ただ恩寵によって

 

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『あなたがたは、恵みにゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。おこないによるのではありません。だれもほこることのないためです。(新改訳聖書  エペソ2章8・9節)』

 1971年の春に、私は、母が通い、高校生だった弟が、宣教師さん夫妻の必要のために、背負子を背に、冬季に必要なストーブ用の薪運びをして、薪割りをし、上の兄が献身し牧師となり、すぐ上の兄も含めてバプテスマを、兄弟4人が受けた教会で、教会の礼拝などでピアノ奉仕をして、保育士をしていた女性と結婚したのです。

 そこは、テキサスの教会から派遣された宣教師さん夫妻が開拓伝道されて始まった教会でした。引っ越して来て住み始めた街に、十字架を掲げていない教会を、その結婚相手のお母さんに、母が紹介されて集うようになっていた不思議な関係があるのです。その街の路上で、偶然出会って、この二人は、お互いがクリスチャンであることを、初見で認め合ったのだそうで、それで話が弾んで、その教会が紹介されたのです。

 出会いとは不思議なものがあります。路上でたまたま出会った双方の娘と息子とが、主の前で、誓い合って結婚したのですから、縁(えにし)の妙と言えば、とても不可思議なことに違いありません。その教会にいた何人もの姉妹たちの中から、兄が家内を紹介してくれて、司式は、その宣教師さんと兄とがしてくれたのです。

♯ 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
誘(いざな)いの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰(たれ)ぞ直(ただ)ちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し♭

 この賛美を、結婚式の中で歌うように選んだのは私でした。私の最初の職場に出入りしていて、私を教師として推薦してくださった方で、この方の教えておいでの大学の附属高校で、教師をしていた時だったのです。この方の奥さまは、家内が学んだ高校の音楽教師だったのにも驚かされていました。

 この方が、結婚式に参列してくださって、『人生が、まだ始まったばかりの二十代の半ばの彼が、人生の嵐など吹き荒れていないのにね!』と、式後のレセプションの時に、家内に、そう言ったのだそうです。実はそうではありませんでした。〈危機の中2〉とよく言われますが、ご多聞にもれず、そこを通過した私は、運動部の先輩に仕込まれて、イッパシの不良になっていて、Y本や喫煙や喧嘩やコソ泥や不正乗車などに、手を染め始めていたのです。もう嵐に巻き込まれていて、嫌なほど暗い顔をしていたことでしょう。

 それでも、酔っ払って酩酊している大人たちを見て、『あんな目の濁った小汚い大人にはならないぞ!』と言う思いはあったのです。それでもギリギリのところで、深みに堕ち切らなかったのは、母親の祈りがあって、主の忍耐と憐れみを受けた以外には考えられません。中3の終わりに、担任が、『よく立ち直しました!』と言ってくれたのです。附属校に上げてもらえて、まあまあ守られて、大学まで行かせてもらいました。

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 就職も、中高の恩師の紹介で決まり、社会人になりました。上べは、さっそうたる青年に見えたのだそうです。小さい頃からよく知っておられる近所のおばさんに、そう言われたことがあったのですが、内実は、小汚い大人の仲間入りをしてしまっていたのにでした。

 100%真性の「小汚い大人」になっていたのでしょう。熊本に出張した時、当時、北九州の大きな街で伝道されていた宣教師さん家族の帰米中の留守役を仰せつかった上の兄が、そこにいました。その兄の所に、仕事の2日ほど前に出掛けて、寄ったのです。そこで〈聖なるショック〉を受けたのです。殴られたり蹴られたりし、学生時代は麻雀狂で、酒は飲む喧嘩はするの兄が、10人ほどの高校生ばかりの教会で、何と伝道者として、嬉々として奉仕している姿に強烈な驚きを覚えたのです。そのお世話していた高校生の中から、やがて、開拓伝道に遣わされ、牧師となったり、牧師の婦人になった方たちが何人も起こされたのです。

 人間って、こんな風に変わるものなのだと、驚きを感じて、兄の家、教会堂に2日ほど滞在する間、酒もタバコもやめていたのでした。その晩、兄を誘って、寿司屋に一緒に行きました。そこで上寿司を、私が奢ったのです。そんな贅沢はできずに、倹(つつま)しく義姉と幼い甥と生活をしていた兄が、上トロ寿司を食べましたら、鼻血を出してしまったではありませんか。久しぶりのご馳走に、のぼせたのか嬉しかったのか、異変を見せたのです。それにも驚かされたのです。

 それから出張先に行ったのです。東京の本部から来た若造の私を、夜になると接待の宴を開いてくださり、芸者さんをあげて酒宴が催される、それが私の出張のお決まりで、山口や博多や新潟に行くと、どこでもそんな接待を受けるのでした。お決まりの乱行でした。恥ずかしい行状の数々、きっと表では、立場上、敬意をあらわしても、心の中では馬鹿で小生意気な若造者だと、私は呆れられていたのでしょう。恥も外聞もなくなりつつあった頃でした。

