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私は、「救い」について、いわゆる「カルヴィニズムの5ポイントの強調点」を信じております。「ドルト信条」や「教理」を学んだからではないのです。だれが何とおっしゃられても、自分の救いも信仰も、この五特質そのものだからです。『随分と冷たい、手前勝手のことを信じているのですね!』と非難される方もおいででしょう。でも、この自分は、何一つ良いところのない人間なのに、こんなに驚くべき救いに、この私が預かれたのですから、そう言わざるを得ないのです。
私は、中学生になったときに、運動部の高校や大学の先輩たちに仕込まれて、大人の世界を見せられました。それでも、みんなが堕ちていく中で、『きよく生きたい!』と願ったのです。ところが、マグマのような勢いで内と外からやってくる性の衝動に、勝てなかったのです。酒もタバコも拒絶できませんでした。『やめたい!』との願いがありながら、それを、し遂げる力が全くない、すっかり身も心も堕落した青年になっていました。自分の内には良いものなど何一つありませんでした・・・「全的堕落」。
『イエスさまの十字架が、この自分の罪の赦しためであった!』と、私が言いますと、『錯乱して語っているのだ!』と思われています。「異言」を語ってしまって、聖霊に満たされた瞬間に、イエスさまの十字架は、自分のためであったと分かったのです。それで私は、罪を赦されてクリスチャンとされたのです。決して善行を積んで、合格点を取ったからではありませんでした。贈り物として、ただで頂いたのです。
救いについての「条件」に何一つ、付け加えるような良い点はありませんでした。『救われるように!』と、だれ一人推薦してくれませんでした。祈ってくれた母の祈りによったのでもないのです。このあわれみ深い神さまは、そう願って母が祈るよりも遥か以前、生まれる前、いえ天地が創造されるよりも前に、この私を「義」としてくださる「救い」に、この私をお選び下さっていたのです・・・「無条件の選び」。
周りには、私よりも正しく立派に生きている友人が沢山いました。『どうして彼らではなく、自分が救われたのか?』、どう考えても理由が分かりません。イエスさまは、だれ一人滅びることを願いませんが、正しく見える彼らの救い主ではないのです。私のような取るに足りない、罪に負けて生きて来たような者のために十字架に死んでくださったのです。十字架の血は信じない人のためには流されてはいないのです。血が無駄にならないために・・・「制限的贖罪」。
それは、神さまからの一方的なご好意によったのであって、「恵み」以外の何ものでもないのです。罪の奴隷で、乞食のような惨めな私が、「聖」とされたとしたら、恩恵以外には考えられません・・・「不可抗的恩恵」。
そんな私が、60年もの間、信仰を持ち続けているのは、努力とか精進してきたことが、救いを堅持しているのではまったくないのです。飽きっぽくて移り気な私が、まだ信仰の中に留まり続けているとするなら、「子としてくださった」神さまによる以外に、考えられません。「栄光化」してくださるまで、最後まで支えてくださると信じてやまないのです・・・「聖徒の堅忍」。
これはカルヴァンやスポルジョンが言ったからではありません。聖霊さまが、みことばを通して、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです(新改訳聖書 エペソ2:8~9)」と、神さまが、こんな汚れた私に、はっきりと言ってくださったからであります。
(“ウイキペディア”の宗教改革記念像、左から二番目がカルヴァンの肖像です)
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