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去年の誕生日に、お祝いとしてシクラメンの花鉢を贈ってくださった方がおいでです。今も窓辺で、綺麗な様子で慰めていてくれます。先週の雪、その降り積もる世界と窓のガラスに隔てられたシクラメンとが、そのコントラストを見せてくれて、今も美しいのです。
親の信仰を、子どもに強いて、その宗教活動に連れ歩いている母親と、その活動に従って、屈託のない幼児期、少年期の時間と心を、傷つけられて、社会性が育っていない、いわゆる「宗教二世」を、助けて、その縄目や束縛からの解放する働きをしてきている姉妹がおいででした。その方がお祝いにくださったのです。
私たちを、いつも助けてくださった方でした。今は、ご主人の実家に戻られておいでで、時々メールもくださいます。この方のことが思い出されます。数年前に、安倍氏が狙撃された事件の裁判の判決が出て、ずいぶん重い刑が下されたようです。人一人の命を奪ったのですから、厳しさも当然なのでしょうか。その方も「宗教二世」で、お母さまが、献金に躍起になって、家族もご自分の人生も台無しにされた、新興宗教の被害者家族の子です。
その姉妹が、一度、そんな境遇の青年をお連れになって、交わりに来たことがありました。私も宗教二世でしょう、母親の信仰を継いで、伝道者の道に入ったのですから。母はパートで働きながら、教会に通い、献金もしていたようです。でも家事を放棄するようなことはありませんでした。14の救いを堅持し、父に厳しく怒られて、夕食をとらせてもらえなかった時に、台所の叩きの上に跪く私に、丼飯に味噌をのせて食べさせてくれたことがありました。
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その母の教会では、献金箱が、礼拝堂の入り口の内側の壁際に置かれてあるだけで、月定献金や集会ごとに、それを入れる籠や袋が回ってくるようなことはありませんでした。どなたが献金をしているかは、だれにも分かりませんでした。礼拝出席も厳守していましたが、強制があった様子もありませんで、いそいそと母は出席し、週日の聖研や祈り会にも出かけていました。父は一言の文句も言わなかったのです。
私たちの教会でも、同じでした。義務の献金ではなく、自分の心で決めたように献金がなされていました。私は、どなたにも献金を促したことも、強いたこともありませんでした。それに、教会員制度も名簿もなかったのです。教会の主がご存知なら、それでいいのだと思ったていたからです。礼拝出席も強制がありませんでしたが、無秩序でもなかったのです。それが母教会の在り方でした。
地震などで被災された方たちのために、援助を覚えた人が、その旨明記して献金されたら、確かな送金先に、会計をされる方が送金し、その報告はなされていました。ところが、献金を強いることだってあるのです。キリスト教会でも、牧師が全部自在に使って、その報告もなされない事例もあると聞いて、驚いたことがありました。
伝道とか証詞を義務付けることもしませんでしたが、新しい来会者はおいででしたし、友人やご家族を連れておいでだったりしていました。教会が機能するための欠けは少なかったと思っています。不満も不足も不備もありませんでした。自主にお任せし、牧師手当てが足りなければ、あの使徒パウロように、Tent makerとして働けばいいのであって、私は、それを実践しました。
あの姉妹がお連れになった青年が、自らの命を断ってしまったと、教会堂に来られて祈っておいででした。助けられなかったと、姉妹は自らを責めいたのです。私たちは、神さまを信じていても、魂の救いを切望し、証をしても、無力さを覚えてしまうことがあります。私たちができることに限界を知るべきです。そして自分を責める必要はないのです。私たちは、そう言って彼女を支えたのです。
『なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(新改訳聖書 1コリント7章16節)』
何故なら、私たちのできることは、わずかであって、人を救いに導くのは、聖霊のお働きです。お任せしないと、自分を責めてしまい、喜びも責任も日常も失ってしまいます。私たちの限界を知って、神さまのお働きにお委ねして、自分のできる分を誠実に果たせば良いのだと思っています。
自分の家族や友人の救いも同じです。祈っているのですが、なかなか救いに導かれないことだってあります。ある牧師さんが、訪ねてきた青年に救いへの道を語ったのに、自死してしまい救えなかったと自らの限界を知らされたのです。職業牧師だって、そう弱さを感じることだって多くあります。限界を知るべきであって、死後にも悔い改めの時があるという聖書解釈(セカンドチャンス信仰)や、全ての人が救われるという教えに逃げ込んで、責任を取り違えてしまうこともあるのです。
『こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(ローマ14章12〜13節)』
聖書は、神は愛だと語っているから、その神さまが人を裁かれることなどあり得ないと信じている方がおいでです。人は、やて神の前に立って、申し開き、弁明でしょうか、そうする時があると、聖書は記しています。
『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル9章27節)』
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と、死んだ後に審判があるとも言っています。神の愛と裁きは、相反して矛盾しているのでしょうか。だからヒューマニズムと、自分を責め立てて、異なった聖書解釈に、逃げ込むのでしょうか。それとも、どうすべきでしょうか。聖書をしっかり読むなら、自明のことなのです。
80を過ぎて、もう2、3年生きられるかなと思っています。どんな結末を迎えるのか、自分には迷いがありません。「キリストのさばきの座(2コリント5章12節)」に、自分は立たされて、報酬を得られ、主なるキリストと共同相続人として、永遠を過ごせると確信しているからです。「大きな白い御座」の審判の座の前に立つことがないとも確信しています。そんな信仰を母から受け継ぎ、そう教えられ、そう聖書を読み、そう人に語らせていただいてきました。素敵な一生に感謝の朝です。
今朝も、窓辺で、昨日たっぷり水やりを終えたシクラメンの花が綺麗です。また、誕生祝いに頂いたポインセチアも、弟が家内に贈ってくれた小鉢の胡蝶蘭と長女が家内に誕生日に送ってくれた胡蝶蘭が芽を膨らませてきて開こうとしています。ベランダでは、婿殿や次男が送ってくれた花々が、春を待っています。次女夫婦が買ってくれた防寒着も、もうすぐ脱ぐ時が来そうです。先日は、長男家族がたこ焼きパーティーを開いてくれました。昨日、投函してから2週間ぶりの外孫娘からのGreeting cardが届きました。もうすぐ主が来られるでしょうか?
主に愛され、みんなに愛されて、孤独を感じることなく、今を感謝で過ごしています。
(“いらすとや”“Christia ncrip arts”のイラストです)



