦即ち美名を来葉に貽のこし、上は大孝を累祖に致し、下は厚徳を百姓に加へん。然らば則ち高くして危からず、満ちて而して溢れず。豈に楽しからずや。一日屈を受くるも、百年栄を保たば、尚ほ忍ぶべし。況んや墳典に心を遊ばしむれば、則ち塵累の纏牽無く、書中故人に遇あへば、只聖賢の締交有り。一窓を出でずして、而して千里を観み、寸陰を過ぎずして、万古を経。楽の尤も甚だしき此に過ぐる無し。道を楽しむと乱に遇ふと、憂喜の異る、日を同じくして而して語るべからず、豈に自ら択ばざらんや、宜しく審つまびらかに思ふべき而已のみ。

【現代語訳】

 私(花園天皇)が聞くところによれば、天が庶民を生み、君子を立てて民を養うのは、人や物をうまく利用するためである。民は愚かであり、これを導くのに仁義をもってし、凡俗の無知を治めるのに政治を以てする。もしその才能がなければ、君子の位についてはならない。人民の一つの官職でさえも、これを失うと、やはり天下は乱れるという。すきを狙う鬼の災いは逃れることができないのだ。ましてや、君子の大切な仕事については、必ず慎み、恐れなければならない。

 それなのに、皇太子は宮中の人たちの手によって成長し、いまだ庶民の苦難を知らず、常に華やかな衣服を着て、糸を紡ぎ布を織る大変さを思うことがない。いつまでも庶民の供した穀物のおいしい料理を腹いっぱい食し、いまだ種植えや刈り取りの苦労を知らず、国に対してかつて少しの功もなく、民に対してほんの少しの恵みもなかったではないか。

 ただ先帝の残した威光というものをもって、何も考えず君子の政務の重責を遂げようとする。徳がないのに誤って王侯に託し、功もないのにもし庶民の中に赴くならば、これほど恥ずかしいことがあろうか。また、詩書礼楽という庶民をまとめる四術をどうやって習得するのか。皇太子自ら反省してほしい。もし(詩経にあるがごとく)温かみと誠実さの教えをを身につけ、諸事に通じる見識で世の意味を悟れば、それは善いことである。とはいえ、やはり足りないことがあることを恐れ、ましてやいまだ自らが道徳を身につけず、少しでもかの重い位を期待するのであれば、これは求めることと為すべきこととが違っていることになる。たとえば、まるで網を捨てて魚がかかるのを待ち、耕さないで穀物が熟すのを期待するかのようである。これらを得ることは決して難しくない。たとえ勉強してこれらを得たとしても、おそらくはそれは自らのものになっていない。

 秦の政治が強かったといっても、漢と並ぶところとなり、隋や煬が盛んだったといっても、唐がそれを滅ぼすところとなった。しかし、へつらう愚人は次のように考える。我が朝廷は万世一系で、かの外国(中国)の、徳を以て政権交代し、武力を以て政権を争うのと同じではない。だから徳が少なくても、隣国がすきを窺う危険性はなく、政治が乱れるといっても、他民族に政権を奪われる恐れはない、これは我が国が守られているのであって、他国にまさっている点である、と。であれば、わずかにでも先代の威光を受けて、最悪の国にしなければ、伝統の法制を守った良い君子として充分であろう。必ずしも徳が堯舜に及ばず、教化すること栗陸氏に等しくないことを心配する必要はない、と。無知な庶民は、こうした言葉を聞いて、皆そのとおりだと思ってしまう。私はこれは深く間違っていると思うのである。

 なぜならば、釣り鐘は響きを蓄えているが、それを叩かなければ、いったい誰がこれを音がないと言うだろう。澄んだ鏡はそこに影像を含んでいるが、すべて鏡の前に立たなければ、いったい誰がこの鏡は映らないと言うだろうか。結果はいまだ顕れずといえども、物の道理はすでに明らかである。よって孟子は紂王を逆賊とし、武王を責めることはなかった。少ない徳で神器を保持しようとして、どうして理の当たるところとなるだろうか。もしそのようにしようと思うなら、累卵が崩れる岩の下にあるよりも危険で、腐った縄が水底の上にあるよりもひどい。たとえ吾が国を他民族からの侵略から守ったとしても、皇位の交替が多くなるのは、そのためである。

