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この花は、「節分草(セツブンソウ)」と言うそうです。初めて知りました。広島県北部の庄原市で咲いたとの事です。春の近い事を告げる様に咲くのだそうで、可憐な花ですね。配信してくださる「里山を歩こう」に掲載してあった花です。絶滅危惧種の一歩手前にランキングされているようです。
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カテゴリー: 日記
悲喜交交
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2月も下旬、寒い日もありますが、「春節」を迎えたこちらは、春の佇まい(たたずまい)が感じられて参りました。今朝、球根から出た茎に、二輪の花が咲きました。「水仙」です。この花は、日本では海岸の段々になった地に咲き、越前では、「雪中花(せっちゅうか)」と呼んで親しまれています。
この「水仙」は、地中海沿岸が原産で、陸路で中国に運ばれ、黄河だか長江の河岸に咲いていたそうです。その花の球根が、海に流され、海の上を漂って、日本の海岸に漂着して、そこかしこに咲き始めた、そういった一説もある様です。真冬の雪の中から咲き出すのですが、わが家の北側のベランダの花棚に置いていたのを、昨夕家の中に入れ、食卓の上に置きましたら、そこで開いたのです。実に綺麗です。
昨日は、私たちの住む棟の入り口から入る9階までの左右に、16所帯があるのですが、どこだか分かりませんが、「葬儀」が行われていました。楽隊が賑やかに演奏し、爆竹を鳴らしていました。入り口には花輪が並べられ、しめやかに行われていました。何度目か迎えた「春節」の間に召されたのです。近所付き合いがありませんので、私たちは外出をした次第です。悲喜交交(ひきこもごも)の春です。
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生涯の光
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「三波春夫」、若い方は知らないのでしょうけど、私たちの世代では、「歌謡浪曲」という芸能界で活躍した歌手で、よくラジオでもテレビでも、この方の歌を聞くことができました。矢張り、時代物、股旅物が多かったでしょうか。とくに、ご婦人層の絶大な支持を得ていたと聞いています。1964年開催の「東京オリンピック大会」や、1970年開催の「大阪万博」でも、《テーマソング》を、この方が歌ったのです。『こんにちは、こんにちは・・・』と歌い出していました。
この方のことを、以前、聞いたのです。あんなに上手で美声の持ち主だったのに、片方の耳の聴力がなかったのです。浪曲師や歌手にとって、それは致命的な欠陥だったのですが、それを隠し通して、浪曲調の歌謡曲を歌っておられたのです。ご本人と奥様だけの秘密で、それを守り通して、歌謡の世界で、引退するまで活躍されたのです。
世の中、意外と隠れたところに、問題、障害、欠陥、不足があって、それぞれが、そう言ったものを抱えながら生きているのです。それは個人の事だけではなく、家族、学校、会社、自治体、国家にもある事なのでしょう。要は、それをバネにして、残された《好きもの》を磨き、鍛え、整えながら生きることに違いありません。
優れた政治家一家のケネディ家には、優秀な息子たちの他に、障碍を負っていた娘がいたと言われています。実業家の父親は、それを<家族の恥>として、ひたすら隠し続けたのです。大統領を出そうとする家系に、そういった障碍を持つ子を欲しなかったからです。ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、『・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲し
い・・・』と言っていました。彼は、自分の妹のために、何をもとめて、して上げたのでしょうか。自分の病気も隠して生きたのですが、死後に、全てが白日の元に晒されたのです。
ところが、"ソニー"の創業者の井深大は、障碍を持った自分の娘を隠そうとしませんでいた。また見世物の様に、<広告塔>にすることもありませんでした。『多恵子は、十字架であるとともに、生涯の光です!』と言っています。経営者として、健常者だけではなく、障碍を持った方たちに雇用の機会を開き、そうの方が働くことのできる工場を建設し、そこでも操業をしていました。
"SONY"の名を刻した《カセット・テープレコーダー》を、新発売にあたって、購買予約をして買って使いました。《優れもの》でした。自分の願いや選び取りで得ることのできない事や物、決して願わないものが与えられ、備えられたら、それをありのままに受け入れて生きることに、私はしたのです。私の母が、自分が産んだ三男の私に、自慢していた一つの事がありました。体に傷がなく、脚がすらっとしてる事だったそうで、そんな事を二、三度、私に言ったことがありました。ところが自分は頭や唇や耳の格好が、子ども頃に嫌いでしたし、小刀や喧嘩で、身に多くの怪我を負ってしまいました。
もうこの年になると、どうでもいい事なのですが、子どもの頃には、誰もが自分の足りなさに悩むのでしょうか。両親、兄弟たち、家内、子どもたち、そしてこの自分も、みんな造物者からの頂きものです。すべて最善だという事で、足りなさは《謙る》ために、良きものは《感謝》するための《天賦》なのです。三波春夫は、痛み、疲れ、意気阻喪した日本人に、舞台やテレビから、しばしの娯楽を与えたのです。自分にも<痛み>があったからではないでしょうか。
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京の都
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中部山岳の「山猿(山深い渓谷の流れの畔りの鄙びた旅館の離れで生まれたのでそう言っています)」の私にとって、「京の都」は、古都と言うよりは、結婚した父と母が、最初に「所帯を持った街」という思い入れが強いのです。この街を、中学の修学旅行で初めて訪ねました。バスガイドさんの語る、柔らかな京言葉、とくに語尾の柔らかさを聞いていたら、思春期の私は、すっかり彼女の虜にされ、憧れてしまいました。
