物作り日本の「愚直の努力」が

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 邪魔な子どもと言うよりも、将来も潜在力も可能性も、そして時間も、あらゆることに満ち溢れている子どもを大事にしてきたのが、日本の社会だったのではないでしょうか。

 坂の途中に父の家があって、そこを降っていくと人家や店だけでなく、桶屋が二軒ありました。父の道具箱に入っていたよう道具とは違って、種々雑多な道具があって、それが壁にきちんと置かれていて、おじさんは板の間の作業場に、胡座(あぐら)で座っていたのです。作業に必要な道具を手元に置いて、十二分に干した板を、手と足を使って、削ったり、合わせたりして、手桶や風呂桶を作る作業を、木屑の中でしていました。その鉋(かんな)の作業は、桶の内と外を削るために、内鉋と外鉋を巧みに使い分けるのです。

 その仕事ぶりを、遠藤操家は桶〈おけ〉屋と呼ばれる。大正中ごろから終戦後しばらくまで桶などを作った。通りに面した四畳半の板の間を仕事場にして、町域内はもとより泊村などからの注文に応じて仕事をした。

 製品には、みそ桶、しょうゆ桶、漬物桶、ふろ桶、すし桶、手桶、あげ桶(肥料の溜〈た〉め桶)、水たご、肥〈こえ〉たご、洗濯だらい、おかわ(だ円形の便器)、おひつ、あかかえ(舟の水かえ桶)などがあった。これらはすべて一定の大きさで作られた。嫁入り道具の一つとされた三つ重ねのたらいの場合、底の直径が大一尺七寸、中一尺五寸、小一尺などと決められていた。このため、桶の種類によって異なった定規(カイガタ)を用い、榑(くれ)の側板の丸みや両側の切り口の角度を見定めながら削った。外側を締めるたがには竹あるいは針金を用いた。主な工具には、榑の両面を削る内ガンナと外ガンナ、榑の接合部を削るショウジキガンナ、たがを締めるためのズダガネ、仕上げ用の左ガンナなどがあった。

 素材は杉が多かったが、みそ桶やしょうゆ桶にはクリの木を、ふろ桶にはアスナロを使った。特に堅いクリの木をすき間ができないよう密着させるためには、熟練した技術を必要とした。仕事は九月ごろからたがの修理の注文が多かった。これは、このころたがに使う竹の切り出しが始まるためであった。また年末には、正月用の若水たごの注文も多くあった。忙しい時には朝から夜遅くまで仕事をした。たがを締める工程は大きな音がするので、夜間は避けた(遠藤操の談による)。』(出典は鳥取県湯梨浜町のHP「生業職人」からです)。』

と記していました。まさに桶職人の仕事の手順なのです。また何ヶ月かに一度、自転車に乗って、「鋳掛屋」のおじさんがやって来て、道路脇に座り込んで仕事をしていたのです。鍋底の空いた穴をふさぐ作業をしていました。その作業の道具は、桶屋の店に比べたら、自転車の荷台に積めるほどで少なかったのです。電車の廃レールを切り取って、持ち運べるように作業用に改造して、その上に鍋を置き、金槌で材料をのせて、トントントンと鍋底の穴をふさぐのです。また折れた傘の修理をするおじさんもいたでしょうか。

 自分の親とは違った仕事をする大人の仕事ぶりには興味津々で、座り込んで、じっとおじさんの手元を見ていたのです。このおじさんたちは、『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言いませんでした。覗き込んでいる子どもたちに、仕事振りを見させてくれたのです。この世の中で鋳掛屋や桶屋などの職人さんなんて、たいしたことのない職業かも知れません。でも桶や鍋や傘が、 どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、その仕事も作業も必要だったに違いありません。それにしても随分と安い工賃だったのを覚えています。

 それでも、仕事にprofessionalの誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ《ハナ垂れ小僧》に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。農作業だってそうでした。学校の行き帰りの田んぼでは、春から秋にかけて、おじさんやおばさん、お爺さんやお婆さんたちが、黙々と仕事に励んでいたのです。

 父は、幾つもの鉱山を渡り歩く、鉱山技師の仕事をしていて、満州や朝鮮や山形や中部山岳の山で、採鉱の仕事をし、戦後は、県有林から木材を切り出して、戦時中の仕事を終えた従業員の再就職の事業をしていました。そしてそれが終わると、東京に出て、知り合いの方たちと会社を始めていました。よく父の職場に連れて行かれ、あのおじさんたちのような手仕事ではなかったのですが、飽きず慌てず、電話機やペンをとって懸命に働く姿を見せてくれたのです。亡くなる数年前からは、なっての最後の仕事は、醸造の機械や道具などを扱う会社の手伝いをしていました。

