四代目もクリスチャンです

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 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った幼かった息子に、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきました。

 大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら、学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いですね。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(新改訳聖書 詩篇127・3~5)」とあります。

 私たちに、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑われたことがありました。その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多すぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。

 ところが、私はパートで働きながら牧師をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子どもを育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、昨年度、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.15》だと、@ネットで報じていました。

 私たちは4人の子どもを与えられたと信じているのです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、さらに『加速していく!』と危惧されています。

 もう大分前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。そして最近では、老いて病気がちになっている私たちの終わり方についていろいろと、子どもたちが言ってくれています。

 彼らには、とうの昔から、私の弱さが理解されているのでしょうか。『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主が、いまだに大好きなことであります。 

 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。私が憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。

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 本当に、『そうだ!』と思いました。これまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。娘は、『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に忠告してくれたのです。『負った子に教えられ』ています。

 『みんなで大好きなイエスさまを分け合うことにしよう!』と、今度は、この私が願わされ、提案しているところです。もう、今では私たちの話題n中心になってきているのは、孫たちのことなのです。大学生になって今年、彼らは、4年、3年、2年、1年になるのでしょうか。次女の娘は、高校生の年齢で、すでに大学の単位を取っていたのです。入りたい学校のScholarship をもらえるように待機中なのです。

 それよりも何よりも、双方のひいおばあちゃんから「四代目」になるのでしょうか、孫たちが教会での奉仕に励んでいて、信仰が確かに据えられているのを知って、大満足の今なのです。学生会で証詞をしたり、教会のジャニターを有給でしていたり、CSの教師をしたり、礼拝の楽器演奏を演奏したりしているのを聞いて、感謝でいっぱいの今であります。

(“ある信徒”さんのチャットからです)

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二様の燃える火に

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 ずいぶん冬場にしたのが、焚き火でした。落ち葉や枯れ落ちた小枝を集めて焚き火をし、燃え終わった灰や小枝の燃えかすの中に、濡らした新聞紙にくるんだサツマイモを入れて、焼き芋にしたのです。焼き上がるまで大人が火の番をしながら、みんなでゲームをしたのです。その間に焼き上がった焼き芋を、美味しく食べるのが、みんな好きでした。そう教会学校のハイキングで、よく山の中でやったのです。

 今時だったら、山火事になってしまう危険性があって、許されないのでしょうけど、まだ、そんなことができた時代でした。火を作る前に、大きなバケツに何杯も水を入れて、燃やす火の脇に、消火のために置いておくのが常でした。

 新聞紙をむいて、燃えかすの中から出てきた焼き芋を子どもたちに渡して、食べ始めると、みんなニコニコして、食べ急いでいたでしょうか。自然がイッパイにあふれる中で、加工して砂糖ばかりの甘いお菓子ではない、自然食のサツマイモを食べるのは、大喜びでした。いつ頃からか、バーベQが流行り出して、肉を食べることが多くなって来ましたが、祖父母の時代からの、冬場のおやつの定番の味は、子どもたちに覚えさせたかった味覚の一つだったのです。

 今住んでいます家の南の方に、渡瀬遊水池があって、毎年、芦焼きが行われ、その煙がたなびくならいいのですが、押し寄せてきて、煙だけでは無く、燃えかすが飛んでくることもあるのは、遊水池の保全にpのために違いありません。でも北側に住む者には困ったものです。今年も、3月の初めに行われるとの知らせがありました。

 作詞が巽聖歌、作曲が渡辺茂に「たきび」です。

1 かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

2 さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

3 こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

 大人たちの間で、焚き火倶楽部があるのだそうですね。焚き火愛好家たちのサークルで、互いに情報交換をしているのでしょう。もう40年もしていませんが、メラメラと燃え上がる炎は、いのちの躍動を感じるのですが、この火には別の意味もあるようです。

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 ゴスペル歌手の岩淵まことさんの作詞作曲の賛美に、「父の涙」があります。この方をお招きして特別集会をもったことや、国会で行われていた朝祷会のゲストに、この方が招かれて、  この歌を賛美してくださったこともありました。

1.心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎていく

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

2.父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よ彼等を許して欲しいと

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 この賛美には、最愛のお嬢さんをご病気で亡くされて悲しみの中で、御子を十字架に死なせた父の神の悲しみに合わせて、娘を、ガンの病で亡くした父として、 岩淵さんが作詞作曲されたものであったと聞いたことがあります。罪なき清いイエスさまが、信じる者たちの罪を、その身に負われて、罪となられて、身代わりの死を遂げられた、最愛の御子を失った神さまの悲しみは、どれほどか想像もできません。

 人の罪が、燃える火のようだと言いますが、今季は、太平洋側は雨が少なく乾燥していて、山火事がちらこちらで発生して、収まらないでいるとニュースが伝えていました。まさに焼き尽くす火は、人の罪のようだと歌われている、この賛美を思い出したのです。まさにその通りで、一度罪に身も心も任せてしまうと、燎原の火のように燃え広がって、消しようがなくなってしまうのです。

 そんな罪深い私たちをを救うために、神の怒りの火の中に、イエスさまは飛び込んでくださったのです。また、聖霊は火の炎ように、五旬節の日に、弟子たちの上にくだられ、聖霊のバプテスマを受け、その圧倒的な力をいただいて、教会が誕生していきました。(使徒行伝2章)。人を罪から救い贖うためでした。これを、火のバプテスマと言うのでしょうか。今も世界中の教会の中に、聖霊なる神さまは臨んでおられるのです。

(“ある信徒”のチャットから、“いらすとや“の焚き火です) 

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隠れた善行の行方が

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『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(新改訳聖書マタイ6章1〜4節)』

 もう何年前になるでしょうか、1970年代の初め頃だったでしょうか、山陽線の姫路駅で乗り換えて播但線で、生野駅で下車し、近くの宿舎を会場に、夏季聖会がもたれました。それまで関西方面に行くことは、母の故郷の出雲に行っただけでしたが、その生野で4日ほど過ごしたのです。もう60年も前のことになります。この生野は、平安期に始まった、銀の採掘がで有名で、江戸期には、徳川幕府の有数の財源でした。銀鉱脈が尽きると、錫や銅の採掘が行われた、佐渡や石見に並ぶ有名な鉱山町でした。