 その時の出張は、ほどほどにブレーキがかかったのでしょうか、真面目に過ごして帰京したのです。その年の暮れには、留守役を兄は終えて、東京に戻り、母教会の副牧師になったていたのです。その兄家族が、教会の牧師館に住むことになって、住んでいた家が空くことになったわけです。そこに住まないかと兄夫婦に言われて、住み始めたわけです。どうも兄夫婦の策略だったのです。あの職場から推薦されて、都内の高校の教師に、翌春にさせていただいたばかりだった頃でした。

 教会の姉妹の自転車を貸してもらって、家から駅近の教会に寄って、自転車を、そこに置いて電車通勤をあい始めたのです。義姉に誘われて、夕食を食べるようになって、義理堅い私は、仕事のない日曜日には、感謝つもりで、兄が牧会する教会の礼拝に、義理で出るようになっていきました。実は、母に誘われて高校生の頃から、特別集会があると時々出席していて、信仰告白をしていたのです。でも教会から遠ざかって、ふしだらにを生きていた私なのにです。次第に水曜日の聖書研究会に出るようになり、何と土曜日の祈祷会にも出てしまい、深みに入り込んでいくのです。

 ある週の祈祷会中に、付き合い始めていた女性が、車で連れ出そうと訪ねて来たのです。それを断ってしまうほどに、教会に入り浸りな感じの頃でした。自分でも、本当の自分ではないような、人生上の一大変化の時期を過ごし始めていたのです。その秋に、宣教師さんの友人で、ニューヨークの聖書学校で教える四十代後半のアメリカ人が、教会にやって来て、特別集会がありました。ギリシャ人のお父さんとアラブ人のお母さんの息子で、若い頃はボクサーだった方でした。

 その特集に、出るように、兄に誘われたのです。〈聖霊のバプテスマ〉を受けるための特集でした。ちょっと気狂いじみた発言をするように見えた姉妹たちが、教会にいて、嫌だなあと思っていた私は、出たくなかったのです。その日、仕事から帰って来て、夕食には、兄の食卓に、その元ボクサーのおじさんも一緒でした。食べ終わって家に帰りたいのに、帰れないでいて、もじもじしていている内に、けっきょく集会に出る羽目になったのです。

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 その晩の集会で、兄が、私の座る後ろの席に来て、前の席に座るように招いたのです、何かが起こりそうに感じ、こわくて突っぱねて出ませんでした。二日間の集会で、次の日も同じような状況でしたが、その特集に出て、兄に誘われると、フイットと立ってしまい、前の席に座ってしまったのです。自分の意思に反して、そんな風になってしまったわけです。講壇で話を終えた、ボクシングで痛めたのでしょうか、すこしw斜視のギリシャ人とアラブ人の血を引く髭のおじさんが、私の頭に手を置いて、異言で祈り始めたのです。

 天から降り注ぐのでしょうか、体の奥底から湧き上がるのか、突き上げてくるのでしょうか、経験したことのない衝動があって、口から異言が突いて出たのです。意識はしっかりしていましたので、発狂したのではなかったのです。自分の意思に反して、舌がもつれるようにして、語ったことのない異質の言葉が吹き出したのです。恍惚状態ではなかったと思います。ただワーワーと言ったのでもなく、言葉でした。ただ意味不明のノンコントロールの発言でした。

 五旬節のエルサレムで、イエスさまの弟子たちが、聖霊なる神さまの導きの祈りの中で、語り始めたと同じような経験でした。世界中からエルサレムを訪れていた人々が、自分の国の言語で語っているのを聞いた、その他国の言語を予想させる言葉を、私は語ったのです。パウロがしきりに、その経験を勧めた、あの言語の実体験だったのです。ただ語っていたのではなく、神を褒め称えていたのです。まさか、自分の舌と唇が、不思議な、自分では理解できない言葉を語るとは、驚きでした

 その異言を話している時、私は声を出して泣いたのです。感謝と、罪を悔い改め、赦された感謝に、心が溢れて泣いたのです。あのままだったら滅びて当然だった私が、まさに滅びる寸前、罪に汚れた小汚い闇に落ち込んでいた男の私が、神さまの憐れみを受けたのです。そして、十字架が、実母も実父も知らない母が、14で信仰告白をし、クリスチャンとなって救われるための十字架だけではなく、この自分の罪の赦しのためであり、救いにための十字架だと、初めて理解できたのです。

 あれから55年になります。献身し、宣教師に従って聖書を学び、訓練の8年の後に、宣教師さんの後の責任を負って、61まで、開拓教会で奉仕し、隣国に出掛けて、日本語を教えながら、教会で奉仕をさせていただきました。そんな年月を経て、今の自分が、ここにあります。あの赦された経験は、今も鮮明で、その確信は少しも揺らいでいません。滅びの淵に立っていた私が、こんな人生を歩められたのは、救い主イエスの愛と憐れみ、忍耐と赦し以外に考えられません。昨日は、今季初めての雪が降り、14cmほど積もったでしょうか、一面、真っ白な雪景色でした。この降り積もった雪よりも、真綿よりも白くされ、赦されたことを思い返して、ただに恩寵に感謝を覚えた一日だったのです。

(“いらすとや”の嵐、雪景色、“Christian clip arts”の五旬節の火です)

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