18の頃を思い出してる私

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 18歳の頃を思い返して見る、81歳になった私です。その違いを、面白く言い表している投稿や落語の大喜利(ゲーム)がある様です。それをご紹介してみます。

・道路を暴走するのが18歳、逆走するのが81歳

・心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳

・偏差値が気になるのが18歳、血糖値が気になるのが81歳

・受験戦争で戦っているのが18歳、アメリカと戦ったのが81歳

・恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳

・まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳

・聞く気がないのが18歳。聞こえないのが81歳

・自分探しをしているのが18歳、皆が自分を探しているのが81歳

・ドキドキときめきが止まらないのが18歳、ドキドキ動悸が止まらないのが81歳

・恋で胸を詰まらせるのが18歳、餅で喉を詰まらせるのが81歳

・緊張で震えるのが18歳。いつも震えているのが81歳(以上転載分)

【家内へ送信した今朝のチャット】

 まさに実感の81歳です。いつもありがとう。54年の忍耐と祈りに感謝。昨日の食事会で、〇〇さんに、あなたが真剣に話した、子育て中の「家出物語」、猛反省の最中です。もう少しの忍耐をお願いします。不束(ふつつか)なオットセイ(夫生)でした。感謝して🥲 

【自作】

バイクを爆進させるのが18歳、手押し車が先に行ってしまうのが81歳。

生きる術を探すのが18歳、終の住処を探し当てたのが81歳。

スタート地点に立つのが18歳、ゴールが間近なのが81歳。

天国を遥かに望み見ているのが18歳、目の前にしているのが81歳。

教理を暗記していたのが18歳、弔辞を暗記するのが81歳。

硬煎餅を齧(かじ)ったのが18歳、マシュマロを舌で転がすのが81歳。

駅まで近かったのが18歳、トイレが近いのが81歳。

ポリスが怖いのが18歳、段差が怖いのが81歳。

大声で叫ぶのが18歳、助けを呼ぶのが81歳。

髪をとくのが18歳、髪を拾うのが81歳。

肉と戦うのが18歳、霊で闘うのが81歳。(お粗末!)

(誕生祝いに頂いたポインセチアの鉢植えです)

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美味しい宮ねぎ

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 この街の冬の特産に、「宮ねぎ」があります。江戸期には、これを将軍様に献上したほど、江戸の街でも人気のあった葱なのです。地方名産で、栽培を奨励している様ですが、手間暇のかかる野菜だそうで、なかなか手に入りません。今年は天候の加減で、生産者は収穫が少ないと嘆いておいでです。

 吹上という地が、市の北部にあって、皆川氏の居城があった地で、ここが産地なのです。上州群馬県では、下仁田で、どうも同じ様なねぎがあ離、こちらの方が知名度が高い様です。同種の様で、呼び方が違うのでしょうか。これのヌタや肉や魚や野菜の鍋に入れたら、とびっきり美味しいのです。 

 関西では九条ねぎ、埼玉では深谷ねぎ、東京では千住ねぎが有名で、どこの県にも、葱の特産品がありそうです。もちろん、葱だけではなく、他の野菜なども多くの物に種類があることでしょう。

 葱も、やはり原産は中国で、奈良時代には栽培されていたそうです。品種改良など、はだいぶ経ってからですので、自然交配の中で多種多様な農作物が生まれてきたのでしょう。時々、スーパーマーケットの店頭には、珍しい野菜が並ぶこともありますが、「地産地消」が、体には一番適しているに違いありません。

 こちらでは、この葱を、「ダルマねぎ」と言うnickname で呼ぶそうで、形状が達磨に似て、胴太いからでしょう。栽培が厄介そうで、種蒔きから出荷まで、14ヶ月を要するそうです。食べられるのは、11月から12月までで、貴重品級なので、なかなか手に入りません。