 これに加えて、昔から武力革命が続き、皇室の権威はついに衰えている。なんと悲しいことではないか。皇太子よ、かつての皇室の興廃する理由をよく観察するがよい。手本は近くにあり、明らかに目に見えるものである。ましてや、時は流れ、人が皆暴悪になるに及び、智慧が万物にあまねく広がり、才能が世の太平と波乱を経験する以外に、どうやってこの乱れた俗世間を治めることができるであろうか。そうして凡庸な人々は太平の時に慣れてしまい、かつてのその時の世の乱れを知らない。時代が太平ならば、すなわち庶民と君主といえども治めることができる。でから、堯舜が生まれて庶民の上にいるならば、十の桀紂がいたとしても、世は乱れるはずもない。勢いが治まっているからである。

 現在、いまだ大きな乱に及ばないといっても、乱の勢いがきざしてからすでに久しい。一朝一夕といった少しの時の話ではない。聖主が位にあれば、すなわち平穏であろう。賢主が国政に当てれば、すなわち乱はないだろう。もし主君が賢聖でなければ、すなわち恐ろしいことに乱はたった数年の後に起こるだろう。そして、一旦乱が起きれば、すなわちたとえ賢哲のすぐれた君主といえども、数ヶ月で治めることはできない。必ず数年を待つ必要がある。ましてや凡庸な君主がこうしためぐり合わせのもとに立つならば、国は日に日に衰え、政治は日に日に乱れ、国勢は必ず土崩瓦解するに至る。愚人は時の変化に気づかず、かつての泰平をもって、今日の衰乱を判断する。なんとも誤った考えではないか。近い代の君主はいまだこのような運命には際会していないが、おそらくはまさに皇太子が即位する際、この衰乱の運命の時に当たるのではないか。内に賢明な聴く耳を持ち、外に各方面に通ずる優れた策があるのでなければ、乱国に立つことはできない。これが私が強く学問を勧める所以である。現在の凡庸なあなたはいまだかつてこのような時機というものを知らない。よくその思いをめぐらし、この悪い風習の時代の上に加えなさい。

 詩書礼楽をもってせずしては世は治めることができない。これを手段として寸陰を大切にし、夜も昼に続いて、精しく研究するのがよろしい。たとえ学問が百家にわたり、六経を暗誦するとしても、儒教の奥義を得ることはできない。ましてや、大学・中庸を学ばずして、治国の術を求めるのは、蚊や虻が千里の遠きを思い、鷦鷯(みそさざい)が九天の広きを望むよりも愚かである。だからこそ考えて学び、学んで考え、経書に精通し、日々自己を省みれば、そのようなことに似ることはないだろう。学問の要たる万物の智を身につけ、まだ起きていないことを先に知り、天命の終始を理解し、時運の難易を区別し、もしくは過去と今を比較し、先代の興廃の道筋を斟酌するなど、変化すること際限がない者である。諸子百家の文を暗誦し、巧みに詩賦を作り、議論を為すことができ、多く官僚が皆それぞれを掌握する所があれば、君主がどうして自らこれらを労する必要があろうか。だから、宇多天皇の遺誡に「天子、雑文に入りて日を消すべからず云々」とあるが、近ごろ以来の愚かな儒学者は、それを学ぶというとただ仁義の名を守ってばかりで、いまだ儒教の本質を知らない。苦労は多いが功はない。司馬遷の言う「博くして要寡きもの」である。また、最近一群の学徒がおり、わずかに聖人の一言を聞いて、自らの臆測の説を用い、仏陀や老子の言葉を借りて、みだりに中庸の意味に取り、湛然虚寂(豊かに落ち着いているさま)の道理をもって儒教の本質となし、まったく仁義忠孝の道を知らず、法度に従わず礼儀をわきまえず、無欲清浄は取るべきものに似ているといえども、ただこれは老荘の道であり、孔孟の教えではない。これは同時に儒教の本質を知らないことであり、これを取るべきではない。

 たとえ学問の道に入るといっても、なおこのような失敗が多い。深く自らこれを慎み、有益な友を得て切磋されるべきである。学問でさえ誤りがあれば、道に遠い。ましてやその他のことは言うまでもない。深く誡めて必ずこれを防ぎなさい。そして、近ごろあなたが親しくするところ、すなわちつまらぬ人の慣れ親しむことはただ俗事のみで、本性は相近くとも、習いはすなわち遠い。たとえ生来の徳を備えるといえども、なお感化されることがあることを恐れる。ましてや上智に及ばないことを恐れないでよかろうか。徳を立て学識を成す道は、かつてより由るところがない。ああ、悲しいかな。先皇の諸業績は、今時たちまち堕落してしまうだろう。

