車輪の異音に気付く

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 ドヴォルザークは、ヨーロッパのチェコのプラハの出身の作曲家で、後年はアメリカに招かれて活動をしますが、4年ほどで帰国をしています。演奏の初めと終わりが、至極元気な「新世界より」が有名で、どなたも聴き覚えがありそうです。

 お父さんは肉屋を営んでいましたが、トランペット奏者としても名手だったそうです。小学校の校長先生からヴァイオリンの演奏を、彼は習うのですが、腕前をメキメキと上達させていき、教会などで演奏をし始めました。お父さんは、その家業を継がせるつもりでいましたから、音楽に没頭していく息子を奪われてしまうような危機感を覚えて、学校を中退させて、よその街に修行に行かせるのです。

 ところが、その修行先の街で、また校長先生と出会い、その先生が教会の礼拝でのオルガニストだったのです。その教会で、ヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏や、作曲理論を学ぶ機会を。彼は得ます。その街に篤志家がいて、プラハの音楽学校で学ぶ機会を、ドヴォルザークに開くのです。

 家内が、小学校6年の時に、ピカピカの一年生の女の子を連れて、隣町の小学校へ、一年間、電車通学の助けをしたそうです。その懐かしい関係を思い出したのか、手紙のやり取りがあって、ここ栃木にいることを知って、2年ほど前に、わが家を訪ねてきたのです。この方が、〈鉄ちゃん(鉄道フアン)〉で、「大回り乗車」を趣味にしていて、[優しいお姉さんの旦那さん]の私に、それを教えてくれたのです。

 それ以来、誘発されて、JR東京圏の大回り乗車を、ペーパーの上で始めるようになってしまったのです。いくつかのルートを書き出して、擬似大回り乗車をします。最寄駅から隣駅までの乗車券を買って、反対周りの電車に乗って、幾つもの路線を乗り継いで来て、その周遊の後には、もう一方の隣駅で下車し、駅の改札で、『〈規則第70条、150条の選択乗車2〉で大回り乗車して来ました!』と言うと、下車できるのです。その下車駅から、私の住む街の駅まで乗車券を買えば、それだけの運賃で一回りできるのです。ただ途中下車は不可なのです。まだ実行してませんが、暖かくなったらやってみようと思っています。

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 あの鉄路の上を走る車輪の音、揺れ、駅舎の様子、駅員さんの業務ぶり、父が旧国鉄の車両の部品を扱う会社に関わっていたこともあって、自分も、そんな〈鉄オタ〉になったのかも知れません。小学校の国語の教科書で、鉄路と車輪の摩擦音の異常音を聞いて、事故を防止したヨーロッパでの実話を思い出したのです。その人が、このドヴォルザークなのです。この方は、子どもの頃から鉄道に強い興味を持った、18世紀の「鉄オタ」だったそうです。そう言えば、「新世界より」を聴いていると、電車がレールの上を走る光景や車輪の音が聞こえそうに感じるのです。

 ドヴォルザークは、蒸気機関車が発明され頃に誕生していて、機関車や駅や時刻表や、機関車を運転する機関士などにも、強烈な興味を持った子ども時代を過ごしているのです。あの車輪のリズミカルな音を、聴くのが大好きで、駅によく出掛けたそうです。かく記す自分も、山奥から出て来て、旧国鉄の電車の走るそばで遊んで、列車音を聞いたり、保線区のおじさんたちの作業場に出入りさせてもらったり、同級生のお父さんが国鉄職員で、官舎に住んでいたからでしょうか。シュシュポッポの蒸気機関車の音も、汽笛の音も耳の奥に残っているのです。兄の同級生の家が国鉄関係者で、鉄道学校に進学して、電車の車掌をされていて、自分の乗った電車の車掌をしていたこともありました。

 音感というのでしょうか、ドヴォルザークは、鋭い感性の持ち主だったので、いつも聞いている音と違う異音に気付くのです。『今すぐ汽車を止めて点検してください。走行音が異常だ、このままでは大事故に繋がるから!」』と騒ぎだしたのです。機関士は、『通常通りで問題なんかないのに!』と取り合わなかったのです。『いつもとリズムが違うんだ!音楽家の私の耳を信じてくれ!』と訴え続けたため、仕方がなく点検をします。するとドヴォルザークの言ったとおり、欠陥が見つかり、大事故を避けることができたのです。

 私の世代が学んだ国語教科書に載っていた話で、家内もよく覚えていると言っていました。日本だけの話ではなく、ヨーロッパの片隅で起こった出来事を、教科書の教材に組み入れる、日本の教育の普遍性に驚かされるのです。そんな初等教育を受けられ、日本人の知的な骨格を作られたことを感謝している朝です。それにしても現代、世界中から、何か異音が聞きえてきているように感じて気になって仕方がありません。

(“いらすとや”の機関車と駅列車の保線作業の様子です)

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物作り日本の「愚直の努力」が

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 邪魔な子どもと言うよりも、将来も潜在力も可能性も、そして時間も、あらゆることに満ち溢れている子どもを大事にしてきたのが、日本の社会だったのではないでしょうか。

 坂の途中に父の家があって、そこを降っていくと人家や店だけでなく、桶屋が二軒ありました。父の道具箱に入っていたよう道具とは違って、種々雑多な道具があって、それが壁にきちんと置かれていて、おじさんは板の間の作業場に、胡座(あぐら)で座っていたのです。作業に必要な道具を手元に置いて、十二分に干した板を、手と足を使って、削ったり、合わせたりして、手桶や風呂桶を作る作業を、木屑の中でしていました。その鉋(かんな)の作業は、桶の内と外を削るために、内鉋と外鉋を巧みに使い分けるのです。

 その仕事ぶりを、遠藤操家は桶〈おけ〉屋と呼ばれる。大正中ごろから終戦後しばらくまで桶などを作った。通りに面した四畳半の板の間を仕事場にして、町域内はもとより泊村などからの注文に応じて仕事をした。

 製品には、みそ桶、しょうゆ桶、漬物桶、ふろ桶、すし桶、手桶、あげ桶(肥料の溜〈た〉め桶)、水たご、肥〈こえ〉たご、洗濯だらい、おかわ(だ円形の便器)、おひつ、あかかえ(舟の水かえ桶)などがあった。これらはすべて一定の大きさで作られた。嫁入り道具の一つとされた三つ重ねのたらいの場合、底の直径が大一尺七寸、中一尺五寸、小一尺などと決められていた。このため、桶の種類によって異なった定規(カイガタ)を用い、榑(くれ)の側板の丸みや両側の切り口の角度を見定めながら削った。外側を締めるたがには竹あるいは針金を用いた。主な工具には、榑の両面を削る内ガンナと外ガンナ、榑の接合部を削るショウジキガンナ、たがを締めるためのズダガネ、仕上げ用の左ガンナなどがあった。

