『四輪自動車はともかく、オートバイだったら、どうにかなるかな!』と、青年期の私は、自分のバイクに乗る夢をふくらませていました。お父さんが土建屋をしていた同級生が、カブに乗って、夏休みの練習日に来ていたのです。『乗っていいか?』と聞くと、OKでした。どう乗るかを聞いて、自転車に乗る気持ちでスタートさせたら、うまくブレーキがかけられずに、校舎の木壁に激突してして、カブを壊してしまったのです。最初の事故体験でした。
大きな青果商の息子の同級生は、大型のバイクにヤミ乗りで通学し、学校の近くに駐車場を見つけて通学していました。実に格好よかったのです。ただ羨ましいだけで終わったのですが、焼けぼっクリを抱えたまま、車を持つことになったのですが、脇を猛スピードで追い越していくのを見て、火が付いて、バイカーが羨ましくて仕方ありませんでした。
まだ中学生の頃、バイクといったら、アメリカのハーレー・ダビッドソン製の「ナナハン(750cc)」で、まだHONDAは、50ccのカブが中心で製造していた時代でした。そんな頃に、国産の「陸王」とか「メグロ」というバイクがあったのです。まさに憧れの車種で、東京の目黒にあった会社が製造して、大人気だったのです。
このバイクは、今では東急電鉄ですが、目黒蒲田電鉄と呼ばれた電鉄会社で、その不動前駅で、目黒製作所という名の会社が製造していました。父が市立横須賀中学校から転校したのが、私立の荏原中学校で、その近くにあった会社だったのです。ハーレーのバイクを真似たものを製造し、大正期から昭和にかけて、Bikerの憧れだったそうです。どの時代の若者の胸をも躍らせてきたのが、マフラーから爆音を響かせて、憂さを晴らす様な、青春を爆発させるかの様な音がよかったのでしょう。
今住んでいます家の前には、五叉路の交差点があって、時々、爆音けたたましいバイクが走り込んで、走り去っていくのです。『アッ、やってるな!』と、夢を叶えられずに終わった自分にとっては、そのバイク気分を痛いほど感じるのです。もう一度、叶えられなかった爆音の青春を、今でも実行してみたい想いに駆られてしまうジジーなのです。
当栃木県出身の創業者の村田は、初め、修理や部品製造をしていたのですが、ナナハンには届かない、500ccのバイクを作って、オートレースに参戦したのです。日本国産初のオートバイ製造者だそうです。間も無く戦争が始まって、バイクどころではなくなってしまい、排気量の多い不経済性もあって製造中止にいたるのです。やはりに戦争の影の一つの悲しい出来事でもあったのです。
戦争が終わってから、再びバイク業界が陽の目を得て、多くの小規模な会社が乱立されます。メグロに魅せられたフアンの要請もあったそうで、製造再開を期すのです。目黒製作所は、戦後、栃木県の烏山(現在に那須烏山市)に疎開していました。過当競争もあって会社は終了したのですが、三たび、カワサキの名で、メグロが作られるのです。
那須烏山は、和紙の生産が行われた地で、「程村紙」という名で、古来製造が行われてきたのです。紙もまた、中国から渡来した技術で始まっていて、この那須の烏山の地は、和紙の原料となる「楮(こうぞ)」の産地でもあって、江戸時代には、水戸藩の藩政の一つとして良質の厚紙の和紙の生産が奨励され、コウゾの木の植林、きれいな湧き水もあって、生産が活発に行われてました。その和紙は、下野(栃木)と常陸(茨城)を流れる那珂川の舟運で、江戸に運ばれていたそうです。
山紫水明の地で、バイクが再び作られ得て、那須烏山は、Bikerたちにとっては、「メグロの聖地」、バイクのメッカなのだそうです。HONDAの躍進の陰で、マニアたちにとっては、メグロは隠れた名機なのでしょう。1964年の東京オリンピックの時、マラソン競技の先導の警視庁の白バイの中には、このメグロ機があったそうです。
甥っ子は、バイクのレーサーで、香港で行われた国際レースで優勝していたでしょうか。高校を出て自分で買ったバイクに乗って挑戦を始めましたが、栃木県下の茂木のレース場で、事故で亡くなったのです。長男と2ヶ月違いの従兄弟同士でした。ヨハネの福音書のみことばを暗唱して、オートレースに臨んだBikerだったのです。
(“いらすとや”のバイカー、“ウイキペディア”の楮の葉と花です)
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