 私は本性が拙く、智恵は浅いといえども、ほぼほぼ典籍を学び、徳義を成し、王道を興そうとしている。それはただ宗廟の祭祀を断絶させないためである。宗廟の祭祀を絶やさないかは、太子の徳にかかっている。だから、今あなたが徳を捨てて修めないならば、学ぶべき所を一旦溝に埋めて再び用いないようにしてしまうことである。これは私が胸を撃たれて号泣し、天に叫んで大きく嘆息するところである。五刑のたぐいは数多くあるが、罪として不孝よりも重大なものはない。その不孝の中でも、祭祀を断絶させることよりも甚だしいものはない。慎まねばならない。恐れねばならない。もし学問の功績が現れ、徳義を成就すれば、ただ帝の御業績を現世で盛んにするだけではなく、また美名を来世に残し、上は先祖に大孝を致し、下は庶民に厚徳を与えるだろう。そうすれば、高くしてしかも危うからず、満ちてしかも溢れない。なんと楽しいではないか。一日の屈辱を受けて、百年栄えを保つなら、忍従することができる。ましてや積み重なる古典に心を遊ばせれば、つまらない束縛もなく、本の中で故人に遭えば、ただ聖賢との交流がある。小さな部屋を出ずして千里を思い、あっという間に万古を旅する。楽しみに最も甚だしいものは、これに過ぎるものはない。道を楽しむと乱に遭遇するのと、憂い喜びの異なること、日を同じくして語ることはできない。あなた自身どちらを択ぶべきか、よく審らかに考えるべきである。(「不二草子」の訳です)

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(2019年(令和元年)8月19日、即位後初めての那須御用邸のでの夏季静養中のご一家の写真)

 この訓戒の書を、今上天皇の徳仁さまは、ご自分が天皇として、国民に仕えるに当たって、「座右の書」として、深く学ばれたのです。重責を担う指導者としての優れた学ぶに叶う訓戒です。上に立つ指導者の任にある人たちにために、次のようににするように勧めています。

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(新改訳聖書1テモテ2章1~3節)』

(“ウイキペディア“の今上天皇の御師印の「梓」、天皇ご一家です)

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あおちゃんの活躍に

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 今は、北半球では最も寒い季節、その上、寒波がヨーロッパやカナダ、そしてアメリカを襲っているとニュースが伝えています。日本のいわゆる「雪国」でも、類をみないような降雪があり、インフラが乱れています。カナダのエドモンドでは、−30度の極寒の冬にあります。

 その寒さの中で、交通インフラが大きな問題を起こし、自動車のエンジンがかからないし、機器の操作が不可能な状態にあります。とくに寒さに対応できないEV車(電気自動車)が、降雪、寒冷の道路上で、大きな問題を見せているのだそうです。車輌価格が廉価で、燃費も安く、先端の電子制御や操作が先端技術の駆使で製造されているのですが、さしもの寒さに対応できていないのです。

 C国が、一大キャンペーンを張って売り込み、大歓迎されて買われた のに、冬季の寒さ対応が不備で大混乱なのだそうです。凍結のアルバータ州の路上で、動いている車は、トヨタや日産の車だけで、とくに通勤ができず、路上に出たとしても、機器操作ができずに、社会問題化して、どう対応するかで大慌ての様相を見せています。

 同じように、−20度の気温のウクライナでは、2022年2月に始まった戦争は、停戦もままならず、戦いの真っ最中にあります。侵略者ロシア軍に立ち向かって、祖国防衛のために、砲火の中、武器を手に取って、兵士たちが勇敢に戦っているのです。開戦以来、両国の人的損害は、戦死者を含めて200万人にも上ると、ニュースは伝えていて、戦況は泥沼の状態です。

 人間は、その悲惨さを味わった過去の教訓を学ばないで、繰り返す愚かなものたちではないでしょうか。主に戦争です。次男が言っていたのを覚えていますが、政治や基幹産業をする大人の都合で、若者たちを駆り立てて戦場に送って老人たちの都合だよね。ところが、いつも軍需産業などを動かしている大人たちに銃を持たせられて、戦場に戦いに行かせられるのは、若者たちなんだ。戦争するなら、軍需産業者たちが若者の代わりに、そう言った連中同士で戦えばいいよ!』とです。