そういえば、仲の好かった友と、一緒に、新島襄が設立した「同志社大学」に入りたかったのですが、叶えられませんでした。その友とは、バスケットボールを一緒にやっていて、彼と上級生との間にトラブルがあって、彼に同情して、一緒にやめてしまいました。そんな彼が、三十代の半ばで病気で亡くなってしまったのです。
一時帰国の折に、2、3年続けて、関西空港で降りて、京の街の郊外の大原で過ごしたことがありました。「大原女(おはらめ)」が、薪を頭に載せて、売り歩く写真だか映像を見たことがあったので、どんな山里か知りたかったのかも知れません。また、<日本情緒>に浸りたくて、そこに宿を見つけたのでしょうか。その民宿の二月の露天風呂に入って、大陸の垢を落として、夜空を見上げたら、小雪が舞っていました。
そんな京都を思い出させるかの様に、そこから一人の方が訪ねて来られて、一週間ほど泊まってもらったことがありました。その次の年の秋にも、おいでになられたことがあったのです。京都人の男性の言葉も、標準語を話すのですが、語尾が独特で、好いものです。「雅(みやび)」とか上品さを感じてしまいます。また来られると言っていました。
この「京都」は、私のアメリカ人の師が、「終の住処(ついのすみか)」に選んだ街でもありました。でも病を得て、新大阪駅の近くの病院に入院され、その後、東京のホスピスに転院され、そこで召されたのです。恩師が選んだ京都は、彼なりに期することがあったあったようです。でも志半ばで、すべてを果たし得なかったに違いありません。彼の生き方とか、終わり方に、「京都」は独特なものがあったのかも知れません。師が召されて、すでに17年になります。私にも「京都」は、彼の<教え子>として期すべきことがある街なのでしょうか。
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友情
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小平奈緒さんと韓国の李相花(イ・サンファ)さん、ライバル同士の「友情」、素敵ですね!("スピードスケート500m"の1位、2位です)
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昭和
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1955年(昭和30年)に、宮川哲夫の作詞、利根一郎の作曲で、宮城まり子が歌った「ガード下の靴みがき」がラジオから流れて聞こえてきました。
1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった…
お母さん、病気なんだ……」
2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ
3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ
戦争に行ったお父さんが戦死し、女手一つで子どもたちを育てているお母さんが、栄養え失調で病気をしてしまいます。家計を助けるために、いたいけのない子どもたちが、親方から仕事を教えてもらい、道具を借りて、街角で靴を磨いて、日銭を得る、そんな生活をする子どもたちが多い時代でした。中には両親のない子どももいて、<孤児>と呼ばれていました。
親戚に預けられ、喜ばれないので家出をしてしまって、<浮浪児>になった子たちも大勢いました。上野や新宿で見かけた事があります。そんな境遇から、教師になった山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の神戸空襲による死者は約5700人でした。一人っ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。
『……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
<狩り込み>にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」所収)。』
この山田さんは、養護施設に入って、やがて夜間の学校に行き、大学にまで行って、中学校の教諭になっています。様々な人生を生きて、今や70〜80代になっている世代です。<華の昭和>には、そんな事もあったのです。兄や私たちの世代は、敗戦の憂き目をもろに受けて、厳しい時代を、歯を食いしばって生きたのです。《昭和史》には、そんな暗さが色濃かった事を忘れてはなりませんね。
(昭和20年の東京大空襲の焼け跡です)
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好青年
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「ピョンチャン・オリンピック冬季大会」の"フィギュア・スケート"で、《金メダル)》に輝いた、羽生結弦選手の快挙に、目を見張ってしまいました。こちらの"百度daidu"のサイトで、その演舞をビデオ放映をしていて、それを観ることができました。2大会連続の優勝は、66年ぶりとか、凄いことです。怪我が癒えて、痛みが残る中での演舞だったのです。
SP前日に撮影された写真に、この羽生選手が写っているのを、"MSN"が掲載していました。銀メダルを獲得した宇野昌麿選手が、その 前日にインタビューを受けていて、自分が取材撮影に映り込むのを避けて、羽生選手が四つん這いで床を這って、その場を去ろうとしている様子が写されていたのです。随分と気を使う青年なのを知って、さらに驚いてしまったのです。スター選手としては異例の仕草だからです。
何よりも人として素晴らしいのを感じて、敬服のいたりです。こう言った子を育てられたご両親の事を知りたくなってしまいました。仙台の出身で、東日本大震災で被災した故郷の様子を見て、引退を心密かに決めたのだそうです。でも止めず練習を重ねて、今回の《金メダル》を獲得した事は、どんなに故郷の誇りとなった事でしょうか。
著書の印税から、福祉施設に寄付をし続けている事も漏れ聞きました。今後も、意味のある人生を生きて欲しいと願いつつ、初春の陽を背に感じながら、我が事の様に喜んでいます。羽生結弦さん、おめでとう!