 素材は杉が多かったが、みそ桶やしょうゆ桶にはクリの木を、ふろ桶にはアスナロを使った。特に堅いクリの木をすき間ができないよう密着させるためには、熟練した技術を必要とした。仕事は九月ごろからたがの修理の注文が多かった。これは、このころたがに使う竹の切り出しが始まるためであった。また年末には、正月用の若水たごの注文も多くあった。忙しい時には朝から夜遅くまで仕事をした。たがを締める工程は大きな音がするので、夜間は避けた(遠藤操の談による)。』(出典は鳥取県湯梨浜町のHP「生業職人」からです)。』

と記していました。まさに桶職人の仕事の手順なのです。また何ヶ月かに一度、自転車に乗って、「鋳掛屋」のおじさんがやって来て、道路脇に座り込んで仕事をしていたのです。鍋底の空いた穴をふさぐ作業をしていました。その作業の道具は、桶屋の店に比べたら、自転車の荷台に積めるほどで少なかったのです。電車の廃レールを切り取って、持ち運べるように作業用に改造して、その上に鍋を置き、金槌で材料をのせて、トントントンと鍋底の穴をふさぐのです。また折れた傘の修理をするおじさんもいたでしょうか。

 自分の親とは違った仕事をする大人の仕事ぶりには興味津々で、座り込んで、じっとおじさんの手元を見ていたのです。このおじさんたちは、『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言いませんでした。覗き込んでいる子どもたちに、仕事振りを見させてくれたのです。この世の中で鋳掛屋や桶屋などの職人さんなんて、たいしたことのない職業かも知れません。でも桶や鍋や傘が、 どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、その仕事も作業も必要だったに違いありません。それにしても随分と安い工賃だったのを覚えています。

 それでも、仕事にprofessionalの誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ《ハナ垂れ小僧》に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。農作業だってそうでした。学校の行き帰りの田んぼでは、春から秋にかけて、おじさんやおばさん、お爺さんやお婆さんたちが、黙々と仕事に励んでいたのです。

 父は、幾つもの鉱山を渡り歩く、鉱山技師の仕事をしていて、満州や朝鮮や山形や中部山岳の山で、採鉱の仕事をし、戦後は、県有林から木材を切り出して、戦時中の仕事を終えた従業員の再就職の事業をしていました。そしてそれが終わると、東京に出て、知り合いの方たちと会社を始めていました。よく父の職場に連れて行かれ、あのおじさんたちのような手仕事ではなかったのですが、飽きず慌てず、電話機やペンをとって懸命に働く姿を見せてくれたのです。亡くなる数年前からは、なっての最後の仕事は、醸造の機械や道具などを扱う会社の手伝いをしていました。

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 その子どもの頃に住んでいた街の旧道と新道が交差する角に、衣服や履物や雑貨、薪や炭や練炭などを商う昔ながらの大きな店がありました。おばさんが、店員さんを使って切り盛りしていたのです。あの頃の履物は、ズック靴が出る前で、タイヤの再利用のサンダルや下駄の時代でした。『おばさん、下駄ちょうだい!』と言うと、婦人物の下駄を取り出してきて、『これだよね!』と言うと、渋い色の下駄緒を選んで、手早くすげてくれたのです。お金を払って、履き古した下駄を置いて、カランコロンで家に帰ったのです。

 テキパキした仕事をして、店員さんを上手に使っていた、母よりも二回りほど高齢のおばちゃんで、「やり手」の店番でした。ご主人が霞んでしまうほどの働き者でした。あの地域で、一番早くテレビを買われ、庭にゴザを敷いて、そこに座って観たのです。日曜日だったでしょうか、休みには父も一緒に観たことがありました。父だけ座敷に招かれていたのです。その四角い箱の中で、力道山がプロレスをしているのを、目をマン丸くして観た記憶があります。

 大人と子どもの距離が、今よりも近かったのではないでしょうか。1950年代の初めの頃でしょうか。東京オリンピックが行われる10年ほど前だったでしょうか。日本が大きく変化していく時期で、やがて物のあふれる高度成長期を迎えるのです。どの家でも、秋には秋刀魚を、モクモクと七輪で焼き、全国民が同じ物を食べていたようでした。間も無く高度経済成長期の始まる前の頃だったのです。

 父の世代が中心になって懸命に働き、その基礎の上に、私たちの世代が引き継いで、やがて世界に冠たる経済大国の「物作り日本」が築き上げられて行くのです。その勤勉さ、緻密さ、正確さが世界の評価を得ていったのです。町工場の零細企業が、矮小なネジ一本、ベアリングの玉一個を精魂込めて作り、それを搭載した精密機器が世界に評価され、世界大に拡大し、国際企業となって行ったのです。ソニー、パナソニック、ホンダ、トヨタなどは世界企業となっています。

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 そこには、「愚直の努力」の積み重ねがありました。長いの弛(たゆ)まない努力や改善や工夫の積み上げがあったからです。世界が真似しても、同じ物を、同じようには作れないほどの優秀なその部品で、製品を生み出していったのです。その「巧みさ」、「器用さ」こそが、日本の誇りです。そう言った国民性を受け継いだことを、神さまに感謝しなければなりません。傲慢になってはいけません。あの戦争も侵略も、この国土が焼土と化す審判を受けたことを忘れず、そこから立ち上がらせてくださった、神さまの憐れみに感謝を忘れてはなりません。

 一方では、敗戦に打ちひしがれた日本人に、欧米から派遣された宣教師さんたちによって福音が語られ、一時期は、その伝道集会が日本中の街で行われ、張られたテントも借りた講堂も、人であふれていたそうです。そして多くの人が、語られた福音のメッセージに応答し、信仰を告白したのです。その数は実に多かったと言われています。その時期の復興と、その後の繁栄で、彼らの多くは教会と繋がりませんでしたが、あの悔い改めを、神さまは覚えておいなのです。再び、亡くなる前に、再び悔い改めがなされ、あの世代は召されていったに違いないと、信じるのです。『人は一たび救われるなら、永遠に救われる!』と、私は信じる信仰者だからです。全知の神さまは、それをご存知です。

 私の父は、横須賀の街の教会で聞いた福音のことばを、生涯、心の奥に持ち続けたのでしょう。召される1週間ほど前に、牧師となっていた長男から、再び福音を聞かされて、悔い改めたのです。辛く厳しい61年の生涯の終わりに、永遠のいのちへの救いを受けて、病院で召されました。やがて主の声を聞いて蘇り、神の国に入れられるのです。祖父に手を引かれて教会に行っていた父の信仰の完成です。侮(あなど)るなかれ、福音を信じる人の少ない、日本の教会の中でも、世の始まる前に選ばれた人は、どのように生きたとしても、必ず救われるのです。

