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今では、北関東最大の都市が、ここから北にある栃木県庁のある宇都宮市です。ここは、お江戸、日本橋から、北へ三十七里(148km)の日光街道と、奥羽街道の分岐宿に位置した街で、賑やかな城下町、宿場町でした。律令制下には、栃木に下野国の国庁があり、ここも全国有数の宿場でもあったのです。宇都宮氏の支配下にありましたが、改易で、浅野氏や蒲生氏が城主となり、江戸幕府の下では、奥平氏や本田氏、幕末には、戸田氏が城主として治めていたのです。
この街は、日光参りをする将軍が宿をとった街でもあったこともあり、江戸防衛上、重要な街であったのです。どうも、甲州街道の八王子宿と、ほぼ同じほどの使命と規模があった様です。廃藩置県が、明治維新政府によって定められた時に、元薩摩藩士の三島通庸が、栃木県令(知事)に就任して間もない、明治16年11月8日に、宇都宮に県庁を移転しています。
どうも、舟運で栄えていた栃木は、自由民権運動が盛んだったのと、宇都宮の有力な商人たちによる強い移転要求運動があって、維新政府の要人を動かして、その移転が決まったのです。この三島は、栃木県北部の那須野原の地で、開拓や疏水、道路敷設などの事業を行なった業績のある、有力な人物だった様で、後に警視総監に着くのですが、山形県でも、県令として同じ様な決定を下しています。
そんな経緯があって、現在の栃木県があります。静岡県の浜松が一番の「餃子の街」だと聞いていましたが、いつもの間にか、この宇都宮の餃子消費量が日本一になったとかで、「餃子の街」なのです。長く中国の天津と華南の街で過ごして、華南の街では、2つ3つの市内の路線バスに乗り換えて、わざわざ水餃子を食べに行ったほどです。そこでの味を知っている私たちにとって、この宇都宮の餃子、とくに水餃子は美味しいのです。
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2019年の秋の台風19号で、市内を流れる巴波川と永野川が氾濫して、お借りしていた家が床上浸水で、宇都宮の隣町にある、教会のゲストルームに避難させて頂いたのです。その時に、教会の近くに、戦後、満州から引き揚げて来られたご婦人が、この宇都宮で始められた餃子屋さんの支店があったのです。そこに食べに行ったのです。
避難させていただいた時、お米や野菜や果物を差し入れてくださる、その教会のみなさんの愛に励まされたのです。そんな滞在中に、老舗だと聞いて、そこに行ってみたのわけです。なかなか帰国後は、水餃子を食べる機会がなかったのですが、文句なしに、その餃子は美味しかったのです。さすが宇都宮は餃子だと感心したわけです。
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宇都宮は、その他にも特筆する伝統や歴史が、多くあるのですが、あの「駅弁」も、その一つなのです。駅弁には、140年と言う歴史があるそうで、最も有力な発祥説は、「宇都宮駅」だと言われています。明治18年に、今の東北本線ができて、東京と地方都市が結ばれて、鉄道網が全国に張り巡らされていきました。宇都宮駅ができ、鉄道が開通した時に、「ごま塩をかけた梅干し入りの握(にぎ)り飯2個に、沢庵(たくあん)を添え、竹皮に包んで売り始めた。」のが、一番初めなのだそうです。
これも日本文化の一つになるでしょうか。東京駅から出雲市駅に至る鉄道の長旅をした時に、母が買って食べさせてくれたのが、その駅弁でした。4人の子を連れての里帰りで、母は大変だったろうなと思わされるのです。日に3食を、そうして食べての旅だったからです。だからでしょうか、駅弁にはつよい郷愁を覚えてならないのです。一緒に瀬戸物の器にお茶が入って売っていて、水分補給をしてもらいました。何か、凍ったミカンも食べた様な記憶もあります。
その駅弁の発祥の地が、宇都宮駅だったわけです。お隣の群馬県の「峠の釜飯」が美味しくて、なんどか食べたことがあります。あんな名物も、鉄道の高速化、窓を開け閉めしない車両になって、消えて行ってしまうのでしょうか。消えていく日本文化の一つでもあります。
(“いらすとや”の宇都宮市木のイチョウ、水餃子、駅弁です)
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