 ずいぶん理に適った戦争論だなと感心したことがありました。製鉄業を発展させ武器製造に関わる事業家と、あの戦争商人たちの思惑が、他国の領土を、産業振興という名で、資源や市場を狙って奪取しようとして来たのが、近代戦争でした。今も、その献金で潤う、お腹の出た、不道徳な生活をする政治指導者によって、そんな若者たちが、『祖国のために!』と嘯(うそぶ)かれて、最前線に送られているのは迷惑の極みです。北朝鮮からは、雇われ外人部隊の兵が送り込まれているのも、おかしな話ではないでしょうか。

 さて、そんな若者たちが、戦いの前線に立たされる中、世界中からウクライナに支援があるのだそうです。日本から、「使い捨てカイロ(蓄熱剤)」が贈られたのだそうです。銃や銃弾などの武器や暖房器材や食糧の支援の中、そんな戦いに直接役立たない物に、呆れ返られたのです。ところが包み袋を破って、降ってみると発熱し、暖かいのです。極寒の中で、兵士たちの手先や背中が温められるような配慮に、どんなにか力づけられたか分からず、自分驚かされたのだそうです。

 カナダの凍結の路上でも、ウクライナの前線でも、日本人の目先だけではない、儲けだけではない、使う人、受け取る人の必要への細かな配慮と工夫と改善があって、物作りがなされ、贈り物が選ばれていくのです。それは実に特異な日本人の優点ではないでしょうか。

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 そんなウクライナの祖国を後にして、一人の青年が、日本にいます。その中は、ダニーロ・ヤブグシシン(Данило Явгусішин [dɐ̞ˈnɪ.lo jɐ̞ʋ.ɦʊ̜ˈsʲi.ʃɪn][3] (Danylo Yavhusishyn))、1355年に創建された、ウクライナのヴィーンヌィツャ出身の21歳で、2022年4月に来日しました。7歳で相撲を始め、国内の大会で優勝し、ロシアの侵攻前のギリギリの時に、日本に来ることができ、大相撲に合格して相撲取りになっています。

 今月行われた正月場所で、大相撲・関取の青安錦新大(やすあおにしきあらた)関、あだ名で「あおちゃん」が、この青年です。私は、琴ヶ浜や玉の海、千代の山、鏡里などが活躍していた頃からの、相撲大好き少年で、兄たちの贔屓の琴ヶ浜が「内掛け名人」だったので、この技を真似て、相撲を取ると、この内掛けで勝っていたほどです。在華年月が長く、テレビを家に置かない主義で、相撲を観る機会がなかったこともあって、だいぶ長く大相撲に疎かったのです。

 先場所と今場所で優勝したのが、この安青錦でした。「青」はウクライナの国旗や自身の目の色、「安」」は師匠の現役時の四股名の安美錦から一字を取っていて、祖国愛に燃える力士なのです。戦火の祖国、祖国にいる家族や友人たちを、どんな風に思い、相撲を取っているのでしょうか。 

 ウクライナの味方の私は、このお相撲さんを応援したいと、この正月場所の活躍をネットで知って、やけボックリに火が着いてしまったようです。強いからではなく、直向(ひたむ)きな相撲愛にも感じるものがあり、ウクライナを応援する気持ちで、安青錦を応援したいと思う一月の末であります。

(“ウイキペディア”のウクライナによる反ロシアの旗、ウクライナ国花のヒマワリです)

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車輪の異音に気付く

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 ドヴォルザークは、ヨーロッパのチェコのプラハの出身の作曲家で、後年はアメリカに招かれて活動をしますが、4年ほどで帰国をしています。演奏の初めと終わりが、至極元気な「新世界より」が有名で、どなたも聴き覚えがありそうです。

 お父さんは肉屋を営んでいましたが、トランペット奏者としても名手だったそうです。小学校の校長先生からヴァイオリンの演奏を、彼は習うのですが、腕前をメキメキと上達させていき、教会などで演奏をし始めました。お父さんは、その家業を継がせるつもりでいましたから、音楽に没頭していく息子を奪われてしまうような危機感を覚えて、学校を中退させて、よその街に修行に行かせるのです。

 ところが、その修行先の街で、また校長先生と出会い、その先生が教会の礼拝でのオルガニストだったのです。その教会で、ヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏や、作曲理論を学ぶ機会を。彼は得ます。その街に篤志家がいて、プラハの音楽学校で学ぶ機会を、ドヴォルザークに開くのです。