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 その子どもの頃に住んでいた街の旧道と新道が交差する角に、衣服や履物や雑貨、薪や炭や練炭などを商う昔ながらの大きな店がありました。おばさんが、店員さんを使って切り盛りしていたのです。あの頃の履物は、ズック靴が出る前で、タイヤの再利用のサンダルや下駄の時代でした。『おばさん、下駄ちょうだい!』と言うと、婦人物の下駄を取り出してきて、『これだよね!』と言うと、渋い色の下駄緒を選んで、手早くすげてくれたのです。お金を払って、履き古した下駄を置いて、カランコロンで家に帰ったのです。

 テキパキした仕事をして、店員さんを上手に使っていた、母よりも二回りほど高齢のおばちゃんで、「やり手」の店番でした。ご主人が霞んでしまうほどの働き者でした。あの地域で、一番早くテレビを買われ、庭にゴザを敷いて、そこに座って観たのです。日曜日だったでしょうか、休みには父も一緒に観たことがありました。父だけ座敷に招かれていたのです。その四角い箱の中で、力道山がプロレスをしているのを、目をマン丸くして観た記憶があります。

 大人と子どもの距離が、今よりも近かったのではないでしょうか。1950年代の初めの頃でしょうか。東京オリンピックが行われる10年ほど前だったでしょうか。日本が大きく変化していく時期で、やがて物のあふれる高度成長期を迎えるのです。どの家でも、秋には秋刀魚を、モクモクと七輪で焼き、全国民が同じ物を食べていたようでした。間も無く高度経済成長期の始まる前の頃だったのです。

 父の世代が中心になって懸命に働き、その基礎の上に、私たちの世代が引き継いで、やがて世界に冠たる経済大国の「物作り日本」が築き上げられて行くのです。その勤勉さ、緻密さ、正確さが世界の評価を得ていったのです。町工場の零細企業が、ネジ一本、ベアリングの玉一個を精魂込めて作り、それが世界に評価され、世界大に拡大し、国際企業となって行ったのです。

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 そこには、「愚直の努力」の積み重ねがありました。長いの弛(たゆ)まない努力や改善や工夫の積み上げがあったからです。世界が真似しても、同じ物を、同じようには作れないほどの優秀なその部品で、製品を生み出していったのです。その「巧みさ」、「器用さ」こそが、日本の誇りです。そう言った国民性を受け継いだことを、神さまに感謝しなければなりません。傲慢になってはいけません。あの戦争も侵略も、この国土が焼土と化す審判を受けたことを忘れず、そこから立ち上がらせてくださった、神さまの憐れみに感謝を忘れてはなりません。

 一方では、敗戦に打ちひしがれた日本人に、欧米から派遣された宣教師さんたちによって福音が語られ、一時期は、その伝道集会が日本中の街で行われ、張られたテントも借りた講堂も、人であふれていたそうです。そして多くの人が、語られた福音のメッセージに応答し、信仰を告白したのです。その数は実に多かったと言われています。その時期の復興と、その後の繁栄で、彼らの多くは教会と繋がりませんでしたが、あの悔い改めを、神さまは覚えておいなのです。再び、亡くなる前に、再び悔い改めがなされ、あの世代は召されていったに違いないと、信じるのです。『人は一たび救われるなら、永遠に救われる!』と、私は信じる信仰者だからです。全知の神さまは、それをご存知です。

 私の父は、横須賀の街の教会で聞いた福音のことばを、生涯、心の奥に持ち続けたのでしょう。召される1週間ほど前に、牧師となっていた長男から、再び福音を聞かされて、悔い改めたのです。辛く厳しい61年の生涯の終わりに、永遠のいのちへの救いを受けて、病院で召されました。やがて主の声を聞いて蘇り、神の国に入れられるのです。祖父に手を引かれて教会に行っていた父の信仰の完成です。侮(あなど)るなかれ、福音を信じる人の少ない、日本の教会の中でも、世の始まる前に選ばれた人は、どのように生きたとしても、必ず救われるのです。

 生活の中で見せた父の几帳面さを、父の懸命な仕事ぶりも、私は忘れていません。人生の最後に、神さまのみ前で、きちんとした整理を終えたと、私は信じています。その父の勤勉な仕事を見せてもらい、その働きで得た物で、養われ、教育を受けさせてもらって、81年生きてこれたことに、改めて感謝する朝なのです。

(”ウイキペディア“に浮世絵、ベアリング、“いらすとや”の下駄履きのがくせいさんです)

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