 そう言えば、天津や華南の街の市場(shichang)でも、長葱が売られていましたから、豆腐や蒟蒻(こんにゃく)に牛肉で、冬場は鍋をしたのでした。また、あの鍋をしましょうか。そうしたら、2026年の新しい年が、暖かな春がやってくるでしょう。

『神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。(新改訳聖書 創世記1章11節)」

(“いらすとや”の太葱です)

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郷愁を覚えてならない

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 今では、北関東最大の都市が、ここから北にある栃木県庁所在市の宇都宮市です。ここは、お江戸、日本橋から、北へ三十七里(148km)の日光街道と、奥羽街道の分岐宿に位置した街で、賑やかな城下町、宿場町でした。律令制下には、栃木に下野国の国庁があり、ここも全国有数の宿場でもあったのです。宇都宮氏の支配下にありましたが、改易で、浅野氏や蒲生氏が城主となり、江戸幕府の下では、奥平氏や本田氏、幕末には、戸田氏が城主として治めていたのです。

 この街は、日光参りをする将軍が宿をとった街でもあったこともあり、江戸防衛上、重要な街であったのです。どうも、甲州街道の八王子宿と、ほぼ同じほどの使命と規模があった様です。廃藩置県が、明治維新政府によって定められた時に、元薩摩藩士の三島通庸が、栃木県令(知事)に就任して間もない、明治16年11月8日に、宇都宮に県庁を移転しています。

 どうも、舟運で栄えていた栃木は、自由民権運動が盛んだったのと、宇都宮の有力な商人たちによる強い移転要求運動があって、維新政府の要人を動かして、その移転が決まったのです。この三島は、栃木県北部の那須野原の地で、開拓や疏水、道路敷設などの事業を行なった業績のある、有力な人物だった様で、後に警視総監に着くのですが、山形県でも、県令として同じ様な決定を下しています。

 そんな経緯があって、現在の栃木県があります。静岡県の浜松が一番の「餃子の街」だと聞いていましたが、いつもの間にか、この宇都宮の餃子消費量が日本一になったとかで、「餃子の街」なのです。長く中国の天津と華南の街で過ごして、華南の街では、2つ3つの市内の路線バスに乗り換えて、わざわざ水餃子を食べに行ったほどです。そこでの味を知っている私たちにとって、この宇都宮の餃子、とくに水餃子は美味しいのです。
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 2019年の秋の台風19号で、市内を流れる巴波川と永野川が氾濫して、お借りしていた家が床上浸水で、宇都宮の隣町にある、教会のゲストルームに避難させて頂いたのです。その時に、教会の近くに、戦後、満州から引き揚げて来られたご婦人が、この宇都宮で始められた餃子屋さんの支店があったのです。そこに食べに行ったのです。

 避難させていただいた時、お米や野菜や果物を差し入れてくださる、その教会のみなさんの愛に励まされたのです。そんな滞在中に、老舗だと聞いて、そこに行ってみたのわけです。なかなか帰国後は、水餃子を食べる機会がなかったのですが、文句なしに、その餃子は美味しかったのです。さすが宇都宮は餃子だと感心したわけです。

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 宇都宮は、その他にも特筆する伝統や歴史が、多くあるのですが、あの「駅弁」も、その一つなのです。駅弁には、140年と言う歴史があるそうで、最も有力な発祥説は、「宇都宮駅」だと言われています。明治18年に、今の東北本線ができて、東京と地方都市が結ばれて、鉄道網が全国に張り巡らされていきました。宇都宮駅ができ、鉄道が開通した時に、「ごま塩をかけた梅干し入りの握(にぎ)り飯2個に、沢庵(たくあん)を添え、竹皮に包んで売り始めた。」のが、一番初めなのだそうです。

 これも日本文化の一つになるでしょうか。東京駅から出雲市駅に至る鉄道の長旅をした時に、母が買って食べさせてくれたのが、その駅弁でした。4人の子を連れての里帰りで、母は大変だったろうなと思わされるのです。日に3食を、そうして食べての旅だったからです。だからでしょうか、駅弁にはつよい郷愁を覚えてならないのです。一緒に瀬戸物の器にお茶が入って売っていて、水分補給をしてもらいました。何か、凍ったミカンも食べた様な記憶もあります。