 家内が、小学校6年の時に、ピカピカの一年生の女の子を連れて、隣町の小学校へ、一年間、電車通学の助けをしたそうです。その懐かしい関係を思い出したのか、手紙のやり取りがあって、ここ栃木にいることを知って、2年ほど前に、わが家を訪ねてきたのです。この方が鉄道フアンで、「大回り乗車」を趣味にしていて、[優しいお姉さんの旦那さん]の私に、それを教えてくれたのです。

 それ以来、誘発されて、JR東京圏の大回り乗車を、ペーパーの上で始めるようになってしまったのです。いくつかのルートを書き出して、擬似大回り乗車をします。最寄駅から隣駅までの乗車券を買って、反対周りの電車に乗って、幾つもの路線を乗り継いで来て、その周遊の後には、もう一方の隣駅で下車し、駅の改札で、『〈規則第70条、150条の選択乗車2〉で大回り乗車して来ました!』と言うと、下車できるのです。その下車駅から、私の住む街の駅まで乗車券を買えば、それだけの運賃で一回りできるのです。ただ途中下車は不可なのです。まだ実行してませんが、暖かくなったらやってみようと思っています。

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 あの鉄路の上を走る車輪の音、揺れ、駅舎の様子、駅員さんの業務ぶり、父が旧国鉄の車両の部品を扱う会社に関わっていたこともあって、自分も、そんな鉄道に魅せられたのかも知れません。小学校の国語の教科書で、鉄路と車輪の摩擦音の異常音を聞いて、事故を防止したヨーロッパでの実話を思い出したのです。その人が、このドヴォルザークなのです。この方は、子どもの頃から鉄道に強い興味を持った人だったそうです。そう言えば、「新世界より」を聴いていると、電車がレールの上を走る光景や車輪の音が聞こえそうに感じてしまうのです。

 ドヴォルザークは、蒸気機関車が発明され頃に誕生していて、機関車や駅や時刻表や、機関車を運転する機関士などにも、強烈な興味を持った子ども時代を過ごしているのです。あの車輪のリズミカルな音を、聴くのが大好きで、駅によく出掛けたそうです。かく記す自分も、山奥から出て来て、旧国鉄の電車の走るそばで遊んで、列車音を聞いたり、保線区のおじさんたちの作業場に出入りさせてもらったり、同級生のお父さんが国鉄職員で、官舎に住んでいたからでしょうか。シュシュポッポの蒸気機関車の音も、汽笛の音も耳の奥に残っているのです。兄の同級生の家が国鉄関係者で、鉄道学校に進学して、電車の車掌をされていて、自分の乗った電車の車掌をしていたこともありました。

 音感というのでしょうか、ドヴォルザークは、鋭い感性の持ち主だったので、いつも聞いている音と違う異音に気付くのです。『今すぐ汽車を止めて点検してください。走行音が異常だ、このままでは大事故に繋がるから!」』と騒ぎだしたのです。機関士は、『通常通りで問題なんかないのに!』と取り合わなかったのです。『いつもとリズムが違うんだ!音楽家の私の耳を信じてくれ!』と訴え続けたため、仕方がなく点検をします。するとドヴォルザークの言ったとおり、欠陥が見つかり、大事故を避けることができたのです。

 私の世代が学んだ国語教科書に載っていた話で、家内もよく覚えていると言っていました。日本だけの話ではなく、ヨーロッパの片隅で起こった出来事を、教科書の教材に組み入れる、日本の教育の普遍性に驚かされるのです。そんな初等教育を受けられ、日本人の知的な骨格を作られたことを感謝している朝です。それにしても現代、世界中から、何か異音が聞きえてきているように感じて気になって仕方がありません。

(“いらすとや”の機関車、レールの保線作業の様子です)

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物作り日本の「愚直の努力」が

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 邪魔な子どもと言うよりも、将来も潜在力も可能性も、そして時間も、あらゆることに満ち溢れている子どもを大事にしてきたのが、日本の社会だったのではないでしょうか。