 この町の出身で、一人の映画俳優の話を最近聞きました。自分の父親よりも少し年配の方で、映画産業の隆盛の頃に、名優として活躍されて、主に脇役として、主役を盛り上げ支えた稀代の映画スターだったのです。その名が、志村喬でした。1905年(明治38年).に、この生野で生まれておいでです。お父さんは、その生野で働いた鉱山技師だったそうです。だからでしょうか、燻し銀のような演技をされて、大向こうを唸(うな)らせ、若かった自分も唸った一人でした。

 東宝の二十周年記念映画「生きる」で主役を、この志村喬が演じたのです。それは名作映画の一つとして有名で、主人公は、何と30年もの間、無欠勤で、その生真面目さのゆえでしょうか、抜擢されて市民課長となっていた渡辺勘治でした。来る日も来る日も、山積みにされた書類に、判を押し続ける公務員の姿を演じ、無気力で、惰性で、バカ丁寧に職務を行う初老の男を、志村は演じていました。

 勤務先の用があって有楽町にあった旧東京都庁に、二十代の初めだった自分は 行ったことがありました。その時に、待たされている間に、そんな映画に似た、判を押したような光景を、事務所で見た覚えがあるのです。市役所で、課長になれる平均的な年齢は、50歳前後ほどなんだそうです。渡辺は、市役所で30年間、よく揶揄される言い方で、「怠けず・休まず・働かず」と言われる地方公務員役を演じ、それは志村47歳の時 の出演でした。老け役を演じ切ったのです。

 ある日、市民から、「小公園建設に関する陳情書」がありました。渡辺課長が、その案件を担当することになるのです。市民の苦情処理に、日夜煩わされていた彼は、医者からガンの宣告を受けていた身でした。きっと、生涯最後のご奉公と思ったのでしょうか、街角の公園を建設する仕事に専念、市民のために、そして自分の最後の奉公に奔走します。

♭ いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間(ま)に、
熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間(ま)に
明日(あす)の月日(つきひ)のないものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ手を取りて彼(か)の舟に、
いざ燃ゆる頬(ほ)を君が頬(ほ)に
こゝには誰(た)れも來(こ)ぬものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
波にたゞよひ波の様(よ)に、
君が柔手(やはて)を我が肩に
こゝには人目ないものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
黒髪の色褪(あ)せぬ間(ま)に、
心のほのほ消えぬ間(ま)に
今日(けふ)はふたゝび來(こ)ぬものを。♯

(作詞が吉井勇、作曲が中山晋平です)

 映画の最後の場面でしょうか、渡辺課長が、この「ゴンドラの唄」を口ずさみながら、公園に設置したブランコをこぐのです。公園の完成を喜び、笑みを交えながら、幼児になったように静かに唄う、生涯最後の仕事を成し終えた、初老の男の満足そうにする姿は圧巻でした。この映画の一場面を思い出しながら、近所のうずま公園のブランコを何度こいだことでしょうか。

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 この男を演じた志村喬は、質素に生きた人だったそうです。想像を絶するほどのお金を得られた名優でしたが、あばら家に住んで、一切の贅沢を避けて、生涯を終えたのです。彼には隠された生活があって、その収益をどのように使ったかは、奥さまだけはご存知でした。聖書的な見方をすると、右の手で志村喬が成したことは、左手にも知らせないように、生涯を終えたのです。ただ没後50年が経ったら、明らかにするように遺言して、76歳で召されました。まさに、クリスチャンたちを恥ずかしく思わせるように生きた人だったのです。

 イエスさまは、この記事の冒頭に引用した、「山上の説教」で語られたもので、偽善者とならないための「私」の生き方、在り方にふれています。「隠れた善行」の勧めと言うべきかも知れません。人は、自慢したり、誇ったりしたいのですが、それを、神の国に生きる人はしないようにと、イエスさまはおっしゃっているのでしょう。真に誇り高く、神と人のために生きる勧めです。

 人の善行も、愚行も、父なる神さまは隠れた所で、そっと見ておられるお方だと言っています。隠れた生活の中で、善行に励み公明正大に生きることです。また、隠れた生活の中に、愚行がないように、白日のもとに、注意深く生きることの勧めなのです。神と人の前で恥じないで、誇らないで生きたら、どんなに素晴らしいでしょうか。志村喬は、周りの人々に、その高潔な生き方を認められた人だったのです。彼の演技を導いた映画監督の黒澤明は、志村喬の高潔な人格、高い品性を賞賛しています。

(“ウイキペディア”の「生きる」の一場面、生野の街の風景です)

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一枚のメモ書きに

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 会社員には「平(ひら)」、商人には「丁稚(でっち)」、相撲には「序の口」、落語には「前座(ぜんざ)」という、初めの立ち位置、立場があります。みなさんが「半人前」の初歩から始まりで、「一人前」の係長、番頭、関取、二ツ目に、そして「頭」の取締役、大番頭、横綱、真打ちとなっていくのです。

 学校の教師や、教会の牧師は、多くの場合、はなっ(端)から「一人前」になってしまいますので、初めから「親方」扱いになるのです。もちろん担任や主任にはなりませんし、補教師の立場の場合もありますが、新人も40年のキャリアもない世界であって、新入のまま一国の主(あるじ)の座に着く場合がほとんどです。まだ未熟なのに、背伸びをしなければならず、一年でも半年でも先に、就職していると、どうも先輩風を吹かせているケースが往々にしてあるようです。

 立場があって、聞くに聞けないので、進歩や変化がないまま年をとってしまって、世間に通用しなくなってしまい、お山の大将化してしまって、融通も応用も効かない人になって終わります。プライドが高くて世の中でなかなか通用しないのです。

 三年間、研究所勤務の後に就職した学校で、同年代卒の同僚が、先輩風を吹かしていました。有名大学卒業と、このかたの学んだその大学の学科長や研究所長をされた方の推薦で転職してきた私の間に壁を置きたかったようです。私を、「ナカニシ君」と呼んで、呼び続けたのです。また、この教員間の「先生呼称」ほど、教員同士の自己肯定の強さを含んだ呼称はありません。生徒や学生からは、自分たちが先生であるのはよいですが、教師同士は、どうも胡散臭くて仕方がありませんでした。

 キリスト教系の学校では、Misterで、教師も学生も呼び合う習慣があっのだそうで、立場の高低はなく、horizontal(水平)の関係が保たれていて、互いが尊敬し合っていたのです。双方が、さん付けで呼び合っても、何の軋轢もありませんでした。敬意が互いの間にあったからです。

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 NHKに入局して、アナウンサーとして活躍し、後に引き抜かれて、45歳で、TBCの名キャスターや司会者をした森本毅郎さんが、ご自分の職場での歩みや経験、出会いや思い出を語っておられます。