 その駅弁の発祥の地が、宇都宮駅だったわけです。お隣の群馬県の「峠の釜飯」が美味しくて、なんどか食べたことがあります。あんな名物も、鉄道の高速化、窓を開け閉めしない車両になって、消えて行ってしまうのでしょうか。消えていく日本文化の一つでもあります。

(“いらすとや”の宇都宮市木のイチョウ、水餃子、駅弁です)

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メグロ

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 『四輪自動車はともかく、オートバイだったら、どうにかなるかな!』と、青年期の私は、自分のバイクに乗る夢をふくらませていました。お父さんが土建屋をしていた同級生が、カブに乗って、夏休みの練習日に来ていたのです。『乗っていいか?』と聞くと、OKでした。どう乗るかを聞いて、自転車に乗る気持ちでスタートさせたら、うまくブレーキがかけられずに、校舎の木壁に激突して、カブを壊してしまったのです。最初の事故体験でした。

 大きな青果商の息子の同級生は、大型のバイクにヤミ乗りで通学し、学校の近くに駐車場を見つけて通学していました。実に格好よかったのです。ただ羨ましいだけで終わったのですが、焼けぼっクリを抱えたまま、車を持つことになったのですが、脇を猛スピードで追い越していくのを見て、火が付いて、バイカーが羨ましくて仕方ありませんでした。

 まだ中学生の頃、バイクといったら、アメリカのハーレー・ダビッドソン製の「ナナハン(750cc)」で、まだHONDAは、50ccのカブが中心で製造していた時代でした。そんな頃に、国産の「陸王」とか「メグロ」というバイクがあったのです。まさに憧れの車種で、東京の目黒にあった会社が製造して、大人気だったのです。

 このバイクは、今では東急電鉄ですが、目黒蒲田電鉄と呼ばれた電鉄会社で、その不動前駅で、目黒製作所という名の会社が製造していました。父が市立横須賀中学校から転校したのが、私立の荏原中学校で、その近くにあった会社だったのです。ハーレーのバイクを真似たものを製造し、大正期から昭和にかけて、Bikerの憧れだったそうです。どの時代の若者の胸をも躍らせてきたのが、マフラーから爆音を響かせて、憂さを晴らす様な、青春を爆発させるかの様な音がよかったのでしょう。

 今住んでいます家の前には、五叉路の交差点があって、時々、爆音けたたましいバイクが走り込んで、走り去っていくのです。『アッ、やってるな!』と、夢を叶えられずに終わった自分にとっては、そのバイク気分を痛いほど感じるのです。もう一度、叶えられなかった爆音の青春を、今でも実行してみたい想いに駆られてしまうジジーなのです。

 当栃木県出身の創業者の村田は、初め、修理や部品製造をしていたのですが、ナナハンには届かない、500ccのバイクを作って、オートレースに参戦したのです。日本国産初のオートバイ製造者だそうです。間も無く戦争が始まって、バイクどころではなくなってしまい、排気量の多い不経済性もあって製造中止にいたるのです。やはりに戦争の影の一つの悲しい出来事でもあったのです。

 戦争が終わってから、再びバイク業界が陽の目を得て、多くの小規模な会社が乱立されます。メグロに魅せられたフアンの要請もあったそうで、製造再開を期すのです。目黒製作所は、戦後、栃木県の烏山(現在に那須烏山市)に疎開していました。過当競争もあって会社は終了したのですが、三たび、カワサキの名で、メグロが作られるのです。

