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三十数年前のことでした、夏休みに帰郷した長男が、学費の足しにとアルバイトをしていたのです。その職場に、フィリピンから出稼ぎに来ていたみなさんがいて、そこは英語圏の一つですので、みなさんは英語を話されていて、息子も話せて、休みには、家にお連れしていました。
国に家族を残していて、みなさんは仕送りをしておいででした。ビサが切れて、更新せずに不法滞在になっていたのです。それでも私たちの家庭と教会に、お見えになっていました。しっかり信仰をお持ちだったのです。
結局、不法滞在が露見して、強制送還になったのです。その中に、ほぼ私と同世代の方がおいででした。交わりの中で、戦時下に日本軍が、この方の出身の村にやって来て、日本兵に、お父さまが殺されたと話してくれました。南方の戦いは、物量の差が大きくて、日本軍は敗走していたのです。
お母さまから、父君の最後を、大きくなってから聞いたのです。日本軍の仕打ちの様子を聞きしていたのですが、過去をゆるして、そのことを話してくれたのです。私の同級生にも、何人も父(てて)無し子たちがいましたから、フィリピンにも日本にも、そう言った戦後を、母子家庭で育った子どもたちがいたわけです。
この方が、送還後、しばらく経ってから、小包が私の元に送られてきたのです。それは、お父さんが残した、ハワイのアロハシャツに似たフィリピンの礼服で、一着 入っていました。私の父は軍属で、直接兵役についた軍人ではなかったので、戦死することはなく、私たち兄弟を育ててくれたのです。
そんなことを思い出したのは、戦時下に、フリピンの戦場から、一人の軍属(民間人)が、故郷の島根県出雲市の友人の名と住所を、一個の椰子の実に記して、日本に届く様にと願って、海の波に託した話を読んだからです。何と30年もの年月が経って、その椰子の実が、日本の浜辺に届いたのだそうです。
島崎藤村の作詞の「椰子の実」」に、
1 名もも知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
まさに、大正期に作ったこの歌の様な、何年も経って、実話があったことになるのです。島根県出雲市簸川郡大社町(現・出雲市大社町)の海岸に、その椰子の実が、1975年に漂着したのです。その実に墨書されていた住所で、その方が出雲市に健在であることも分かったそうです。またこの椰子の実を流した人は、病気で亡くなられていますが、その名前も判明したのです。洋上を漂流して、椰子の実が、願った人に届く可能性は、どれほどかを考えると驚くばかりです。椰子の実が届くようにと願った本人は、帰還できず異国の地で亡くなっていますから、どんな思いだったのでしょうか。
(“いらすとや”の椰子の実です)
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