 アナウンサー、今ではキャスターと呼ぶようですが。10年経った時に、彼は、自分の仕事に対する、足りなさや未熟さを覚えたのだそうです。そのまま突っ走ることもできた十年選手でした。それは「壁」で、面壁九年には一年多い年数でしたが、彼は、その壁を越えるために、先輩アナウンサーに助言を求めたのです。どう自分の壁を超えていくかの知恵を求めたわけです。

     ニュース・アナウンスから、新企画の「新日本機構」という番組のナレーターで、原稿を読むことになったのだそうです。その第一回目を担当した後でした。どうもう上手くいかなくて落ち込んだのです。その時、ディレクターから、未熟さや欠点を指摘されてしまいました。それでも、ギャフンとしないで、経験豊かな先輩に、聞いたのだそうです。はじめは何人もの方に、方法論、テクニックを聞いたりしたのですが、それよりも、ある方から「メモ」をもらって、それが実に大きな助けになったと言っておられました。

 後輩の森本氏の放送を聞いて、一人のマチュアーなアナウンサー歴の長い方が、〈気付きのメモ〉をとっておられたのです。けっこう踏み込んでくる彼を相手に、やっと机の引き出しに中に入れていたメモを取り出して、手渡したのです。そのメモには、『あの場合、こう読んだ方が自然ではないだろうか、私だったらこういう時は、こんなふうに読む。』とあって、具体例が書かれていたそうです。

 以降のナレーションに、その助言が大きな助けになるのです。教えたのではなく、率直に感じたことのメモでした。そういった助言をする、多く経験を積んだ方が、なおも、ご自分で研鑽しようとしてのメモだったのです。その謙虚さが、この名アナウンサーの秘訣だったわけです。それを読ませて頂いて、得心した森本氏は、85才の今も、なお現役で、ご自分のラジオ番組を持って活躍しているのです。驚きですね。

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 どうも高いところから、話すことが主要な仕事の立ち位置で、教員や、伝道者として、私も生きていました。それで子どもたちを養い、愛兄姉とともに、ほとんどの生涯を、礼拝を守り続けてきたのです。説教での声が大き過ぎる、ダミ声調だ、ジョークや冗談は要らないと、私を具体的に導いてくださった宣教師さんは、よく注意してくれました。自分でも、試行錯誤しながら、好きな説教者を遠くに訪ね、噺家の噺を聞いて「間」を身につけ、スポルジョンやロン・メルや竹森満佐一や山室軍平の著書を読んで学びました。

 教師を二度した年月も、百科事典や図書館から借り出した関連書籍を読み、教師用参考書に頼らずに、一授業40分ほどの教案を、放課後と家に帰って毎日作りました。60才を過ぎてから再び、お隣の国でも、そうして作成した教案で話しますと、他学科の何人かの学生が、『先生の授業に出ていいですか?』と言って、やって来たのです。真似ではなく、心や姿勢や品性を読んで、それで教壇にも講壇に立ちました。あの日々が懐かしいのです。

 どなたも、前座の未熟さを超えて、自分のものを作り上げるのでしょうか。でも、教師も説教者も、いきなり表舞台に立つので、どうしても独りよがりになるのです。そして助言者を持たずに、独走してしまう傾向にあるようで、社会性に欠けてしまいます。でも謙虚なら、誰からでも何からでも学べます。名人も、一日にしては成らず、一歩一歩でローマに至るのでしょう。叱責者や助言者やmentorがいましたから、大きな助けになりました。それでも、まだまだon the way の自分なのです。

 そう言えば、母教会には、説教者のための高い壇がありませんでした。聞かれるみなさんと同じ床の上に立たれて、聖書からお話をしておいででした。中学の担任の先生は、朝礼でも授業でも終礼でも、教壇から降りて挨拶をしておいででした。私は、そう言った教会で救われ、そう言った担任から教えを受けたのです。

 それが学んで、習慣化した生き方でした。イエスさまも、民衆と同じ高さに立ち、座し、眠られました。それが私の居場所でもありました。そこが僕として生きる立ち位置だと学んだからです。ただに赦された罪人に過ぎないのですから、師に倣うは当然であります。

(“いらすとや”のイラストです)

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花々に囲まれて主と春を待つ

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 去年の誕生日に、お祝いとしてシクラメンの花鉢を贈ってくださった方がおいでです。今も窓辺で、綺麗な様子で慰めていてくれます。先週の雪、その降り積もる世界と窓のガラスに隔てられたシクラメンとが、そのコントラストを見せてくれて、今も美しいのです。

 親の信仰を、子どもに強いて、その宗教活動に連れ歩いている母親と、その活動に従って、屈託のない幼児期、少年期の時間と心を、傷つけられて、社会性が育っていない、いわゆる「宗教二世」を、助けて、その縄目や束縛からの解放する働きをしてきている姉妹がおいででした。その方がお祝いにくださったのです。

 私たちを、いつも助けてくださった方でした。今は、ご主人の実家に戻られておいでで、時々メールもくださいます。この方のことが思い出されます。数年前に、安倍氏が狙撃された事件の裁判の判決が出て、ずいぶん重い刑が下されたようです。人一人の命を奪ったのですから、厳しさも当然なのでしょうか。その方も「宗教二世」で、お母さまが、献金に躍起になって、家族もご自分の人生も台無しにされた、新興宗教の被害者家族の子です。

 その姉妹が、一度、そんな境遇の青年をお連れになって、交わりに来たことがありました。私も宗教二世でしょう、母親の信仰を継いで、伝道者の道に入ったのですから。母はパートで働きながら、教会に通い、献金もしていたようです。でも家事を放棄するようなことはありませんでした。14の救いを堅持し、父に厳しく怒られて、夕食をとらせてもらえなかった時に、台所の三和土(たたき、土間)の上に跪く私に、丼飯に味噌をのせて食べさせてくれたことがありました。
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 その母の教会では、献金箱が、礼拝堂の入り口の内側の壁際に置かれてあるだけで、月定献金や集会ごとに、それを入れる籠や袋が回ってくるようなことはありませんでした。どなたが献金をしているかは、だれにも分かりませんでした。礼拝出席も厳守していましたが、強制があった様子もありませんで、いそいそと母は出席し、週日の聖研や祈り会にも出かけていました。父は一言の文句も言わなかったのです。