 生活の中で見せた父の几帳面さを、父の懸命な仕事ぶりも、私は忘れていません。人生の最後に、神さまのみ前で、きちんとした整理を終えたと、私は信じています。その父の勤勉な仕事を見せてもらい、その働きで得た物で、養われ、教育を受けさせてもらって、81年生きてこれたことに、改めて感謝する朝なのです。

(”ウイキペディア“の浮世絵、ベアリング、“いらすとや”の下駄履きの学生さんです)

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用心用心さらに用心を

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    1995年1月17日に朝方6時前に、阪神淡路大震災が起こってから、満31年が経ちました。長女と一緒に、川崎に住んでいた方の弟さんが、震災にあわれて、祈りの要請が娘からありました。最初の揺れで住んでいた家が倒壊して、帰らぬ人となってしまいました。大学の四年生で、就職先も決まっていて、将来が楽しみな方でした。

 震災からの復興支援のために、長男と次男が奉仕で出掛けました。次男は、中学校を休んで、宣教師さんたちと一緒に奉仕し、帰って来て、学校で報告会をしたのです。次男にとっても、実によい体験だったようです。ところが、長男は、学校を卒業して、家にいた時期だったでしょうか。別のルートで奉仕活動に加わったのです。

 NHKのテレビに出演していた、ボランティア団体「アガペ」の代表者に、長男は連絡をとったのです。神戸の神学校に事務所を開いての奉仕をされていて、そこの神学生たちのグループに奉仕を推薦されて、加わったそうです。京都の教会が責任教会でした。ちょうどその時、団体の牧師会が行われていたのです。

 私たちの教会では、「酒に酔ってはいけない」という聖書のことばで、それを基準に、飲酒の習慣がなく、私自身、救いを受けてクリスチャンとなった時から、酒をやめていましたので、子どもたちが育った家には、晩酌の習慣も酒樽もなかったのです。この酒ですが,『酔わなければ飲んでもいいのでは!』と言う解釈をして、とても曖昧で,酔い潰れるまで飲んでしまって、酒の誘惑に、多くの人たちが勝てていないのです。

 また、『神が、人に備えられた物だから,感謝していただくのはよいことです!』と言って、感謝し過ぎて泥酔し、乱行に堕ちる人も多くおいでです。どうしてお酒の話を持ち出したのかと言いますと、その京都の教会で、しかも伝統ある教派、教会の牧師会がはねた後に、「酒盛り」が始まったのを、息子が目撃してしまったのです。私たちの交わりの諸教会の牧師や宣教師さんたちも、兄弟姉妹も、酒を飲む習慣がありませんで、そう言った話は聞いたことがなく、子どもたちが育ちましたから,異世界の出来事、聖書に反することのように見えたわけです。

 つまり、「躓いた」のです。飲酒が罪だとは言いません。ヨーロッパの地では、水が飲用に不向きなので、度数の軽いアルコール飲料を、普段の生活で飲んでいますから、罪ではないのは確かです。ただ、酔いたくて飲むことは、信仰者としてどうでしょうか。主の前で各人で決めることですが、これまでの飲酒経験の酷さと最初の職場の酔っぱらい行状を目撃した自分としては、酒に酔うことはいけないと判断しています。

 ただ、果実酒を飲むことはしました。アルコール度数は、焼酎を用いて、氷砂糖を入れることがほとんどですから,舌に滑らかなのです。それでたくさん飲む誘惑に落ちてしまいますので、注意注意です。疲れ切って、眠れない時に、葡萄酒を飲むことがありましたが、今は、果実酒は飲みません。あの飲酒時代に揺れ戻されたらいけないから、《御霊に酔う》のが一番なのです。

 けっこう、聖餐に葡萄酒を用いる教会では、地下に葡萄酒の貯蔵所を持っていて、そこに降りていって、隠れてチビリチビリやる習慣を身につけてしまって、依存症になっている教役者が多くいるのだと聞いたことがあります。真っ赤な顔をした牧師さんと、道の上で出会ってしまったこともありました。ずいぶん恥じて、目を逸らしていました。

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 さて息子は、知り合いの宣教師さんの息子さんたちのチームに合流して、被災地の必要に届いたのです。賢明な変更だったわけです。この方なら、まだ若い息子を任せられて感謝でした。彼のお父さんは、北欧系のアメリカの教会の牧師家庭に育っていて、“ Puritanism ”の精神の保持者で、彼も彼の友人の宣教師さんたちも同じで、彼らの養われたので、私たちも、その流れなのでしょうか。堅物ではなく、一緒にソフトクリームをなめ、テニスに興じたこともありました。

 私が決めてきた聖書的な基準は、パウロが、胃が弱く病気がちのテモテに、「少量の葡萄酒を用いなさい(1テモテ5章23節)」と勧めた聖書のことばなのです。料理によりますが、肉料理には、少し使ったら美味しさが増すのかも知れません。でも用心用心、聖霊の宮を、主の御心を求め、清く保とうと、私も決心し続けてきております。

(“いらすとや”の地震、”Christian clip arts“のペンテコステです)

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心の中の隠れた人柄を

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『あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(新改訳聖書1ペテロ3章3~4節)』

 まるで”fashion show“のように感じられる皇室の行事に出席する、とくに皇族の淑女のみなさんの服装や装飾品に驚かされます。私たちの婚約式には、家内は姉上の指輪を借りて着けていたのですが、何一つ用意して上げなかった私でした。いわんや、ブローチも首輪もイヤリングも、これまで買って上げたことが、一個だにないので、亭主失格なのでしょう。家内も欲しがらないからです。

 この正月行事を、Youtubeで見たのですが、ある方のものは数千万円もするようなティアラという冠、ブローチのようなものを頭につけ、首には煌びやかな宝石のネックレスを付けておいででした。新しく誂えたロング袖、ハーフ袖のドレスを着て臨席されていたのです。きっと芸能界デビューに似ているのでしょうか。お出ましの時には、お顔よりも、装いが前に出てしまい、庶民には程遠い、殿上人の世界の出来事のようでした。

 このティアラですが、ナポレオン時代の遺物で、権威と力を誇示するための装飾品、道具だったのだそうで、高位の立場を、それらしく見せ、誇るための飾り物で、他者、庶民との違いを誇るもののようです。宝石や金糸銀糸による公家や武士による一種の武装です。伝統を重んじ、行事を恭しく行うのは、何かを覆い隠し、補う装飾だったという方もおいでです。

 高校生の時に、多摩動物園に遊びに行った時に、園内で孔雀を追いかけて、羽根を拾おうとしたことがありました。あの孔雀ですが、目の前で、『見て、見て、このわたしを!』と言うかのように、私の目の前で大きく羽根を広げたのです。それは綺麗でした。鏡など見たことなどないのに、自分が、どれほど綺麗であるかを知って、その表示行為だったわけです。