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 那須烏山は、和紙の生産が行われた地で、「程村紙」という名で、古来製造が行われてきたのです。紙もまた、中国から渡来した技術で始まっていて、この那須の烏山の地は、和紙の原料となる「楮(こうぞ)」の産地でもあって、江戸時代には、水戸藩の藩政の一つとして良質の厚紙の和紙の生産が奨励され、コウゾの木の植林、きれいな湧き水もあって、生産が活発に行われてました。その和紙は、下野(栃木)と常陸(茨城)を流れる那珂川の舟運で、江戸に運ばれていたそうです。

 山紫水明の地で、バイクが再び作られ得て、那須烏山は、Bikerたちにとっては、「メグロの聖地」、バイクのメッカなのだそうです。HONDAの躍進の陰で、マニアたちにとっては、メグロは隠れた名機なのでしょう。1964年の東京オリンピックの時、マラソン競技の先導の警視庁の白バイの中には、このメグロ機があったそうです。

 甥っ子は、バイクのレーサーで、香港で行われた国際レースで優勝していたでしょうか。高校を出て自分で買ったバイクに乗って挑戦を始めましたが、栃木県下の茂木のレース場で、事故で亡くなったのです。長男と2ヶ月違いの従兄弟同士でした。聖書の愛の章のみことばを暗唱して、オートレースに臨んだBikerだったのです。

(“いらすとや”のバイカー、紙漉きです)
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恵によって救われた、と

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 私は、「救い」について、いわゆる「カルヴィニズムの5ポイントの強調点」を信じております。「ドルト信条」や「教理」を学んだからではないのです。だれが何とおっしゃられても、自分の救いも信仰も、この五特質そのものだからです。『随分と冷たい、手前勝手のことを信じているのですね!』と非難される方もおいででしょう。でも、この自分は、何一つ良いところのない人間なのに、こんなに驚くべき救いに、この私が預かれたのですから、そう言わざるを得ないのです。

 私は、中学生になったときに、運動部の高校や大学の先輩たちに仕込まれて、大人の世界を見せられました。それでも、みんなが堕ちていく中で、『きよく生きたい!』と願ったのです。ところが、マグマのような勢いで内と外からやってくる性の衝動に、勝てなかったのです。酒もタバコも拒絶できませんでした。『やめたい!』との願いがありながら、それを、し遂げる力が全くない、すっかり身も心も堕落した青年になっていました。自分の内には良いものなど何一つありませんでした・・・「全的堕落」。

 『イエスさまの十字架が、この自分の罪の赦しためであった!』と、私が言いますと、『錯乱して語っているのだ!』と思われています。「異言」を語ってしまって、聖霊に満たされた瞬間に、イエスさまの十字架は、自分のためであったと分かったのです。それで私は、罪を赦されてクリスチャンとされたのです。決して善行を積んで、合格点を取ったからではありませんでした。贈り物として、ただで頂いたのです。

 救いについての「条件」に何一つ、付け加えるような良い点はありませんでした。『救われるように!』と、だれ一人推薦してくれませんでした。祈ってくれた母の祈りによったのでもないのです。このあわれみ深い神さまは、そう願って母が祈るよりも遥か以前、生まれる前、いえ天地が創造されるよりも前に、この私を「義」としてくださる「救い」に、この私をお選び下さっていたのです・・・「無条件の選び」。

 周りには、私よりも正しく立派に生きている友人が沢山いました。『どうして彼らではなく、自分が救われたのか?』、どう考えても理由が分かりません。イエスさまは、だれ一人滅びることを願いませんが、正しく見える彼らの救い主ではないのです。私のような取るに足りない、罪に負けて生きて来たような者のために十字架に死んでくださったのです。十字架の血は信じない人のためには流されてはいないのです。血が無駄にならないために・・・「制限的贖罪」。

 それは、神さまからの一方的なご好意によったのであって、「恵み」以外の何ものでもないのです。罪の奴隷で、乞食のような惨めな私が、「聖」とされたとしたら、恩恵以外には考えられません・・・「不可抗的恩恵」。