 私たちの教会でも、同じでした。義務の献金ではなく、自分の心で決めたように献金がなされていました。私は、どなたにも献金を促したことも、強いたこともありませんでした。それに、教会員制度も名簿もなかったのです。教会の主がご存知なら、それでいいのだと思ったていたからです。礼拝出席も強制がありませんでしたが、無秩序でもなかったのです。それが母教会の在り方でした。

 地震などで被災された方たちのために、援助を覚えた人が、その旨明記して献金されたら、確かな送金先に、会計をされる方が送金し、その報告はなされていました。ところが、献金を強いることだってあるのです。キリスト教会でも、牧師が全部自在に使って、その報告もなされない事例もあると聞いて、驚いたことがありました。

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 伝道とか証詞を義務付けることもしませんでしたが、新しい来会者はおいででしたし、友人やご家族を連れておいでだったりしていました。教会が機能するための欠けは少なかったと思っています。不満も不足も不備もありませんでした。自主にお任せし、牧師手当てが足りなければ、あの使徒パウロように、Tent makerとして働けばいいのであって、私は、それを実践しました。

 あの姉妹がお連れになった青年が、自らの命を断ってしまったと、教会堂に来られて祈っておいででした。助けられなかったと、姉妹は自らを責めいたのです。私たちは、神さまを信じていても、魂の救いを切望し、証をしても、無力さを覚えてしまうことがあります。私たちができることに限界を知るべきです。そして自分を責める必要はないのです。私たちは、そう言って彼女を支えたのです。

『なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(新改訳聖書 1コリント7章16節)』

 何故なら、私たちのできることは、わずかであって、人を救いに導くのは、聖霊のお働きです。お任せしないと、自分を責めてしまい、喜びも責任も日常も失ってしまいます。私たちの限界を知って、神さまのお働きにお委ねして、自分のできる分を誠実に果たせば良いのだと思っています。

 自分の家族や友人の救いも同じです。祈っているのですが、なかなか救いに導かれないことだってあります。ある牧師さんが、訪ねてきた青年に救いへの道を語ったのに、自死してしまい救えなかったと自らの限界を知らされたのです。職業牧師だって、そう弱さを感じることだって多くあります。限界を知るべきであって、死後にも悔い改めの時があるという聖書解釈(セカンドチャンス信仰)や、全ての人が救われるという教えに逃げ込んで、責任を取り違えてしまうこともあるのです。

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『こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(ローマ14章12〜13節)』

 聖書は、神は愛だと語っているから、その神さまが人を裁かれることなどあり得ないと信じている方がおいでです。人は、やて神の前に立って、申し開き、弁明でしょうか、そうする時があると、聖書は記しています。

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル9章27節)』
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と、死んだ後に審判があるとも言っています。神の愛と裁きは、相反して矛盾しているのでしょうか。だからヒューマニズムと、自分を責め立てて、異なった聖書解釈に、逃げ込むのでしょうか。それとも、どうすべきでしょうか。聖書をしっかり読むなら、自明のことなのです。

 80を過ぎて、もう2、3年生きられるかなと思っています。どんな結末を迎えるのか、自分には迷いがありません。「キリストのさばきの座(2コリント5章12節)」に、自分は立たされて、報酬を得られ、主なるキリストと共同相続人として、永遠を過ごせると確信しているからです。「大きな白い御座」の審判の座の前に立つことがないとも確信しています。そんな信仰を母から受け継ぎ、そう教えられ、そう聖書を読み、そう人に語らせていただいてきました。素敵な一生に感謝の朝です。

 今朝も、窓辺で、昨日たっぷり水やりを終えたシクラメンの花が綺麗です。また、誕生祝いに知人に頂いたポインセチアも、弟が家内に贈ってくれた小鉢の胡蝶蘭と長女が家内に誕生日に送ってくれた胡蝶蘭が芽を膨らませてきて開こうとしています。ベランダでは、婿殿や次男が送ってくれた花々が、春を待っています。次女夫婦が買ってくれた自分の防寒着も、もうすぐ脱ぐ時が来そうです。先日は、長男家族がたこ焼きパーティーを開いてくれました。昨日、投函してから2週間ぶりの外孫娘からのGreeting cardが届きました。もうすぐ主が来られるでしょうか?

 主に愛され、みんなに愛されて、孤独を感じることなく、今を感謝で過ごしています。

(“いらすとや”“Christia ncrip arts”のイラストです)

 

ただ恩寵によって

 

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『あなたがたは、恵みにゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。おこないによるのではありません。だれもほこることのないためです。(新改訳聖書  エペソ2章8・9節)』

 1971年の春に、私は、母が通い、高校生だった弟が、宣教師さん夫妻の必要のために、背負子を背に、冬季に必要なストーブ用の薪運びをして、薪割りをし、上の兄が献身し牧師となり、すぐ上の兄も含めてバプテスマを、兄弟4人が受けた教会で、教会の礼拝などでピアノ奉仕をして、保育士をしていた女性と結婚したのです。

 そこは、テキサスの教会から派遣された宣教師さん夫妻が開拓伝道されて始まった教会でした。引っ越して来て住み始めた街に、十字架を掲げていない教会を、その結婚相手のお母さんに、母が紹介されて集うようになっていた不思議な関係があるのです。その街の路上で、偶然出会って、この二人は、お互いがクリスチャンであることを、初見で認め合ったのだそうで、それで話が弾んで、その教会が紹介されたのです。

 出会いとは不思議なものがあります。路上でたまたま出会った双方の娘と息子とが、主の前で、誓い合って結婚したのですから、縁(えにし)の妙と言えば、とても不可思議なことに違いありません。その教会にいた何人もの姉妹たちの中から、兄が家内を紹介してくれて、司式は、その宣教師さんと兄とがしてくれたのです。

♯ 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
誘(いざな)いの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰(たれ)ぞ直(ただ)ちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し♭

 この「人生の海の嵐に」の賛美を、結婚式の中で歌うように選んだのは私でした。私の最初の職場に出入りしていて、私を教師として推薦してくださった方で、この方の教えておいでの大学の附属高校で、教師をしていた時だったのです。この方の奥さまは、家内が学んだ高校の音楽教師だったのにも驚かされていました。

 この方が、結婚式に参列してくださって、『人生が、まだ始まったばかりの二十代の半ばの彼が、人生の嵐など吹き荒れていないのにね!』と、式後のレセプションの時に、家内に、そう言ったのだそうです。実はそうではありませんでした。〈危機の中2〉とよく言われますが、ご多聞にもれず、そこを通過した私は、運動部の先輩に仕込まれて、イッパシの不良になっていて、Y本や喫煙や喧嘩やコソ泥や不正乗車などに、手を染め始めていたのです。もう嵐に巻き込まれていて、嫌なほど暗い顔をしていたことでしょう。