 それで昨日、自分の箪笥の中をのぞいてみました。そこには、35年ほど前に買った吊るしの濃紺の背広が一着、同じく黒の式服一着、娘に買ってもらったツイードの薄手の上着、中国人の友人から頂いた裏地の付いた冬用のロングコート、それにネクタイは、ほとんど兄やニューヨクの聖書学校で教えていた方にもらった物が、都合に15本ほどが掛かっていて、もう今の自分には、着ることも締める機会もなくなってしまいました。
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 あの皇室のファッションショーは、買ったことも、着せて上げたこともない自分には、夢のようなキラキラと煌びやかさの世界の装いで、皇帝円舞曲が聴こえてきそうで、距離感が大き過ぎます。

 18歳の宮家の若いご子息が着ていた式服、背広は、上手に誂えた高級服地のように見えたのです。なんと数百万円はゆうにするのだそうです。学校を出て就職する時に、下の兄が紺の背広を、仕立屋さんで採寸して誂えてくれたのです。兄の当時の収入にしては高価だったようです。そんな過去がありますので、人生の最期に、きっちりした服をもう一度くらい袖を通してみたい思いはありますが、そんな機会がありませんから不要なのでしょう。まさに貧乏人の僻みのように聞こえそうです。

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 それで思い出すのは、聖書の中の「弟息子」が、遺産相続を願い、お父さんから財産を受け取ります。生前の財産分与でした。父に死んでもらうような願いでの要求だったのです。それを受け取ると弟息子は、すぐに旅立ったのです。旅先の地の日々で、遊興の限りを尽くしたのですが、その地に飢饉が訪れ、食べ物に窮するほどの事態を迎えます。

 お金のある間は、彼の周りにいた遊び仲間は、無一物になると、みな去ってしまい、彼だけが残され、豚の世話をさせられるほどに落ちぶれます。その豚のえさのレンズ豆を食べたいと願うのですが、誰もそれでさえも与えてくれませんでした。そんな惨めさの中で、彼は「我に返った」と聖書は記します。英語聖書で、”give me ”だった弟息子が、”make  me “に変えられていくのです。

 まず彼が思い出したのは故郷でした。父の家での豊かな生活やお父さんの優しさです。父の元に帰ろうと決めます。お父さんに会ったら、天とお父さんに罪を犯したと告白し、息子の資格を放棄し、「雇人のひとりにしてください」と言おうと心に決めます。そして帰って行きます。

 待ちわびていたお父さんは、家を去っていった方向に目を向けて、息子の帰還を待っていてくれたのです、彼を目の前にすると、抱き抱えて迎え入れます。死んでいた息子が起き上がって帰って来た喜びでいっぱいだったからでした。そして「一番良い着物・・・指輪・・・くつ」を、僕たちに持って来させるのです。《最上の服》を、彼に着せたわけです。それは、確かに高価な装いだったに違いありませんが、赦しと受容と父の愛を意味した衣服、宝石、履物だったことでしょう。

 一度だけ、ステージに上に立って、スポットライトを当てられた経験がありました。視線が自分に向けられていたのです。自分ではなく、スター(中国語では「明星mingxing」と言います)になった気分で、注目されると、何か舞い上がるような気分だったのを覚えています。その味は、忘れられないほど強烈なので、多くの映画スターや歌手が踊り手が切に求め続ける機会になって、忘れられないほどだ、と聞いたことがあります。麻薬をしたことはありませんが、それに似た強烈な高揚感への誘いです。

 イエスさまが、生涯一度だけ、高嶺の頂に立たされたことがありました。『この世の栄養栄華を、あなたに与えましょう!』と、試みる者、悪魔、サタンから誘惑されたことがありました。それは十字架に行かないですむ[安易な道]への誘惑でした。人の心にある願望を知っている、この試みる者の策略だったのです。みんな舞い上がってしまって、みんな堕ちたのに、イエスさまはそれを聞いて躊躇されませんでした。『サタン、引き下がれ!』と言って、その高嶺から降ります。そして、十字架に向かって、まっしぐらに進んだのです。

 そんなことを感じた正月も過ぎて、寒波襲来の一月の下旬になりました。子ども頃に、寒いなあと感じたことがよくあったのですが、やがて温暖化になり、今冬は、ずいぶんと寒く感じられます。日本海側や北海道では、大雪で、しばらく続くと天気予報と伝えています。この『心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。』との聖書の勧めは、物でははなく、物の持つ輝きでもない、品性こそが、人の飾りだと言っているのでしょう。

(“いらすとや”のティアラ、舞台ステージです)

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南極観測と樺太犬

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 1957年1月、第1次南極地域観測隊が派遣され、南極のリュツォ・ホルム湾にある東オングルに、「昭和基地」が開設されました。現在は、世界の気象観測網の拠点にもなっており、約30名の隊員が1年間観測活動を行う日本の主要基地として、半世紀を超えて維持、管理、運用を続けています。南極観測隊が、日本から最初に派遣されたのが、その頃、自分は中学生でした。日本が、昭和基地を設けて、他の国と協力して国際気象観測に当たったり、南極点踏破などに貢献したのです。通っていた中学校の先輩が、第一次観測隊の一員で、講演に来てくれたことがありました。その話を心驚かせて聞いたことがありました。

 自分と同じ学舎で学んだ先輩が、当時、注目の南極観測に従事していたのは、後輩としての誇りでした。それで身近に南極を感じて、その重要な務めを再認識したのです。寒く過酷な地に行ってみたいと思ったことはありませんが、冒険心を刺激されたことはあったでしょうか。小学校低学年の時に住んでいた街の道路の反対側で、大きなお店をやっていたご両親の子で、一級先輩に弟さんがいました。

 その南極観測に、実は悲しい話がありました。人や機材や物資の運送のために、まだ雪上車が作られる前に、橇を引くために、樺太犬が雪上移送のために派遣されていたのです。この樺太犬は、従順で融和性や忍耐力に優れ、樺太でずいぶん昔から、人間の近くで、人や物資の搬送を任って橇を引いて、忠実な働きをする犬種で、重宝された家畜のようでした。翌年、第二次の観測隊が接岸しようとした時に、大嵐があって、その天候不良のために、ヘリコプターで人や機材を運んだのだそうです。天候不良の中、苦渋の選択で、運び切れなかった14頭の樺太犬を観測基地に、鎖に繋いで残したのです。それはは苦渋の選択と決断でした。

