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京都の同志社大学を起こした新島襄は、江戸の上屋敷で誕生していますが、お隣の上州安中藩の武家の出でした。子どもの頃から、街中や田舎にある神社に祀られている神が、神だとは思わないでいたそうです。蝦夷の函館からアメリカへの密航を果たして、香港に行く途中、中国船の中で、漢訳聖書を読みます。その巻頭に、『起初神創造天地』とあるのを読んで、『神いるとしたら、この方が神だ!』と思ったのだそうです。
この新島襄は、在米中にキリスト信仰に預かり、帰国してから、同志社を開学します。彼の伝記の中に、その開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚え、そう思いの中に働かれたのは、主でいらったに違いありません。
アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしていきます。彼自身が、自由と自治の国、アメリカで学んだからでした。私は、この新島襄の大学に入りたかったのです。
実は、中学の修学旅行で、京都と奈良を訪ねました。日本のことの佇まいは、関東とは違っていて、物珍しいものがあって、同じ日本でもその違いに驚いたり、強く惹かれるものがありました。二条城の広さや、龍安寺の石庭、清水の舞台、鴨川の流れ、古代建築の法隆寺の広大さなど、日光や鎌倉とは、また様子が違っていて、二、三日の歴史的な様子に、中学生ながら魅了されたのです。それで、『また来よう!』、中学3年、14才の私は、そう決心したほどでした。
ところが、中学生の感動は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年が過ぎ、系列の高校に進学したのです。三年になって、進学を考える段になって、ギターを肩にかけて楽しそうに輝いた、B大に進学した2年先輩に久し振りに、駅で会って、その学校の様子を聞いたりしたのです。
そのアメリカ人宣教師の設立した学校の入学案内を取り寄せて、読む内に、京都の同志社志向だった私の願いは、いつの間にか入れー変わってしまい、親元から通える、その学校に決めてしまったのです。その学校に、入学させてもらえました。けっこう、その4年間は、泣いたり、笑ったり、そして楽しく過ごさせてもらったのです。『猛烈に勉強をした!』と言うよりは、残念ながら、アルバイトをしての社会勉強をした年月でもありました。
でも、本をよく読んだり、渋谷や新宿の喫茶店で、未熟な考えで自己主張のぶつかり合いや、新しく違った物の考え方に感心したり、議論したり、納得したりした時が楽しかったのです。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したり、将来に夢を繋いだり、意義深いものの有った4年間だったでしょうか。
未熟で、何も知らなかった自分にとっては、世間の広さを知らされた時でした。思い出してみますと、その新しい人や考えとの出会いは偶然ではなく、基礎づくりの年月だったようです。どの時代の若者が通る道筋だったのでしょうか。人の考えや思いをはるかに越えて、そのすべての歩みに意味があったように感じるのです。青年期の仕上げに、創造主を信じることができて、自分が「神の子」とされたのは幸いでした。自分の生涯に起った、すべての出来事に、意味や価値のあったことが、今は分るのです。
新島襄の青年期の転機が、彼の生涯を導き、祝福し、有為な青年たちを教育し、キリスト信仰へと導いたことは意味深かったわけです。明治の初期には、信仰の自由はありませんでした。切支丹伴天連、耶蘇教は、まだ江戸期に続いて、禁教だったのです。そんな中で、新島襄が、大胆にもキリスト教主義の学校を、京都に起こしたことは驚くべきことでありました。
新島襄の夫人になった八重は、隣県の福島の会津藩の武家の家の出身で、父親は藩の砲術師範でした。日本を変え、欧米諸国に追いつこうとした官軍に対して、女だてらに、スペンサー銃と刀を手に立ち向かい、「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われた武家の娘の八重でした。新島襄と出会って、キリスト信仰を共有して、同志社の建学の助け手となっていきます。明治期には、「日本のナイチン・ゲール」と称されたほど、日清・日露に戦争時には看護活動に奔走した、「赤十字精神」に立った明治屈指の女性でした。
今も、教育の行方に、また若者の価値観や生き方やあり方に、大きな変化がありそうです。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、信仰を持つ信仰者たちが生まれて、明日の日本を変えていく人が起こり、二十一世紀の新島襄や新島八重が起こることを願う、2026年の早春です。
その会津には、弁慶や義経がなめたと宣伝する「五郎米飴」が、今も名物としてあるのだそうです。そうしますと、八重もなめたのかも知れません。安中や京都へも、そして東武日光線、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線を乗り継いで、会津にも行ってみようかと誘われる春の到来です。
(”ウイキペディア“の会津若松市の市花の立葵、安中市の市花の梅です)
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