 それでも、酔っ払って酩酊している大人たちを見て、『あんな目の濁った小汚い大人にはならないぞ!』と言う思いはあったのです。それでもギリギリのところで、深みに堕ち切らなかったのは、母親の祈りがあって、主の忍耐と憐れみを受けた以外には考えられません。中3の終わりに、担任が、『よく立ち直しました!』と言ってくれたのです。附属校に上げてもらえて、まあまあ守られて、大学まで行かせてもらいました。

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 就職も、中高の恩師の紹介で決まり、社会人になりました。上べは、さっそうたる青年に見えたのだそうです。小さい頃からよく知っておられる近所のおばさんに、そう言われたことがあったのですが、内実は、小汚い大人の仲間入りをしてしまっていたのにでした。

 100%真性の「小汚い大人」になっていたのでしょう。熊本に出張した時、当時、北九州の大きな街で伝道されていた宣教師さん家族の帰米中の留守役を仰せつかった上の兄が、そこにいました。その兄の所に、仕事の2日ほど前に出掛けて、寄ったのです。そこで〈聖なるショック〉を受けたのです。殴られたり蹴られたりし、学生時代は麻雀狂で、酒は飲む喧嘩はするの兄が、10人ほどの高校生ばかりの教会で、何と伝道者として、嬉々とし、楚々として奉仕している姿に強烈な驚きを覚えたのです。まさに、「あの兄の変貌ぶり」にでした。そのお世話していた高校生の中から、やがて、開拓伝道に遣わされ、牧師となったり、牧師の婦人になった方たちが何人も起こされたのです。

 人間って、こんな風に変わるものなのだと、驚きを感じて、兄の家、教会堂に2日ほど滞在する間、酒もタバコもやめていたのでした。その晩、兄を誘って、寿司屋に一緒に行きました。そこで上寿司を、私が奢ったのです。そんな贅沢はできずに、倹(つつま)しく義姉と幼い甥と生活をしていた兄が、上トロ寿司を食べましたら、鼻血を出してしまったではありませんか。久しぶりのご馳走に、のぼせたのか嬉しかったのか、異変を見せたのです。それにも驚かされたのです。

 それから出張先に行ったのです。東京の本部から来た若造の私を、夜になると接待の宴を開いてくださり、芸者さんをあげて酒宴が催される、それが私の出張のお決まりで、山口や博多や新潟に行くと、どこでもそんな接待を受けるのでした。お決まりの乱行でした。恥ずかしい行状の数々、きっと表では、立場上、敬意をあらわしても、心の中では馬鹿で小生意気な若造者だと、私は呆れられていたのでしょう。恥も外聞もなくなりつつあった頃でした。

 その時の出張は、ほどほどにブレーキがかかったのでしょうか、真面目に過ごして帰京したのです。その年の暮れには、留守役を兄は終えて、東京に戻り、母教会の副牧師になったていたのです。その兄家族が、教会の牧師館に住むことになって、住んでいた家が空くことになったわけです。そこに住まないかと兄夫婦に言われて、住み始めたのです。どうも兄夫婦の謀(はかりごと)だったのです。その職場から推薦されて、都内の高校の教師に、翌春にさせていただいたばかりだった頃でした。

 教会の姉妹(自分と結婚した相手ですが、この時点ではまだそんな話になっていませんでした)の自転車を貸してもらって、家から駅近の教会に寄って、自転車を、そこに置いて電車通勤をし始めたのです。義姉に誘われて、夕食を食べるようになって、義理堅い私は、仕事のない日曜日には、感謝のつもりで、兄が牧会する教会の礼拝に、義理で出るようになっていきました。実は、母に誘われて高校生の頃から、特別集会があると時々出席していて、信仰告白をしていたのです。でも教会から遠ざかって、ふしだらに生きていた私なのにです。次第に水曜日の聖書研究会に出るようになり、何と土曜日の祈祷会にも出てしまい、深みに入り込んでいくのです。

 ある週の祈祷会中に、付き合い始めていた女性が、車で連れ出そうと訪ねて来たのです。それを断ってしまうほどに、教会に入り浸りな感じの頃でした。自分でも、本当の自分ではないような、人生上の一大変化の時期を過ごし始めていたのです。その秋に、宣教師さんの友人で、ニューヨークの聖書学校で教える四十代後半のアメリカ人が、教会にやって来て、特別集会がありました。ギリシャ人のお父さんとアラブ人のお母さんの息子で、若い頃はボクサーだった方でした。

 その特集に、出るように、兄に誘われたのです。〈聖霊のバプテスマ〉を受けるための特集でした。ちょっと気狂いじみた発言をするように見えた姉妹たちが、教会にいて、嫌だなあと思っていた私は、出たくなかったのです。その日、仕事から帰って来て、夕食には、兄の食卓に、その元ボクサーのおじさんも一緒でした。食べ終わって家に帰りたいのに、帰れないでいて、もじもじしていている内に、けっきょく集会に出る羽目になったのです。

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 その晩の集会で、兄が、私の座る後ろの席に来て、前の席に座るように招いたのです。何かが起こりそうに感じ、こわくて突っぱねて出ませんでした。二日間の集会で、次の日も同じような状況でしたが、その特集に出て、兄に誘われると、フイットと立ってしまい、前の席に座ってしまったのです。自分の意思に反して、そんな風になってしまったわけです。講壇で話を終えた、ボクシングで痛めたのでしょうか、すこし斜視のギリシャ人とアラブ人の血を引く髭のおじさんが、私の頭に手を置いて、異言で祈り始めたのです。

 天から降り注ぐのでしょうか、体の奥底から湧き上がるのか、突き上げてくるのでしょうか、経験したことのない衝動があって、口から異言が突いて出たのです。意識はしっかりしていましたので、発狂したのではなかったのです。自分の意思に反して、舌がもつれるようにして、語ったことのない異質の言葉が吹き出したのです。恍惚状態ではなかったと思います。ただワーワーと言ったのでもなく、言葉でした。ただ意味不明のノンコントロールの発言でした。

 五旬節のエルサレムで、イエスさまの弟子たちが、聖霊なる神さまの導きの祈りの中で、語り始めたと同じような経験でした。世界中からエルサレムを訪れていた人々が、自分の国の言語で、その人たちが語っているのを聞いた、その他国の言語を予想させる言葉を、私は語ったのです。パウロがしきりに、その経験を勧めた、あの言語の実体験だったのです。ただ語っていたのではなく、神を褒め称えていたのです。まさか、自分の舌と唇が、不思議な、自分では理解できない言葉を語るとは、驚きでした