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 ところが一年後の1959年に、第三次観測隊が昭和基地にやって来た時に、14頭の内、一年後に2頭の兄弟犬のタロとジロが生存していたのです。それは奇跡的な出来事で、日本中に喜びのニュースが伝えられました。そんな歴史を記す観測事業は、連綿と今日に至るまで続けられています。やがて南極に環境保護の必要が言われて、犬の派遣はとりやめになったのです。生存の二頭は、残留遺棄された越冬用食料やアザラシの糞を食べ繋いで生き抜いて、犬同士が共食いななかったと、犬の世話をされた北村氏は語っていたそうです。リーダー格のリキが、若い二頭の世話をしていたのも生存の理由だとしています。

 冬に、私たちが日本に戻った時、しばく滞在させていただいた家で、階段で転んで、左肩を激しく打ったったのです。湿布しておけば治るだろうと思っていましたら、一向に痛みが引かなかったのです。教会の方に、華南の省立病院に連れて行ってもらって、MRIを撮ってもらい、札幌の整形外科病院に送信のです。その診断は鍵盤断裂で、入院加療、リハビリが必要だとうので、札幌に参りました。鍵盤断裂の専門医院だったからです。

 この手術とリハビリで滞在した札幌に、北海道大学植物園があって、そこでタロとジロの帰国後の世話がされていたそうです。14歳ので長寿を全うして死んでいます。死後に剥製にされ、タロは北海道大植物園で、ジロは東京・上野の国立科学博物館で剝製として展示されているのです。

 盲導犬、警察犬、狩猟犬、介護犬、セラピー犬たちは、賢明に仕えて、私たちの助けを担っています。これほど、人の近くで助けとなり、仕えてきた動物は他にありません。家内が道で出会ったい飼い主との会話で、『オスですか、メスですか?』と聞いたことがありました。すると飼い主の女性が、しばらくして、『この子は女の子です!』と答えてくれたそうです。飼い犬ではなく、もう家族の一員なのだと知らされて、キョトンとしたのだそうです。それだけ人と犬の距離が近いのだと思わされたのです。

(“いらすとや” のタロとジロ、犬橇です)

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こもりがき

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 「こもり柿(こもり柚、木もり柿)」、晩秋の野面に、柿の木のてっぺんほどに、二つほど残されている柿があります。父に似て柿の好きな私には、何かもったいないように思えて仕方がなかったのです。私の育った街の農家にも、そういった晩秋から冬の風景が見られたのです。

 今では、柿もぎをしなくなってしまった木が多く見られるのですが、近くの公園への道の途中の家の庭にも、もがれないままの柿の木があって、カラスが来ては突っついて、食べ残しや、食べかけがあり、果物の種類の多くなった現代では、あまり人気がなくなってきているようです。また、家人が歳をとってしまったからでしょうか、採って食べさせる子どもが少なくなったのか、木成りのままです。

 一説によりますと、「きまもりがき(木守柿)」だとも言うようです。三好達治は、随筆に次のように記しています。

「一つ残らずとり尽くしては、さすがに柿の木も機嫌を損じて、来年から生り惜しみをして収穫が落ちよう、それでは困るから、あれはお礼ごころに、一つだけ残しておくのだ。」、そう思う、日本人の心情が素敵ですね。どうも、来年の実りへの感謝が込められて、柿の木に、ここ下野では、実二つを残すのだそうです。奥ゆかしい日本人の古き良き風習は、食いしん坊の自分には、継がれていないように思えるのです。思い出にも、幾様もあって楽しいものです。

 先日、家内の歌仲間から、枯露柿を頂きました。丹精に世話をされて、寒風の中で干しては仕舞い、干しては仕舞いを繰り返したのでしょうか、剥いて干してできた干し柿の外皮も、柔らかくて実に美味しかったのです。昨日、玄関に、その方が見えられて、『今まで食べた中で、超一級の枯露柿でした。ご馳走様でした!』と感謝したのです。この方も、『今回はよくできたんです!』とおっしゃっていました。

柿喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 奈良の法隆寺の茶店で、出していただいた柿を食べながら、明治の俳人、正岡子規が、こう詠んだ俳句で、二十万もの作句をした子規の秀逸の一句だと言われています。

柿喰ヒの 俳句好みしと 伝ふべし

という句も作っているほど、柿好きだったそうです。松山に、夏目漱石を訪ねた帰りに、奈良に寄った時の句です。その柿は、「御所柿」だったそうです。この御所柿を、一箱頂いたことがありました。父の恩人で、若い頃に東京・日本橋の千疋屋で丁稚奉公をされて、故郷に帰って果実商をされていた方からでした。父が戦時中、石英を掘っていた軍の軍需工場の事務室を、このお店の一郭に設けて、山と街を行き来していたのだそうです。

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 その街で、アメリカ人宣教師が開拓伝道をし、その助手として訓練を受けていた私は、休みになると、このおじさんの店に、家内と長男と連れ立ってお邪魔したのです。そこには父の机を置いていた一廓が、まだ残されていました。オジさんは、『準ちゃん!』と呼んでは、『何喰う?』と言っては、近所の食べ物屋に連れ出しては、天丼、カツ丼と、行くたびに、店を変え、品を変えてご馳走してくれたのです。

 隣り町が産地で、その時も天皇に差し出す名果と同じ物でした。その街の目抜通りから入ったところに店があって、終戦後、復員してきた、元兵隊さんに、リヤカーを用意して、青果商の引き売り紹介していた、人徳のある方で、青果商組合の責任者をしていました。この方の紹介で、競(せり)で落とした野菜や果物を 、荷運びするアルバイトをしていたのです。

 競り場を、このオジさんの後について歩いていると、ほとんどの青果商の方たちが、頭を下げて会釈して行き合いました。なんだか自分にされているように感じてしまったのです。

 子規は、結核に冒されて、34歳で亡くなっています。この名は、不如帰、杜鵑、時鳥と記す「ほととぎす」のことです。「泣いて血を吐くホトトギス」と言われ、結核を病んだ子規は、自分も吐血をしていく病状から、ペンネームを「子規」にしたと言います。今日日、MLBの顔となった大谷翔平の活躍の野球ですが、この子規は、野球狂だったそうです。1890年5月に起きた「インブリー事件」を観戦していて、その観戦記が残されています。

「十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。」

 明治の学生の子規も、野球に魅せられた一人でした。今年のMLBは、どうなるのでしょうか。令和の老いたる私も、心踊らされるbaseballの虜にされてしまうのではないかと思わされてしまいます。いまだに柿の実が、真冬の真っ青な寒空に、木の先に残されているのは、冬の風情の一つなのでしょうか。

(“ウイキペディア”の御所柿、“いらすとや”のホトトギスです)

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楽しんでこそ意味も価値もあるのでは

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 「駅伝」、正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」と言うのですが、その中継を、「TVer」と言うネット放送で見聞きしながら、あの熾烈な競走の様子を、その二日間の目まぐるしいほどの若さの競い合い、青春劇を観ながら感じたことが、以前からありました。