 坂の途中に父の家があって、そこを降っていくと人家や店だけでなく、桶屋が二軒ありました。父の道具箱に入っていたよう道具とは違って、種々雑多な道具があって、それが壁にきちんと置かれていて、おじさんは板の間の作業場に、胡座(あぐら)で座っていたのです。作業に必要な道具を手元に置いて、十二分に干した板を、手と足を使って、削ったり、合わせたりして、手桶や風呂桶を作る作業を、木屑の中でしていました。その鉋(かんな)の作業は、桶の内と外を削るために、内鉋と外鉋を巧みに使い分けるのです。

 その仕事ぶりを、遠藤操家は桶〈おけ〉屋と呼ばれる。大正中ごろから終戦後しばらくまで桶などを作った。通りに面した四畳半の板の間を仕事場にして、町域内はもとより泊村などからの注文に応じて仕事をした。

 製品には、みそ桶、しょうゆ桶、漬物桶、ふろ桶、すし桶、手桶、あげ桶(肥料の溜〈た〉め桶)、水たご、肥〈こえ〉たご、洗濯だらい、おかわ(だ円形の便器)、おひつ、あかかえ(舟の水かえ桶)などがあった。これらはすべて一定の大きさで作られた。嫁入り道具の一つとされた三つ重ねのたらいの場合、底の直径が大一尺七寸、中一尺五寸、小一尺などと決められていた。このため、桶の種類によって異なった定規(カイガタ)を用い、榑(くれ)の側板の丸みや両側の切り口の角度を見定めながら削った。外側を締めるたがには竹あるいは針金を用いた。主な工具には、榑の両面を削る内ガンナと外ガンナ、榑の接合部を削るショウジキガンナ、たがを締めるためのズダガネ、仕上げ用の左ガンナなどがあった。

 素材は杉が多かったが、みそ桶やしょうゆ桶にはクリの木を、ふろ桶にはアスナロを使った。特に堅いクリの木をすき間ができないよう密着させるためには、熟練した技術を必要とした。仕事は九月ごろからたがの修理の注文が多かった。これは、このころたがに使う竹の切り出しが始まるためであった。また年末には、正月用の若水たごの注文も多くあった。忙しい時には朝から夜遅くまで仕事をした。たがを締める工程は大きな音がするので、夜間は避けた(遠藤操の談による)。』(出典は鳥取県湯梨浜町のHP「生業職人」からです)。』

と記していました。まさに桶職人の仕事の手順なのです。また何ヶ月かに一度、自転車に乗って、「鋳掛屋」のおじさんがやって来て、道路脇に座り込んで仕事をしていたのです。鍋底の空いた穴をふさぐ作業をしていました。その作業の道具は、桶屋の店に比べたら、自転車の荷台に積めるほどで少なかったのです。路面電車用のように小型のレールを切り取って、持ち運べるように作業用に改造して、その上に鍋を置き、金槌で材料をのせて、トントントンと鍋底の穴をふさぐのです。また折れた傘の修理をするおじさんもいたでしょうか。

 自分の親とは違った仕事をする大人の仕事ぶりには興味津々で、座り込んで、じっとおじさんの手元を見ていたのです。このおじさんたちは、『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言いませんでした。覗き込んでいる子どもたちに、仕事振りを見させてくれたのです。この世の中で鋳掛屋や桶屋などの職人さんなんて、たいしたことのない職業かも知れません。でも桶や鍋や傘が、 どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、その仕事も作業も必要だったに違いありません。それにしても随分と安い工賃だったのを覚えています。

 それでも、仕事にprofessionalの誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ《ハナ垂れ小僧》に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。農作業だってそうでした。学校の行き帰りの田んぼでは、春から秋にかけて、おじさんやおばさん、お爺さんやお婆さんたちが、黙々と仕事に励んでいたのです。

 父は、幾つもの鉱山を渡り歩く、鉱山技師の仕事をしていて、満州や朝鮮や山形や中部山岳の山で、採鉱の仕事をし、戦後は、県有林から木材を切り出して、戦時中の仕事を終えた従業員の再就職の事業をしていました。そしてそれが終わると、東京に出て、知り合いの方たちと会社を始めていました。よく父の職場に連れて行かれ、あのおじさんたちのような手仕事ではなかったのですが、飽きず慌てず、電話機やペンをとって懸命に働く姿を見せてくれたのです。亡くなる数年前からは、なっての最後の仕事は、醸造の機械や道具などを扱う会社の手伝いをしていました。