 その異言を話している時、私は声を出して泣いたのです。様々な罪を悔い改め、それが赦された感謝に、心が溢れて泣いたのです。あのままだったら滅びて当然だった私が、まさに滅びる寸前、罪に汚れた小汚い闇に落ち込んでいた男の私が、すんでのところで神さまの憐れみを受けたのです。そして、十字架が、実母も実父も知らない母が、14で信仰告白をし、クリスチャンとなって救われるための十字架だけではなく、この自分の罪の赦しのためであり、救いにための十字架だと、初めて理解できたのです。そして献身の思いも湧き上がってきていました。

 あれから55年になります。本当に献身し、宣教師に従って聖書を学び、訓練の8年の後に、宣教師さんの後の責任を負って、61まで、そのl開拓教会で奉仕し、隣国に出掛けて、日本語を教えながら、教会で奉仕をさせていただきました。そんな年月を経て、今の自分が、ここにあります。あの赦された経験は、今も鮮明で、その確信は少しも揺らいでいません。滅びの淵に立っていた私が、こんな人生を歩められたのは、救い主イエスの愛と憐れみ、忍耐と赦し以外に考えられません。昨日は、今季初めての雪が降り、14cmほど積もったでしょうか、一面、真っ白な雪景色でした。この降り積もった雪よりも、真綿よりも白くされ、赦されたことを思い返して、ただに恩寵に感謝を覚えた一日だったのです。

(“いらすとや”の嵐、雪景色、“Christian clip arts”の五旬節の火です)

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もうすぐ春がくる

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 よく散歩をするコース上に、一軒の土建屋兼住宅の屋上に、ドームを載せてる家があります。残念ながら、夜間に行ったことがないので、昼間の佇まいから感じ取れるのは、天体に興味のある子どもに、親御さんが備えたのでしょうか。しばらくの間、楽しんだのでしょうけど、学校を出て、他県の学校に入学したか、就職して家を離れたかで、天体観測ドームが遊休しているように感じるのです。子育て経験ある身としての想像です。

 今でもベランダに出ては、夜空見上げるのが好きで、天空に煌めく星々を眺めると、吸い込まれそうに感じるのです。そう言えば、子どもの頃、息子たちを相手にキャッチボールの相手をしてくれた父を思い出します。家の前の道路で、思いっきり兄たちや弟と、投げ合ったのです。けっきょく、すぐ上の兄だけが、野球部に入って、甲子園を目指す野球小僧になったのですが、上の兄も弟も私も他の競技をし始めました。

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 上の兄は、高校で陸上部、進学してからはアメリカン・フットボール、をし、次兄は高校球児で甲子園を目指し、ゴルフが好きでした。弟は山登りを同級生として、富士山や奥多摩の山小屋で強力までし、大学では少林寺拳法とアイスホッケーをし、柔道も六段の段位者になっています。体育教師を母校でしましたから、スポーツ全般に通じているのでしょう。かく言う私はバスケットボールとハンドボール、大人になってテニスをしました。山歩きもし、海でも泳ぎました。.

 やはり、父がキャッチボールを一緒にしてくれたことが、根にあって、それぞれにスポーツをさせてもらったのです。日本が豊かになって行くにつれ、余暇が、スポーツだけでは芸術や文学や趣味に生きていけるように変わって行ったのでしょうか。相撲と野球は、一番陽の当たる、脚光を浴び、子どもたちを楽しませた競技だったのですが、今は多彩で、正月の箱根駅伝、サッカーやバスケット、氷上競技などに陽が当てられるようになっています。
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 とりわけ野球は、MLBで活躍する日本選手の活躍は目覚ましいものがあります。サッカーも欧州リーグで活躍する選手を輩出していて、驚かされています。メジャーではなかったスポーツが、脚光を浴びているのにも、昔日の感なしで、バレーもスケートもスキーも盛んですし、カーリングとかスケートボードという競技もあって、新しい動きに疎くて、驚かされています。今、ミラノ・コルティナで冬季オリンピックが記載されているそうです。.

 自転車競技も、競輪しか知らなかったので、する人が多くなって来て競技大会が開かれたりで、実に多種多彩なのにも驚かされてばかりです。こちらに越して来たばかりの頃に、小輪の自転車を手に入れて、輪行袋も買って、電車でよその街を訪ねて、自転車で走り回ろうとしたのですが、在栃も8年にもなって、あれよあれよと時間がたってしまい、その上、病気がちにもなって、夢のまま終わりそうな今です。

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 どうも、するスポーツから観るスポーツになってしまって、ちょっと寂しくもありますが、時々自転車をこぐのですが、そのまま遠くに行ってみようと思いますが、帰り道が心配で自重してしまっています。これまた致し方のにことなのでしょうか。あんなこと、こんなことのあったのを思い返しながら、過ごしています。

 春の気配が感じられてきました。散歩の楽しみが返ってきそうです。速歩ではなく、のんびり、キョロキョロと散見しながら、春を見つけようと思っているところです。そして、家に帰って、煎餅をかじるのもいいものでしょうか。今日は珍しく雪の予報が伝えられています。次男が来ると言ってきましたが、どれほど積もるのでしょうか。次男の足が心配になっている早朝です。

(“いらすとや”のイラストです)

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その右の手で堅く握られて

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『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41章13節)』

 この聖書のことばを、家内のお母さんが、入院する前に、カードに書き記して、手渡してくれました。1983年の8月の終わりのことでした。上の子たちが小学生、r次男が3歳だったでしょうか。生涯初めての全身麻酔の手術を、東京女子医大病院で、次兄と二台並べられた手術台で受けたのです。名前を呼ばれて、「か」が聞こえた後の記憶はありませんでした。目が覚めたのは、激痛によってでした。目を向けて見守ってをいてくれた看護士(その頃はまだ看護婦さんと呼んでいました)さんの目と合ったのです。

 入院した病室に、私を見舞ってくれた宣教師さんに、『イエスさまの十字架の痛みの何十分の一ででも味わえるのですから感謝します!』と、初めての経験への恐れがあったからでしょうか、軽口をたたいてしまったのです。その「十字架の苦痛」など、人が味わえるはずがないのにでした。そう言ったのに、その舌が乾く間もない術後、咄嗟に、「鎮痛剤」の注射を、その看護婦さんにお願いしたのです。