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梅園
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先日、街の北の方の山の頂上付近にある「梅園」を訪ねました。若い友人の家族(ご主人と奥様と息子さん)と一緒でした。かすかな梅の花の香がして、初夏を思わせる様な日差しがあって、若い方はTシャツでした。白梅、紅梅など、梅の木の種類の多さに驚いたりしたのです。
果物屋街の銘菓やジュースなどを持って来ていて、東屋(あずまや)で一緒に食べたり、談笑したりしたのです。山から下りましたら、大晦日、食堂はほとんどが休業で、大きなショッピングモールにある、この街の美食街で、昼食までご馳走になってしまいました。支払いをしようとしたら、"スマホ決済"をしてしまっていて出来ませんでした。
この"スマホ決済"が大流行りで、財布を持たなくなっているそうです。それで、中国の"スリ"は、完全失業中で、求職中だと言っておいででした。今月下旬に、ご家族で日本旅行をするそうで、京都、奈良、東京を観て回るのだそうです。お二人とも大学で教えておいでで、春節休暇中の旅行なのです。春節中、爆竹も止んで、正月気分がしております。
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もう
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もう刺されてしまいました。2月17日の零時過ぎ、中国の「元旦」が、半袖でも大丈夫なほどの暖かさ、いえ暑さだったせいで、夜中に耳元で、"ブーーーン!"としていた【蚊】に、左手の腹を、思いっきり刺されたのです。まだ日本から寒波や雪便りが届く季節なのに、もう<刺され始め>で、ムヒの<塗り始め>をして仕舞いました。
何か思いやられる"2018年"になりそうです。一番の<蚊対策>は、<蚊帳(かや)>を吊る事ですが、まだ早過ぎますね。今晩は、去年の残りの<蚊取り線香>をつけて見る事にします。4時過ぎに起き出して、あたりを窺えど、どこかに潜んでいるのか、敵は姿を見せません。いよいよ"戦闘開始"です。<ペットボトル作戦>を、どこかのサイトで去年の夏に見たのですが、探してみる事にします。
(「蝋梅(ろうばい)」の花です)
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スリップ
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とても忙しく過ごしていて、心身共に疲れていた時に、山の方にある湯治場に出掛けた、何年も前の出来事です。数日前に雪が降った山間の道を、車で走っていた時のことです。坂道で、降った雪が踏み固められて、凍結していて、タイヤがスリップしてしまいました。ハンドル操作ができなくて何回転かして、右側の崖にぶつかって止まったのです。回転している間は、もう何もできず、アレヨアレヨの状態でした。
その坂道を登ってくるトラックがあって、随分ゆっくり登坂しているのを眺めていて、何も気づかなかったのです。凍った路面で滑らない様に 、その運転手は、慎重に運転していたのです。そのあたりの道路状況は、よく分かっていたつもりでしたが、何も考えずに坂を降っていての自損事故でした。幸いにも、左側のライトが壊れただけで、体も打つことがありませんでした。
あの何秒間に味わった感覚を、いまだに覚えているのです。偶発的なことではなく、まさに不注意の結果でした。ああ言った《数秒間の経験》が、車の運転時以外に、これまで何度か、私の生きてきた間にあったのです。急激に事が起こって、どうすることもできない事態です。そう言うのを《パニック》と呼ぶ様です。
事が起こって、冷静になって感じるのは、《起こるべくして起こった事》だと分かるのです。<300回のヒヤリやハットの体験>、そして<29回の小事故>が、<一回の大事故>の前にある事を、アメリカの保険会社の調査をしていたハーバート・ハインリッヒが言っています。有名なのに「ハインリッヒの法則」です。
よく言われるのですが、人生の決定的な失敗は、<若気の至り(わかげのいたり>で見逃される若い時代にではなく、人生の後半期に起こっているのです。酸いも甘いも噛み分けられる年齢に、<落し穴>があります。どうも、どの様に生きてきたかの結果が、晩年期に表されてしまうわけです。
そういえば、小学校の担任の先生たちが、異口同音に言ったのが、『お前は落ち着きがなく、ちっともじっとしていない!』でした。そんな通信簿の行動の記録に書かれた私を、父も母も気に留めずに、小言を言うことなく育ててくれたのです。きっと諦めていたのかも知れません。手や膝やスネにある多くの傷跡は、その名残です。
最近では、夢の中だけになりつつありますが、『人生の《警告灯》に注意して生きたら、《大失敗》をしないですむ!』、これが原則の様です。中国の携帯電話に、"百度baidu"というサイトがあって、そこには信じられない様な<交通事故>の記録映像があります。車社会となった今の中国のみなさんへ、《注意運転》を呼びかけているのです。
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