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 その子どもの頃に住んでいた街の旧道と新道が交差する角に、衣服や履物や雑貨、薪や炭や練炭などを商う昔ながらの大きな店がありました。おばさんが、店員さんを使って切り盛りしていたのです。あの頃の履物は、ズック靴が出る前で、タイヤの再利用のサンダルや下駄の時代でした。『おばさん、下駄ちょうだい!』と言うと、婦人物の下駄を取り出してきて、『これだよね!』と言うと、渋い色の下駄緒を選んで、手早くすげてくれたのです。お金を払って、履き古した下駄を置いて、カランコロンで家に帰ったのです。

 テキパキした仕事をして、店員さんを上手に使っていた、母よりも二回りほど高齢のおばちゃんで、「やり手」の店番でした。ご主人が霞んでしまうほどの働き者でした。あの地域で、一番早くテレビを買われ、庭にゴザを敷いて、そこに座って観たのです。日曜日だったでしょうか、休みには父も一緒に観たことがありました。父だけ座敷に招かれていたのです。その四角い箱の中で、力道山がプロレスをしているのを、目をマン丸くして観た記憶があります。

 大人と子どもの距離が、今よりも近かったのではないでしょうか。1950年代の初めの頃でしょうか。東京オリンピックが行われる10年ほど前だったでしょうか。日本が大きく変化していく時期で、やがて物のあふれる高度成長期を迎えるのです。どの家でも、秋には秋刀魚を、モクモクと七輪で焼き、全国民が同じ物を食べていたようでした。間も無く高度経済成長期の始まる前の頃だったのです。

 父の世代が中心になって懸命に働き、その基礎の上に、私たちの世代が引き継いで、やがて世界に冠たる経済大国の「物作り日本」が築き上げられて行くのです。その勤勉さ、緻密さ、正確さが世界の評価を得ていったのです。町工場の零細企業が、矮小なネジ一本、ベアリングの玉一個を精魂込めて作り、それを搭載した精密機器が世界に評価され、世界大に拡大し、国際企業となって行ったのです。ソニー、パナソニック、ホンダ、トヨタなどは世界企業となっています。

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 そこには、「愚直の努力」の積み重ねがありました。長いの弛(たゆ)まない努力や改善や工夫の積み上げがあったからです。世界が真似しても、同じ物を、同じようには作れないほどの優秀なその部品で、製品を生み出していったのです。その「巧みさ」、「器用さ」こそが、日本の誇りです。そう言った国民性を受け継いだことを、神さまに感謝しなければなりません。傲慢になってはいけません。あの戦争も侵略も、この国土が焼土と化す審判を受けたことを忘れず、そこから立ち上がらせてくださった、神さまの憐れみに感謝を忘れてはなりません。

 一方では、敗戦に打ちひしがれた日本人に、欧米から派遣された宣教師さんたちによって福音が語られ、一時期は、その伝道集会が日本中の街で行われ、張られたテントも借りた講堂も、人であふれていたそうです。そして多くの人が、語られた福音のメッセージに応答し、信仰を告白したのです。その数は実に多かったと言われています。その時期の復興と、その後の繁栄で、彼らの多くは教会と繋がりませんでしたが、あの悔い改めを、神さまは覚えておいなのです。再び、亡くなる前に、再び悔い改めがなされ、あの世代は召されていったに違いないと、信じるのです。『人は一たび救われるなら、永遠に救われる!』と、私は信じる信仰者だからです。全知の神さまは、それをご存知です。

 私の父は、横須賀の街の教会で聞いた福音のことばを、生涯、心の奥に持ち続けたのでしょう。召される1週間ほど前に、牧師となっていた長男から、再び福音を聞かされて、悔い改めたのです。辛く厳しい61年の生涯の終わりに、永遠のいのちへの救いを受けて、病院で召されました。やがて主の声を聞いて蘇り、神の国に入れられるのです。祖父に手を引かれて教会に行っていた父の信仰の完成です。侮(あなど)るなかれ、福音を信じる人の少ない、日本の教会の中でも、世の始まる前に選ばれた人は、どのように生きたとしても、必ず救われるのです。

 生活の中で見せた父の几帳面さを、父の懸命な仕事ぶりも、私は忘れていません。人生の最後に、神さまのみ前で、きちんとした整理を終えたと、私は信じています。その父の勤勉な仕事を見せてもらい、その働きで得た物で、養われ、教育を受けさせてもらって、81年生きてこれたことに、改めて感謝する朝なのです。

(”ウイキペディア“の浮世絵、ベアリング、“いらすとや”の下駄履きの学生さんです)

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