 母校の名誉を託す「襷(たすき)」を繋いでいく様子に、同じような襷をかけていた、戦時下の出征兵士がいました。そうやって送り出されて叔父は、南方戦線で戦死し、どこで亡くなったかは不明のまま、空の骨箱が送られてきただけだったと父に聞きました。この叔父の母校が、21チームの中にありました。また兄たち二人、孫(長男の子ども)、また関東学生連合チームの中に、弟と私の母校の出場者もいたからでしょうか、身近さを感じながらでしたが、やっぱり興奮させられるものがあり、あっという間の正月初めの二日間でした。

 この駅伝も襷も、江戸時代の街道を、手紙を肩に走り抜いた飛脚に由来していて、金栗四三の提唱で、1920年2月14日から2月15日まで、東京と箱根間の旧東海道を、往路5区、復路5区走り、今回は102回大会でした。以前は、今のような全国的な人気はなく、注目されていなかったのですが、年々歳々、人気度が上がって、沿道の観客の興奮が増し加わってきているようです。

 前年度の上位10校、予選会上位10校、学生選抜1チームの21校の出場での競技ですが、第一回大会は、4校の出場で、東京高等師範学校(現在の筑波大学です)が優勝し、今年は青山学院大学が栄冠に輝いています。

 駅伝コースの沿道に立ったことは、私はありませんが、その競技の様子は、昔からテレビで観てきましたが、今回も、「運営管理者(監督がスタッフと共に乗って応援するのが目的)」が、ルールに従って、いわゆる「声掛け」の様子を耳にし、想像上以上の音量に驚かされてしまいました。

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 それを、「Peaking」と呼ぶのだそうです。監督に許される行為で、競技者に、かなり強烈に叱咤激励を伝えるのです。サッカーの試合ですと、監督がフィールドの外に立って、肉声で指示を送る様子を見せるのですが、駅伝が、いつからか車載のスピーカーを使うようになったのが特徴的です。走者の健康を気遣うのと、精神性を高めるのが目的だと言われるのですが、ちょっと行き過ぎではないかなと思うような言葉を聞くこともありました。

 最高の走りをして、勝つための行為ですが、escalateして、褒めたり、叱ったり、心理的な暗示を与える、心の操作を感じてならないのです。その様子を見聞きしなが感じてきたのは、かつて、ナチスがドイツで政権を握ってから、国民を鼓舞し、人心を掌握するために、「宣伝省」と言う部門を設けた出来事です。ペッケルスという人物が、その責任者だったのです。その巧みな宣伝工作があって、党員を従え、第一次対戦後の不安に駆られていた国民の支持を得ようと躍起でした。何と、キリスト教会もその道具となるのを強いられたのです。

 劣等感の強い男が、それを跳ね返そうにして、妄想に囚われて、非人道的な方策を練って、政党を挙党し、それが時間と共に滅びへと連れて行ったのです。ヒトラーもケッペルスも同じように、劣等感に強く苛まれて立ち上がっていた人物だったようです。第一次世界大戦で負けたドイツの国民が、経済的にも心理的にも窮地に立たされた時に、彼が選ばれたのです。駅伝に、ケッペルスを取り上げたのは、少々飛躍的、作為的過ぎるでしょうか。

 この駅伝ですが、何か勝つことのために、制覇するために、あらゆる手段を講じて、走者を誘導し、コントロールしているように思えてなりません。なだめすかし、ほめけなし、労ったり努力不足を責めたり、かつての運動部は暴力も厭いませんでした。脚力勝負だけではなく、心理的な暗示に操られているような、そうする監督が、宗教にも似たようなチーム形成をし、競わせるように感じてならないのです。

 監督の声掛けに、急に脚力を増して、普段では見せなかった走りをしている走者もいます。孤独な競技を完走するために、あの手この手が使われるのです。ヒトラーが選んで、ほめて宣伝相とされたケッペルスが、あの時代のドイツ国民を、鼓舞して第三帝国の隆盛を図った、影の立役者でした。そのケッペルスが自作した小説の中で、こんな告白を、主人公にさせています。

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『他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した。』

 主人公に、そう告白させています。その彼の宣伝は巧みであって、第三帝国を完成させると自負しながら、自分に劣等意識をかき消すかのように、間違った道に突き進みますが、最後は家族を道連れに、一家心中を図ってしまうのです。劣等感を、そんな風に受けとめ、克服しようとして誤った指導者に従った結果の悲劇的な最後を迎えたわけです。

 人の劣等感を、心理的に操作することで、目的を達成しようするのはいけません。駅伝の輝く光の部分の影に、悲劇の部分もあります。女子の実業団駅伝に、「プリンセス駅伝」があります。2018年の大会で、岩谷産業の飯田玲選手が、右脛を骨折しながら、次の走者に襷をつなげるために、両膝で200mを進むと言うことがありました。無事に次の走者に襷は渡ったのですが、全治4か月の大怪我を負っていたのです。

 だれも、その走りをやめさせなかったのです。そういった規定がなかったわけです。磐田玲選手は襷を手に完走し、襷をつないだのです。でも、勝つことよりも走者の健康管理の方が、意味も価値も大きいのではないでしょうか。飯田選手は翌年には、駅伝奏者に復帰していきます。特攻隊員のような悲壮さは、スポーツには似合いません。楽しんでこそ意味も価値も感動もあるのではないでしょうか。出場できない走者や学校は、溢れるほどあります。そんな彼らがあっての箱根駅伝でもあります。

(“ウイキペディア” の広重の箱根、“イラストヤ” の駅伝選手、ドイツの国花のヤグルマキクです)

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You did good job !

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 ”You did good job!“、この長い人生で、そう言われたのは、たったの二度だけの私なのです。その一度は、田舎から転校してきた街の小学校で、担任の内山先生が、山の村の小学校の入学式にも出られず、そのまま一学期を終えて、東京に引っ越したのです。その転校先の分校での一年も、病気がちの不登校のまま、また、父の仕事の関係で、引っ越した三番目の小学校でのことでした。

 授業を受ける姿勢を学ばないままの私を、『よくわかったわね。すごい!』、これって、”You did good job!“ですよね。国語の授業で、先生が汽車が、レールの上を走る擬音の出てくる箇所を、『ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタガタガタゴッンゴトンゴトンゴトン!』と、多分そう読んだのです。私は、その街の旧国鉄路線の中央線の線路の近くからのっ引っ込み線の作業場で、日本通運のトラックが貨車から貨物を、積み下ろしの作業をじっと眺めていたのです。

