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「こもり柿(こもり柚、木もり柿)」、晩秋の野面に、柿の木のてっぺんほどに、二つほど残されている柿があります。父に似て柿の好きな私には、何かもったいにように思えて仕方がなかったのです。私の育った街の農家にも、そういったばんしゅうからふゆの風景が見られたのです。
今では、柿もぎをしなくなってしまった木が多く見られるのですが、近くの公園への道の途中の家の庭にも、もがれないか柿の木があって、カラスが来ては突っついて、食べ残しや、食べかけがあり、果物の種類の多くなった現代では、あまり人気がなくなってきているようです。また、家人が歳をとってしまったからでしょうか、採って食べさせる子どもが少なくなったのか、木成りのままです。
一説によりますと、「きまもりがき(木守柿)」だとも言うようです。三好達治は、随筆に次のように記しています。
「一つ残らずとり尽くしては、さすがに柿の木も機嫌を損じて、来年から生り惜しみをして収穫が落ちよう、それでは困るから、あれはお礼ごころに、一つだけ残しておくのだ。」
そう思う、日本人の心情が素敵ですね。どうも、来年の実りへの感謝が込められて、柿の木に、ここ下野では、実二つを残すのに違いありません。奥ゆかしい日本人の古き良き風習は、食いしん坊の自分には、つがれていないように思えるのです。思い出にも、幾様もあって楽しいものです。
先日、家内の歌仲間から、枯露柿を頂きました。丹精に世話をされて、寒風の中で干しては仕舞い、干しては仕舞いを繰り返したのでしょうか、剥いて干してできた干し柿の外皮も、柔らかくて実に美味しかったのです。昨日、玄関に、その方が見えられて、『今まで食べた中で、超一級の枯露柿でした。ご馳走様でした!』と感謝したのです。この方も、『今回はよくできたんです!』とおっしゃっていました。
柿喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
奈良の法隆寺の茶店で、出していただいた柿を食べながら、明治の俳人、正岡子規が、こう詠んだ俳句で、二十万もの作句をした子規の秀逸の一句だと言われています。
柿喰ヒの 俳句好みしと 伝ふべし
という句も作っているほど、柿好きだったそうです。松山に、夏目漱石を訪ねた帰りに、奈良に寄った時の句です。その柿は、「御所柿」だったそうです。この御所柿を、一箱頂いたことがありました。父の恩人で、若い頃に東京・日本橋の千疋屋で丁稚奉公をされて、故郷に帰って果実商をされていた方からでした。父が戦時中、石英を掘っていた軍の軍需工場の事務室を、このお店の一郭に設けて、山と街を行き来していたのだそうです。
その街で、アメリカ人宣教師が開拓伝道をし、その助手として訓練を受けていた私は、休みになると、このおじさんの店に、家内と長男と連れ立ってお邪魔したのです。そこには父の机を置いていた一廓が、まだ残されていました。オジさんは、『準ちゃん!』と呼んでは、『何喰う?』と言っては、近所の食べ物屋に連れ出しては、天丼、カツ丼と、行くたびに、店を変え、品を変えてご馳走してくれたのです。
隣り町が産地で、その時も天皇に差し出す名果と同じ物でした。その街の目抜通りから入ったところに店があって、終戦後、復員してきた、元兵隊さんに、リヤカーを用意して、青果商の引き売り紹介していた、人徳のある方で、青果商組合の責任者をしていました。この方の紹介で、競(せり)で落とした野菜や果物を 、荷運びするアルバイトをしていたのです。
競り場を、このオジさんの後について歩いていると、ほとんどの青果商の方たちが、頭を下げて会釈して行き合いました。なんだか自分にされているように感じてしまったのです。
子規は、結核に冒されて、34歳で亡くなっています。この名は、不如帰、杜鵑、時鳥と記す「ほととぎす」のことです。「泣いて血を吐くホトトギス」と言われ、結核を病んだ子規は、自分み吐血をしていく病状から、ペンネームを「子規」にしたと言います。今日日、MLBのか顔となった大谷翔平の活躍の野球ですが、この子規は、野球狂だったそうです。1890年5月に起きた「インブリー事件」を観戦していて、その観戦記が残されています。
「十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。」
明治の学生の子規も、野球に魅せられた一人でした。今年のMLBは、どうなるのでしょうか。令和の老いたる私も、心踊らされるbaseballに虜にされてしまうのでしょうか。いまだに柿の実が、真冬の真っ青な寒空に、木の先に残されているには、冬の風情の一つなのでしょうか。
(“ウイキペディア”の御所柿です)
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