 そんな私が、60年もの間、信仰を持ち続けているのは、努力とか精進してきたことが、救いを堅持しているのではまったくないのです。飽きっぽくて移り気な私が、まだ信仰の中に留まり続けているとするなら、「子としてくださった」神さまによる以外に、考えられません。「栄光化」してくださるまで、最後まで支えてくださると信じてやまないのです・・・「聖徒の堅忍」。

 これはカルヴァンやスポルジョンが言ったからではありません。聖霊さまが、みことばを通して、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです(新改訳聖書 エペソ2:8~9)」と、神さまが、こんな汚れた私に、はっきりと言ってくださったからであります。

(“ウイキペディア”の宗教改革記念像、左から二番目がカルヴァンの肖像です)

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遠き友より茶届きたり

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 どうも、2、3人の不埒な、不遜な尺度や経験などで、全体を判断してしまう傾向が、誰にも、どこの国の人にもあるのではないでしょうか。

 日本人が、日本のメディアが、けっこう嫌いなのが、中国の人なのだそうです。私たちにとって、13年間、広大な中国の地方都市で生活して、出会ったChinaなみなさんは、善良で、親切で、朗らかでした。真夏の炎天下、ちっと涼しいく感じる木陰のコンクリートの上で、お腹を出して中年のおじさんが昼寝をしていました。同じ頃に、一匹の犬が、水たまりにお腹をつけて、水浴をしているような格好をしていました。別に真似したわけではなさそうでした。

 また、珍しい物を持っていると、『それ、どこで買った?』と、こちらが手にしている物を触りながら聴く人懐っこしさがあるのです。『見せて!』ではなく、手が早くて、もう品物を手で触ってっているのです。文官おでしょうか、そう言ったのが普通なので、好奇心が旺盛なのでしょう。天然的でストレートで、好意的で人懐っこく、いい面があって驚かされました。

 住居棟の同じ階段を使っている、14軒ほどのみなさんの中で、何人かの方は、田舎から帰って来ると、特産品を持って家に来て、『田舎のおいしい野菜が採れたので!』と言って下さったのです。サツマイモやビワなんかも頂いたことがあり、ある時は、おばあちゃんが、手作りしたと言って、お孫さんが豆腐を持ってきてくれました。

 日本を1週間ほど旅行をした方が、どこでも日本人の親切さに触れて、すっかり日本贔屓になったと、親日な旅行記を記しておいでの方がいらっしゃいます。確かに、あ物を置き忘れたり、落としてしまった方が、諦めてしまっていると、交番や受付やフロントなどに、遺失物が届けられていて、驚かれた外国人の方が多くおいでと聞きます。

 この街に住み始めて何年か経つのですが、隣り街のショッピングセンターに、家内と一緒に買い物に行った時のことです。クレジットカードなどの入った財布を無くしてしまったのです。『出てこないよなー!』と諦めていましたら、住所と名前を呼んでいる館内のアナウンスが聞こえてきたのです。どうも自分の名前だった様です。それで、総合受付に行きましたら、そっくりそのままで届けられていたではありませんか。どんなに感謝したか知れません。

 よく、『人を見たら泥棒と思え!』と言われますが、その対極に、『渡る世間に鬼はなし!』とあります。日本の社会は、後者な様で、置き忘れや落とし物を何度かしてきた自分としては、その親切さに救われてきている今なのです。

 この暮れになって隣国では、日本旅行禁止の政府主導のキャンペーンがあって、せっかく楽しみにしていた日本旅行を、予約した航空券をキャンセルしてしまわねばならない動きが起こっています。そんな中で、誰一人反論を掲げる人が十数億のみなさんの中に、「いない」というのが、驚きなのです。東武日光駅から足尾のバスの中で、席を譲ってくださった中国人家族は、どうされておいででしょうか。

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 尖閣諸島の領土問題で、反日キャンペーンが、中国全土に徹底された時、華南の街におりました。面白かったのは、トヨタ車のプレートの脇に、手書きで、『魚釣島是中国的!(尖閣諸島は中国の領土です!)』と書き添えてありました。国中で、日本車が傷付けられたり、ヒックリ返されたりしている事件があった最中のことでした。