 大人が一生懸命に働く姿をです。貨車がレールの上を走る音、ブレーキ音、貨物の積み下ろしの様子を、見たり聞いたりしながら、物珍しくてジッと観察していたのです。大人の仕事に興味があったからでしょうか。あのおじさんたちの仕事への忠実さは輝いていたのです。父も、同じような働きっぷりだったのです。4人のすごい子を育て上げた、まさに男の生き様でした。

 その肉体労働に勤しむ姿は、自分の「労働観」を作ってくれたのだと思い返すのです。体を使っての作業は、頭脳労働と違って実際的です。ミスをすれば大事故を起こし、仕事仲間も自分も大怪我をするから、慎重なのです。その呼吸とタイミングが、どこの職場も抜群に合っていたのです。そんな経験から、アルバイトを探す時に、肉体労働を選んだのです。

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 2歳ちがいの弟が、高校生の頃から、よくアルバイトをしていて、その仕事場に出掛けて、『ここで弟がアルバイトをしていたのを聞いて!』と言って、同じ仕事を何度もしたのです。弟のするのを猿真似したわけです。鶏のケージの電気溶接から始まって、波止場での沖仲仕、穴掘り、道路脇の看板設置などでした。上の兄が、「やっちゃ場」と言う青物市場でアルバイトをしていて、学校に入った時に、同じ所でしたのです。どうも創造性がない自分だからかも知れません。

 極めて難しい仕事をするのは人間に限ったことではありません。最近、Youtubeで、盲導犬の凄さを観ました。徹底して、目の不自由な人の安全に仕える姿は、「専門職」として圧巻でした。その目的のために厳しい訓練を受けて、主人に仕える相手に集中して、足となり目となっていくのです。「盲導犬ゆり」のことです。昨年、滋賀県の視覚障害をお持ちの方たちの施設を訪問された、雅子さまが、そこで出会った、もう3ヶ月の寿命のすでに引退していた「ゆり」のことです。

 ご自分から、盲導犬と会いたいと願った雅子さまの所に、その「ゆり」が連れて来られたのです。その首に傷跡があったのを見られた雅子さまは、『この子に何があったのですか?』とお聞きになると、心無い男が、タバコの火を、ゆりの首筋に当てたのだと、答えたのです。心身に傷を負っている忠実な盲導犬でも、身を守るために危険なのを承知の雅子さまは、ゆりに手を伸ばされたのです。その危険を感じた専門職の職員の思いとは違って、雅子さまは、ゆりに慈愛の目を向けられて、手を差し伸べ続けます。  

 ゆりは、鼻先で、その雅子さまの手に触れたのです。警戒心がなかったゆりは、今度は自分の舌で雅子さまの手に触れます。酷い仕打ちを受けた過去がありながらも、ゆりは人を信じる行動をとったのです。そこにいた職員のみなさんは、雅子さまの動じない行動、ゆりの雅子さまへの揺れない信頼は、みなさんを驚かせたのです。安全上のリスクを恐れなかった雅子さまには驚かされます。

 自分の身に起こった火傷、そんな激しい痛みを負う不測の事態でも、ゆりは耐えて、自分の使命、主人を守ることへの忠実さに徹したのです。そんな負傷があっても揺るがずに、盲導犬としての使命を優先したのです。後になって、ゆりの様子のおかしさを知った、主人は、獣医に連れて行って、その火傷の事実を知ったのです。

 親しい交わりにある方の家に、このゆりと同じ、ゴールデン・レドリバーがいます。食事に呼ばれた時に、家内も友人も自分を、大歓迎してくれて、なめまくられたのです。人懐っこさはすごいのです。だから、この種の犬は、様々に訓練され人に仕えられるのですね。それにしても、ゆりには驚かされたのです。ゆりに近づいて、恐れずに、良い仕事をし終えた過去を感じ、恐れずに近づき受け入れた雅子さまにも驚かされます。きっと難しい人間関係で、自ら傷つき、多くを学ばれておいでだからでしょうか。

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 ある集いで、司会者をしたことがありました。牧師さんたちが、500人ほど集まっていたのです。教会の主を礼拝するために、賛美を導き、聖書を読み、祈ったでしょうか。30分ほど司会をして、講壇から降りましたら、“ You did good job !”と、カナダからの宣教師さんに言われたのです。これがたったの二度のうちの最後に、言われたほめことばでした。

 良い仕事をするのは、その仕事を真に理解しているからなのでしょうか。ゆりのような「忠実さ」でしょうか、英語は、“ Faithful ” とい言って、誠実や真実、信仰につながる言葉なのだそうです。たった二度だけほめていただいて、それで私は生かされてきたのです。親にもほめられませんでしたが、生かしてくださった創造主に、『ちっとも良くないのに、よく生きたものだね!』と言われるでしょうか。私は、この“ You did good job !”のほめことばを、盲導犬ゆりに言って上げたい夕べなのです。

(“いらすとや”のイラストです)

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コープチャイ

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 「終着駅」、どの駅よりも意味深な駅だと思われませんか。何度か寝過ごして、高尾駅まで行ってしまったことがありました。父は、その中央線にこだわっていて、中部山岳の山奥から、四人の男の子の教育を考えたのでしょうか、東京に出ようとした時に、中央線沿線で家探しをしたのです。横須賀生まれの相模国の出の父は、大森あたりの親戚から、東京の中学校に通ったので、大森や品川の横須賀線や京浜急行の沿線に、家を見つけそうでしたが、そうしなかったのです。

 山梨県や長野県から東京に出て、住もうとすると中央線沿線、茨城県だと常磐線、千葉県だと総武線、福島県や東北の諸県ですと東北本線、静岡県や神奈川県だと東海道線などの沿線を好む傾向があるのだそうです。懐かしい故郷の訛りがなつかしくて、聞いたり、匂いを嗅ぎに行ったりしたいからなのでしょうか。

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 父は、中学生生活をしたり、仕事をした品川や新宿や日本橋や浅草あたりに土地勘があったのです。それで、引っ越しを考えた時、新宿周辺に家を探したのですが、盛り場への近さを避けようとして、新宿御苑あたりの南新宿を諦めたそうです。また大田区に住もうとしましたが、だまされてしまい、けっきょく甲州街道沿いの八王子に家を見つけたのです。

 そこからいくつか三多摩の郡部に、家を住み替えて、学齢期を過ごしたのです。そこは『べえべえ!』ことば」で、『そうだんべ!』、『行くべえ!』と言う方言がありました。2019年に、中国から急遽帰国して、家内が入院したのが、栃木県だったのです。何と、ここも、『べえべえ!』だったのです。神奈川県の厚木周辺、東京の三多摩、埼玉、群馬、栃木の関東平野の周辺部の地域に、この方言が散らばっているようです。

 中部山岳の山村にも、独特の方言があり、もう喋らなくなってしまいましたが、子どもの頃に喋った記憶があります。母も、だんだん歳を重ねていくうちに、出雲弁が出てきていたのです。東京で生活している緊張の度合いが、だんだん緩んできたからでしょうか。その「お国ことば