 耐えられない激痛でした。自分ではけっこう我慢強いと思っていましたが、根っからの弱虫だったのです。初めての大掛かりの手術は、それまで小学校の2年生の時、中耳炎で、耳の中の化膿した部位の切開を受けたのですが、あの時の痛さは、いまだに記憶に鮮明なほどだったのですが、それとは比べられないほどでした。

 「豪語」と言う言葉がありますが、伝道者として召されても、未熟な信仰者の私は、赤っ恥をかく強がりだか、信仰だかを、宣教師さんに、そう語ったことを、強く恥じたのです。主に、『ごめんなさい🙇!』と言いました。また、『自分は良いことをしたのだから、この痛さから解放してください!』と、主に交渉をしたほどだったのです。

 術後の翌日、同室の同じ手術を受けた患者さんから、『歩いた方がいいですよ。回復が早くなるから!』と言われ、歩行器を、まだ無理と思っていたでしょう、看護婦さんにお願いして、病棟の廊下を、痛みをこらえながら歩いたのです。強がりでオッチョコチョイの私は、無理をして、それをし通したのです。見舞いに来た家内や子どもたちに、いいところを見せたかったからでもあっからでしょうか。

 あのイエスさまの痛さと苦しみとは、信ずる者の贖いの代価となられて、身代わりに全て信じる者の罪の呪いを負われて、あの呪いの十字架についてくださった時のものでした。人の想像をはるかに超えた、心身両面の苦しみ、とくに愛され続けてきた御父から、【見捨てられる】、十字架の頂点で、救われる人々の罪、私たちの全ての罪を身に負われて、【罪となられた】ことの、父なる神との断絶でした。聖(きよ)いお方としては耐えられなかたに違いありません。

 十字架の贖い、罪の赦しは、この方法しかなかったのです。神の御子である方が、神であることに固執しないで、人となられて、マリアの胎に、聖霊によって宿ってくださったのです。信じる私たちが、生きる者とされるために味わって下さったのです。養父ヨセフの大工職を継いで、およそ30歳の時に、ナザレの家を出て、ヨハネからバプテスマを受け、伝道の生涯に入られ、神の国を宣べられたのです。12人の弟子たちを、ご自分の働きの後継者として選ばれ、教えられ、彼らと活動を共にした後の十字架だったのです。

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 そのことが解って、今や60年近くたちます。先々週、大学病院の手術台の上に、5時間ほど寝ていました。生まれてから心臓が動き続けていること、その神秘さに驚いていた矢先、2024年の暮れに、自分が、その心臓を病むなどと考えてもみなかったのに、心電図検査の結果、心房細動、不整脈と診断されたのです。それで、主治医に、“ Catheter Ablation (カテーテル・アブレーショ)“ をすることを勧められました。家族の勧めもあったのです。でも、不整脈は治らないままでした。2年経って、もう一度、アブレーションを主治医に勧められ、家族の思いもあって受けたわけです。

 右足の付け根から、動脈の中に、カテーテルを挿入して、心臓まで運び、零下40〜50℃の低温で病巣を焼くのだそうです。医療スタッフにお任せして、ほとんど痛みを感じないで目覚めたのです。病院では、メスを使って、患部を手術するのではないからでしょうか、「検査」と呼んでいます。その検査の2日後に退院しました。4人部屋の病室は、入れ替わり立ち替わりで、慌ただしく患者さんの出入りが激しかったのです。

 同室のお一人から談話室で声を掛けられました。明日一時退院して、10日後に再入院すると言われ、同年齢の方と話をしたのです。若い頃から病気をしてこられ、リストラにあったり、釣り好きとか、脳の疾患で、奥さまの作ってくれる食べ物の味がしないとか、娘さんがいるとか話してくれました。

 同じ時代の同じ風の中を生き抜いてきた者同士、気が合ったのでしょうか、話も合ったのです。お隣の茨城県の方だそうで、栃木と同じ訛りのある話しっぷりでした。主治医がベッドの上の私に、検査の準備をしていた時に、そっとカーテンを開けて、一時退院の挨拶をして出て行かれたのです。人懐っこい方で、病室で、わたしの履いていたスクールシューズが、カーテンの下に見えなかったとかで、面会室で、私の履いている靴を見て、隣の患者だと解って話しかけてこられたのです。『どこで買われたのですか?』と聞かれて会話が始まりました。

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 今では、病室風景も様変わりしているのでしょうか、カーテンを閉め切って、隣同士でも会話がなくなってきているのを感じたのです。痛かったりして不自由でも、自分のベッドの回りのカーテンは開け放ってあって、以前はよく、目を合わすと、仕事の話や子どもの頃の話をしたり、食事の終わったトレーを運び合ったり、助け合ったり、労わり合ったのですが。病気の種類、病棟によって、そして時代の変化もあって、部屋の雰囲気や状況も違うのです。

 入院患者が多すぎて、内臓器の疾患で、循環器科、泌尿器科、整形外科の混合病棟でしたので、看護師さんとみなさんとの話が耳に入ってきて、どうも重症そうでした。われわれ世代の年寄りの老人病棟のようだったのです。みなさん、何かひっそりと寡黙でした。

 40年前は、三十代の終わりの年齢での入院手術でしたから、働き盛りの患者さんばかりでたが、今回は老人ばかりでした。札幌の整形外科病院で、鍵盤断裂の縫合手術をした時は、みなさんが中年くらいの患者層でした。病室内でいじめられた方に、相談されたり、旭川の方は、開拓農民の子で、家や学校での体験談をいろいろと話してくれ、『夜間のカップラーメンがうまいので、どうですか!』と言って、二度ほど頂いて、二人でこっそり食べたら、本当に美味しかったのです。食堂で、ワイワイガヤガヤできたから、そんな話を聞けたのでしょう。

 今回は5日間の入院、検査で退院したのです。退院の翌々日が、掛かり付けの街医者の診察日だったのです。タクシーを呼べばいいのに、次男が置いていったヘルメットを被り、自転車でソロリソロリと出掛けてしまいました。病院からの検査結果と今後の治療の方法などの指示書を、掛かり付け医に渡したのです。投薬も必要で、処方箋で隣の薬局で薬を処方していただく必要があったからです。