 中国人全員が、「右ならえ」でした。小学生の時、先生だか級長が、『ミギヘナライ!』の号令をかけると、問答無用で全員従いました。高学年になった自分は、ズルズルして従わないと、『こらー、広田!』と叱られたのです。みんなの和に従わないからだという理由ででした。殴られたこともありました。反逆児だったのです。反逆してもせいぜい殴られるくらいは、昭和の子の自分はヘッチャラだったからです。

 そう21世紀の中国で、皆国民(かいこくみん)で、不満を表せないのが驚きなのです。右でも左でも、足並みを揃えないと、仲間外れにされるからです。昔日本でもあった様ですが。そん中、天津で中国語を教えてくださった先生や、日本語を教えた教え子たちが、『先生!不都合なことがあったら、私たち、先生を助けるからね!』と言ってくれたのです。

 隣国は隣国の切羽詰まった、さまざまな不具合な現状があって、抜き差しならないのでしょうか。友人や同信のみなさんの多い私たちは、そんなに厳粛には考えていません。関心を外に逸らして、内を固めると言ったのが常套手段なのでしょうか。そんな先日、美味しい中国茶、どうも高級なものが、隣国の友人から届きました。嬉しいことであります。

(“いらすとや”の財布をなくした人、お茶です)

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流れ寄る椰子の実一つ

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 三十数年前のことでした、夏休みに帰郷した長男が、学費の足しにとアルバイトをしていたのです。その職場に、フィリピンから出稼ぎに来ていたみなさんがいて、そこは英語圏の一つですので、みなさんは英語を話されていて、息子も話せて、休みには、家にお連れしていました。

 国に家族を残していて、みなさんは仕送りをしておいででした。ビサが切れて、更新せずに不法滞在になっていたのです。それでも私たちの家庭と教会に、お見えになっていました。しっかり信仰をお持ちだったのです。

 結局、不法滞在が露見して、強制送還になったのです。その中に、ほぼ私と同世代の方がおいででした。交わりの中で、戦時下に日本軍が、この方の出身の村にやって来て、日本兵に、お父さまが殺されたと話してくれました。南方の戦いは、物量の差が大きくて、日本軍は敗走していたのです。

 お母さまから、父君の最後を、大きくなってから聞いたのです。日本軍の仕打ちの様子を聞きしていたのですが、過去をゆるして、そのことを話してくれたのです。私の同級生にも、何人も父(てて)無し子たちがいましたから、フィリピンにも日本にも、そう言った戦後を、母子家庭で育った子どもたちがいたわけです。

 この方が、送還後、しばらく経ってから、小包が私の元に送られてきたのです。それは、お父さんが残した、ハワイのアロハシャツに似たフィリピンの礼服で、一着 入っていました。私の父は軍属で、直接兵役についた軍人ではなかったので、戦死することはなく、私たち兄弟を育ててくれたのです。

 そんなことを思い出したのは、戦時下に、フリピンの戦場から、一人の軍属(民間人)が、故郷の島根県出雲市の友人の名と住所を、一個の椰子の実に記して、日本に届く様にと願って、海の波に託した話を読んだからです。何と30年もの年月が経って、その椰子の実が、日本の浜辺に届いたのだそうです。

 島崎藤村の作詞の「椰子の実」」に、

1      名もも知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん

 まさに、大正期に作ったこの歌の様な、何年も経って、実話があったことになるのです。島根県出雲市簸川郡大社町(現・出雲市大社町)の海岸に、その椰子の実が、1975年に漂着したのです。その実に墨書されていた住所で、その方が出雲市に健在であることも分かったそうです。またこの椰子の実を流した人は、病気で亡くなられていますが、その名前も判明したのです。洋上を漂流して、椰子の実が、願った人に届く可能性は、どれほどかを考えると驚くばかりです。椰子の実が届くようにと願った本人は、帰還できず異国の地で亡くなっていますから、どんな思いだったのでしょうか。