」は、柔らかくて、聞きやすいのかも知れません。

 中国のカナンの街は、この方言が、山を越えるたびに違っているのだそうです。喋れないけど、聞いているうちに分かるのだと言っていました。驚きは、公認教会では、北京語で説教をすると、華南の方言の通訳が付くのです。かつて共産化する以前の中国で、欧米の宣教師が説教をすると、二重三重の通訳者が立ったのだと聞きました。そんな風にして福音宣教が広く行われて、今では一割以上のクリスチャンがいて、なおますます増えている現状なのです。

 中央線の新宿駅から、八王子、大月、甲府、下諏訪、松本と、汽車が走っていた時代を覚えています。始発の列車に新宿駅で乗りますと、甲州弁や信州弁が聞こえてくるのです。それは、上野駅では東北弁や越後弁が聞こえ、総武線や常磐線では、茨城弁や総州弁が聞こえてたのでしょうね。北海道から転校して来た同級生が、大声で北海道弁を連呼していて、度肝を抜かされたことがありました。

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11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(新改訳聖書 創世記)』

 言語の誕生と分化を、聖書はこのように記しています。今では、「通訳機」があって、外国語の学びをしないでも、意思の疎通ができるようになっているようです。ものすごく便利な時代なわけです。インドネシア語、モンゴル語、スペイン語を、私は学んだ時期がありましたが、みんなものにならずに終わってしまい、かろうじて13年いた中国のことばは、日常語は話せるようになっていましたが、今では、もうおぼつかなくなりました。

 『ナマステ!』と言う言葉を家内が覚えて帰って来たことがありました。道路で行き合ったアジア圏の方に話しかけて教えてもらったのだそうです。『ありがとう!』をそう言ったのです。去年の11月に、愛子さまがラオスを訪問された時に、『コープチャイ!』と話しているのを聞きました。表敬の思いでラオス語を学んで行かれたそうです。これも、『ありがとう!』なのだそうです。国賓待遇で大歓迎されたそうですね。相手、訪問国への敬意って素晴らしいことだと感じ入りました。

 さて、人生にも「終着駅」がありそうです。そこへの分岐線の途上を、私たちは、みんな走っているのでしょう。脅しているのではなく、どうも厳粛な時が近づいているのかも知れません。光り輝く駅への到着を願って走りたいものです。

(“ウイキペデ“のラオスのメコン川、新宿御苑、バベルの塔です)

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伯楽考

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 「伯楽」と呼ばれるのは、駄馬のようにしか見えない馬の隠れている素質を見抜く人のことを言うのでしょうか。紀元前7世紀の中国の春秋の時代、今の山東省に、孫陽と言う人がいました。この人は馬の可能性を見抜くことができたので、「伯楽」と呼ばれたそうです。

 中学と高校の同級生に、日本競馬協会の調教師の子たちがいて、みんな裕福な家庭の子でした。父は、賭け事をしませんでしたから、競馬場や競輪場などに出入りしませんでした。でも国家が公認のする公営競馬ですから、スポーツの一つと見なされていて、新聞やラジオやテレビの報道欄を賑やかしていました。

 北海道や千葉や茨城には、競走馬の厩舎や訓練の試走場があようです。レースに優勝するような馬は、引退後には、次の世代の競走馬を誕生させる種馬や母馬になったりするのだそうです。レースで優勝するのは、その多くが優秀な成績を収めた馬の子でもあったのです。そういった次世代の競争馬を生み出すための目利きをする仕事や馬丁さんや調教師さんがいて、レースが展開されていました。

 そんなことを聞かされて、戦時中には、父は馬を持っていて、街中と仕事場のあった山奥の工場の間の移動のために飼っていたのです。事務所のあった街には、陸軍の連隊があって、その連隊長の持ち馬よりも立派だったようで、譲り受けたいと言われながら、父は手離さなかったと言っていました。馬の世話をされていた方が、父に馬肉を届けたのだそうです。自分は食べた記憶はありませんが、家族で桜肉鍋をしたのでしょう。

 ところが、その肉は、父の馬を屠殺したものであったのを、父は後で知ったのです。馬丁さんのお子さんが病んで、滋養のあるものを食べさせなくてはならなくなって、父に無許可で肉にしてしまったのです。自分も人の親、このお父さんの気持ちを察するのあまり、父は愛馬の死を受け入れて、責めたり怒ったりしなかったのだと、母に聞きました。これが人の良かった父、騙すより騙される人でした。
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 馬の目利きや調教に長けている伯楽は、よくスポーツの世界で、名コーチ、名監督として名の馳せた方に、つけられるタイトルでもあります。例年の年初の二日三日、帰国以来の正月は、説教の責任もなくなったのを幸いに、箱根駅伝の虜になってしまっています。かつては、今日ほどの注目度のなかった時代でしたが、明大や早大や中大や日大、それに東京高等師範学校などが名門が優勝していたのです。私たちの時代に、大八木監督の率いる駒大、その後は順大、今では青学が優勝名門校として活躍しています。

 日本的な「駅伝」は、ストックホルムで開催されたオリンピックに出場し、さまざまな悪条件化でマラソン競技の途中で行方不明になってしまった金栗四三氏が、日本のマラソン界の底上げに始めたと言われています。肥後国の出身で、日本の陸上競技に貢献した人です。

 「青田買い」と言って、中学校や高校から、優秀なスポーツ選手に目をつけて、大学やプロの世界で活躍できるように勧誘し、集められた子どもたちに、将来を嘱望して、トレーニングをして気ています。賛否両論があって、楽しむスポーツではなく、ただ勝つための猛指導があり、それがエスカレートしているのを憂えるのですが。

 そんな、プロ化した選手の多いスポーツ界ですが、確かに、名伯楽がいて、優秀な選手を育てているのも事実です、野球でもテニスでもスケートやスキーでも、プロ化してしまっているのですが。次女の息子が、小さい頃から野球をしてきて、名門の大学チームに推薦されそうになったのです。周囲の期待と違って、しのぎを削るような世界、お金で自分が測られる世界で野球を続けたくなかった彼は、それを断って、自分の育った街の小さな学校に進学していきました。

 それでもいいのでしょう、男子でも女子でも、サッカーでも野球でも、世界で活躍している選手が、最近多くなってきています。それとは違って、自分の好きなスポーツを楽しんでしている人たちの方が、はるかに多いのです。名選手、名走者、スポーツ以外の世界でも優秀な方たちが多くいますが、楽しませてくれるのが一番、負けチームや負け選手の「一生懸命さ」に、胸が打たれた、今春の大学駅伝でもありました。

(“ウイキペディア”の伯楽、金栗四三〈ゼッケン51〉です)

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