 帰りに、行きつけのスーパーに寄って買い物をしました。やはり、だいぶ無理をしてしまったようです。それで、それ以降は、しずかに優等生をしています。

 昨日は、寒さと少々体力不足の家内の通院日で、代理で宇都宮の病院に私が参りました。私と同世代の漢方医とペイン医を兼ねた方 が主治医で、家内の様子を伝えたのです。毎月一回、宇都宮で持たれる、がん患者と医師と医療スタッフ、そして家族の交わりである「メディカル・カフェ」で、この方は、医療スタッフもされておいでで、良い交わりのある医師なのです。同じくクリスチャンでもあることから二重に交わりが与えられているのです。家内がとても信頼を置いているお医者さんで、私たちが頼りにしている医師なのです。

 さて、老いるとは病との併走のように感じるのですが、健康だった日々を感謝し、今の治療も回復も感謝しながらの私たちです。昨日は、息子さんのプレゼントのセッティングで、金沢旅行をされた隣家の友人が、金沢名物の「きんつば」をお土産に届けてくれました。同病の隣人、友人との交わりにも感謝しているのです。

 そして、何よりも、その右手で、手を優しく握っていてくださる神さまに、最大の感謝な朝であります。

(“いらすとや”のイラストです)

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静かに人を支えられる人に

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 まだ2月の初め、まだまだ寒波の影響が強い日本海側や北海道や東北地方は、雪害だと報じられているのに、もう歌っていいでしょうか。春の訪れを待ち望む想いは、どこにいても同じですから、小学校の音楽の時間に、先生のオルガンの音に合わせて、思いっきり歌った思い出の歌なのです。

1. 春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色うつくしく
咲いているねと、ささやきながら

2. 春の小川は、さらさら行くよ
えびやめだかや、小鮒の群れに
今日も一日ひなたでおよぎ
遊べ遊べと、ささやきながら

 どなたも、歌った覚えがおありでしょうか、今ごろに一番ふさわしい歌なのではないでしょうか。

 赤坂東宮御所に、徳仁さまが皇太子時代にお住まいだった頃のお話です。結婚されて、待ち望まれてお生まれになられた愛子さんが、4歳ほどの頃のことです。お住まいのカーテンをそっと開けて、外を見ておられました。体調が思わしくなくて、外に出られず、室の中にいた時のことでした。

 そんな愛子さまの背中を見ていたお世話係の方が、可哀想に感じたのでしょう、外に出てから帰ってきました。『春をお部屋に持ってきましたよ!』と言って、テッシュに包んだ小さな花束を愛子さまに手渡されたそうです。時間を持て余して、手もちぶさたをしている愛子さんに、庭に咲いている花、タンポポとスミレ、そしてネモフィラを摘んで届けたのです。

 わが家では、この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!』と大声で言って出掛けて行った日々がありました。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩、住宅地を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。白雪の山から吹き降ろす山おろしが、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。

 一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。それを『お母さん!』と言って手渡していたのです。

 東宮御所では、お世話をされるKさんが花を積んで、愛子さんに手渡したのです。すると愛子さんは、『わあきれい、ありがとう!』と感謝したのだそうです。このKさんは、昭和、平成、令和と、宮内庁職員として仕えてこられた方で、幼い愛子さんが安心できる存在だったのです。

 40年ほど、そうして御所の雑務に仕えてこられたのです。雨が降ると、お出かけの主人の家族にさっと傘を差し出し、庭の手入れをして過ごされてきておいででした。時が経って、その方が退職されることになりました。忠実なお仕事をされて、職員の間で尊敬を集めておられた方でした。このKさんのために退職祝いの会が開かれました。

 皇族方も集まられて会が催されたのです。その集まりに、すでに二十歳になられた愛子さんが出席されておいででした。一通の手紙をしたためて、そっと、この方に手渡されたのです。そして、その会のもたれていた部屋から出ていかれたそうです。公務が待っていたからです。

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 その手紙には、次の様な感謝の言葉が綴られていました。『長年、私たち家族を支えて来てくださったことを、決して忘れません。』、『私が外で遊べなかった日、そっと花束を手渡してくださいました。自分のために何かをしてくださる方がいると初めて、その時知りました。』、それは、この方の思いやりへの感謝でした。

『しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに、仕える者になりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新改訳聖書10章43、45節)』

 さらに、『あの時のお花の匂いは、今でも覚えています。あの花束が一番嬉しかったのです!』、家には、たくさん部屋はある中で、自分が戻っていられる空間が、この部屋、この方との交わりだったのだとも述懐しています。『Kさんのように、静かに人を支えられる人でありたいと思っています。目立たないで、人の前に出ず、ただそっと苦しみや不安の中にいる人を受け止められる人でありたいのです!』と、大人になった愛子さんは、そんなことを綴ったのです。

 この手紙に、そのご家族に仕えたKさんは、『自分の仕事が、誰かの心に残っていた、それがだけで十分すぎるほどです。』、これこそが、真の奉仕を知り、それを実行された人の「沈黙の哲学」なのです。言葉で示すことでも、行動でもなく、背中で示す生き方、仕えた姿勢だったことになります。

(知人が送信してくださった「コスミレ」、「タンポポ」です)

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如月となり次兄の癒しを祈る

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 二月、如月(きさらぎ)となりました。眼下の巴波川の流れは、まだ温むこともありませんが、ベランダの右手に見える大平山の山肌は、木々の芽が膨らみ始めているのが、遠く見られるのです。湧き上がるような様は、やがて萌え上がるのでしょう。例年、この時季に見られます。

 雨のない晴天続きですが、湧き水を水源とする、この川は、流れの川面に、陽の光をキラキラと輝かせて、漣(さざなみ)を見せています。江戸期から、明治、大正まで、ここと江戸を結んで舟運が行われ、綱手道(写真左右に見えるのは時を経た逞しい男衆が歩いた敷石です)を人力で曳いて、江戸からの荷を運び、この河岸でおろしたのだと聞きます。悠久の時の流れを思わさせられています。

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 日の光は、気温こそは低いのですが、つよさをまあいきわえていまあう。まだ明けやらぬ早朝の今は、ー5℃ほどの気温で、身が震えます。昨日撮った、トマトが、2月なのに、枝に青い実を、まだつけているのです。冬の奇跡が春に持ち越して、小さな命を繋いでいます。

 まだ自分の足で立ち、歩けているのを感謝するこの頃です。すぐ上の兄が、腰を痛めていると言ってきています。今夏、八十五になります。カレブは、この年齢で壮健であるのを告白しています。木通(あけび)採りをする、この兄の後について、山の中に分け入り、小川で魚つかみで、バシャバシャと兄を追った幼い日が、昨日のように思い出されます。次兄が腰痛から癒やされ、回復するように祈る、2月最初の日の朝です。