(“いらすとや”の椰子の実です)

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歌舞伎と京劇

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 中国の地方都市で過ごした間に、何度か、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいたり、語学留学の折の旅行で四川省の成都に出かけたりして観る機会がありました。この劇は、日本の「歌舞伎」に強く影響を与えたものなのだそうです。歌舞伎に「隈取(くまどり)」と言う、顔に赤や黒の墨を塗って演じる出し物がありますが、京劇も同じ様に顔に描くのです。

 娘婿が、長野の県立高校で英語を教えていて、飯田市に住んでいた時だったでしょうか、南アルプスの近くの大鹿村で演じ続けられている「農村歌舞伎」を、次女に誘われて観たのが、最初の歌舞伎観劇でした。江戸や上方で上演して人気を博していた歌舞伎が、農民たちに感動を与えたのでしょうか、演目も衣装も舞台も真似て、農民のみなさんによって、三百年もの間、上演され続けて、武士の生き様に触れ続けてきたのです。

 その時の演目は、「藤原伝授手習鑑 寺小屋の段」でした。主君の身代わりに死んでいく少年の心の動き、そうすることを義とする武士の生き方が演じられていて、驚かされたのです。と言うよりは、そう言った武士の生き方を、信州の山奥の片田舎で、農民のみなさんが涙ながらに演じ続けたということに驚いてしまったのです。

 それが、日本の文化や伝統あって、武士とは面倒な身分だったのだと思わされたのです。華美でなく、無名の村人の役者の演じる伝統芸は、魅力的でした。車を運転できれば、また行って観たいほどです。

 そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、中国のみなさんが言ったのを聞いて、『じゃあ、外国人に分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ない向こうでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ているのです。

 長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんLでみました。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに演じ、観られ楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。

 何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を観てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。

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 今、北関東の街に住んでいるのですが、県下の村でも、同じ様な農村歌舞伎があって、それが受け継がれているのだと聞いたことがあります。宇都宮藩の米所といって、主に藩主が食べたお米を災害していたのが、「西方(にしかた)」で、今でも、わざわざ米を買いに出かけるのだと聞きました。頂いて食べたことがありますが、本当に美味しいのです。

 きっと、江戸や京都に出かけたみなさんが、歌舞伎を観劇して、感動を与えられて、『俺たちも!』と、大鹿や西方の様に、農村歌舞伎を演じ続けた村は、日本中に多くあったのでしょう。「文化」は、そういった風に作り上げられてきているのでしょう。今日日、日本を訪ねた欧米のみなさんが言う、「礼儀正しい日本人を、作り上げた一つの基盤が、そこにあったのでしょうか。

(“ウイキペディア”の大鹿歌舞伎、京劇の挿絵です)

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トマトと瀬面に

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 12月になりました。わが家族にとって、今月は4人の誕生月なのです。長女の主人、2人の孫、そして私です。暖かな冬に、驚かされていますが、今朝の天気予報ですと、今夕には大雪になると言っていました。

 そん中、わが家のベランダで、トマトは、大きくなっていて、もうミニトマトのサイズから、じょじょに大きさを増しているのです。赤く熟すかどうかが、目下の関心事です。また眼下の巴波川の波は、暖冬の陽を、キラキラと輝かせて、昨日は綺麗でした。

 また一才の歳が加えられますが、就学前の肺炎で、死の危機があったのに、この歳まで生かされてきました。母の篤い看病と祈りがあって、持ち直したのです。純毛の毛布を、生家に父が取りに行って、寒い冬を越せて、生き延びたのです。その毛布を、家から持ってきてもらったハサミで、切り刻んでしまったのだそうです。暇を持て余してでしょうか。

 熊の出没騒動、東南アジアの大雨被害の甚大さ、各地の地震と火事、戦争、地上は大きな問題を抱えていますが、これらの人的自然的な災害は、今後、どうなっていくのでしょうか。大いに心配なのです。祈るばかりの私の12月です。

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温かな手紙の紹介

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 よしおくんのおばあちゃんからの手紙への渥美清の返事

 「こんにちは。おばあちゃんからお手紙いただきました。僕は寅さんの映画に出ている、おじさんです。名前は渥美清といいます。よしお君は毎日元気でやってますか。

 僕は、今、こうやって元気そうに見えますけども、生まれたときはね、1900ぐらいしかなかったんです。お父さんの片っぽの手のひらの上にちょこんと乗っかったくらいに、それは小さな赤ん坊でした。あまり体が丈夫でなくて、小学校も休む日の方が多くてね、全部を通して、4年ぐらいしか行っておりません。

 いろんな病気をしました。ほとんど体操の時間は、一人ポツンと運動場に立って、みんなのことを見ている方が多かったです。それから大きくなって、25歳の時は、また病気をしました。これで死ぬか生きるかくらいの大きな手術をして、10日間ぐらいは、もう助からないんじゃないかなと言われるくらいに危篤でした。

 今でもあまり無理ができません。僕のことをいつもいつも最後まで心配してくれていたおふくろも、もういません。生まれた時から、親子4人きりの家族でしたが、一番初めにお兄ちゃんが、そしてお父さん、お母さん、みんな死んで、僕一人だけになりました。

 でも、体を大切にして一生懸命生きています。僕の体のことだけを家族の人は心配してくれました。だから、僕が自分の体を大切にするということは、僕の家族を大切にすることだと思っています。

 よしお君も、つらいことや、じれったいことや、悲しいことがたくさんあるでしょう。でも、もっとつらい人がいっぱいいます。おじさんは何年間か遠いところの療養所に入っていました。そのとき、そういう人をいっぱい見ました。それはもうきりがありません。

 おばあさんや、おうちの人の言うことをよく聞いてね、可愛がられるようにしてください。そして、楽しく元気に毎日を過ごしてください。

 おじさんも、映画やテレビに出るとき、よしお君のこと思い出します。わざわざお手紙をくださったおばあちゃん、それから一生懸命働いてるお父さんに、よしお君からよろしくお伝えください。それでは、さよなら」

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  これは、優しく温かな手紙ではないでしょうか。実は、渥美清の出演した映画は一度も観たことがありませんでした。ただ、YouTubeでは、第一作と第二作を観たのは、5年ほど前のことでした。主人公がテキ屋稼業だったので、教会に真面目に行き始めた頃でしたから、敷居が高くて行かずじまいだったからです。

 日本人の善意や哀感が溢れていて、オッチョコチョイの車寅次郎の人とが出会い、とくに人気女優がマドンナとして登場し、有名男優が脇役で登場するのが、鍵の様な映画なのです。それに、日本各地を旅をするのと、昭和の時代の風景が映し出されていて、懐かしさに誘ってくれるのも味噌の様です。

 渥美清は、アフリカ撮影で出掛けた先から、お母さんにアタて手紙が残っているのです。

『拝啓、おふくろさま。僕元気!』

 この簡潔な便りを、中国の日本語を学ぶ中国の学生さんに紹介して、作文を書いてもらったことがありました。病弱な清少年を、支えてくれたお母さんへの感謝が、遠いアフリカに出かけている自分を心配しているだろうと思って、そんな感情が溢れていて、実に素晴らしい便りで、感動していた私は、少ない言葉で、想いを伝える術のあることを、学生さんたちに知って欲しかったのです。

 そうすると渥美清は、名優と言うだけではなく、巧みな手紙の差出人でもあるのです。惜しまれて亡くなられた俳優さんでした。よしお君は、どんな想いで、この返事をおばあさんの朗読で聞いたのでしょうか。こんな手紙を書いてみたいものだと、今も思うのです。

(“いらすとや“のおばあちゃんとアフリカのキリンです)

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