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作詞がジョセフ・スクリヴン、作曲がチャールズ・コンヴァース、日本語詞は杉谷代水で、「星の界(よ)」で、讃美歌の「いつくしふかき」でも歌われています。
1 月なきみ空に きらめく光
嗚呼(ああ)その星影 希望のすがた
人智(じんち)は果(はて)なし
無窮(むきゅう)の遠(おち)に
いざ其(そ)の星影 きわめも行かん
2 雲なきみ空に 横とう光
ああ洋々たる 銀河の流れ
仰ぎて眺むる 万里のあなた
いざ棹(さお)させよや
窮理(きゅうり)の船に
1 いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを 取り去りたもう
心の嘆きを つつまずのべて
などかは降ろさぬ 負える重荷を
2 いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りてあわれむ
悩み悲しみに しずめる時も
祈りにこたえて なぐさめたまわん
3 いつくしみ深き 友なるイエスは
変わらぬ愛もて みちびきたもう
世の友 我らを捨て去るときも
祈りに答えて いたわりたまわん
天空の悠久の時を告げる「星」を高らかに歌った古典的な歌詞の歌です。父にこっぴどく叱られて、家に入れてもらえず、家の向かい側の台地端の林の中で、枯れ草を集めて、その中で横になって寝たことがありました。父特愛の自分が、なぜお叱られたのか覚えていないのです。大木の陰で大空、星空を見上げた時、星が綺麗に煌めいていたのです。
内モンゴルに旅行した時、パオというテントの中で、モンゴリアンダンスを見たり、食事を頂いた時に、外に出て大空を見上げました。それは、まるで降るような星だったのです。あんなに夜空に星が数多くあるのを知らされて、驚いてしまいました。
熊本を訪ねた時、隣県福岡の星野村に泊めていただきました。天文台のある宿舎で、そこから宇宙を望遠鏡で眺めました。肉眼で見るのとは違って、その大きさに、改めて感動させられたのです。村の名が星願望を満たしてくれて、訪ねる前から期待感があふれていたのを思い出します。
夏休みに、教会学校の夏季キャンプで、清里の少年自然の家に行った時のことです。プラネタリウムが、そこにあって、子どもたちと、リクライニングの椅子に座って、星座を見たのです。冷房が効いていて気持ち良くなって、ある子は寝てしまったようです。でも、あれも神秘の世界に触れたひと時でした。
南半球だったら、と南十字星を見たくて、南米のアルゼンチンに行きました。もちろん教会の研修会に参加しての訪問でした。18の時に移住したくて、その準備をしたのですが、叶えられずに、40年後にそれが実現したのです。パンパと言う草原の街をバスで訪ねた時、そこで南十字星を探しましたが、見つけられませんでした。
シンガポールで仕事をしていた長女を訪ねた時も、みなさんに聞いても、関心のない人には見付けられないのでしょうか。観測の時期を調べなかったから、時期外れの訪問ではどうも見られなかったのです。赤道直下では、見られなくて当然だったのでしょうか。
南十字星はともかく、神秘の世界を覗き見て、驚嘆したことは事実です。「少年は夢を見る!」ですが、少年の時も、少年の心を失わないで、持っていた大人になった私は、「星を見る少年」であり続け、今もまだ星を眺めたい私なのです。こんなちっぽけな自分が目にした宇宙の、天体の広がりに、息を呑むというのでしょうか、その広大さに足のすくむ思いをしたのです。
『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19篇1~6節)』
宇宙を、これほどに簡潔に解説していることばは他にはありません。偶然存在したという説を、どう説明してもしきれません。創造主の神さまによって造られた被造のきらめく世界です。
『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(イザヤ40章26節)』
神さまは、大空の星々をお造りになって、名を呼ばれるお方なのです。神秘の世界を紐解くことのできるお方こそ、創造の神さまでいらっしゃいます。
それにしても対宇宙の中で、その一点に過ぎない「地球」が、どれほど巧みに造られているかを、科学的に究明してもしきれません。そこに生活している私たちが、この創造者の「愛顧の的」であるとも言うのですから、それこそ驚きなのです。何と呼びかけてくださると言いますと、「あなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)」と、おっしゃって慈しんでくださるのです。
『主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(箴言8章22~30節)』
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病んだ先年、自分の心臓を写した色彩映像を見せていただいたのです。それもまた、驚き見た神秘の世界でした。母の胎に宿った時から、動き続けてきた心臓を、映像で見た時胸がなるほどでした。それを主治医にコピーしてもらったのです。自分の体内で動き続けてきた心臓を、客観的に眺めて、鼓動する心臓を造り、動かし続けてくださった、神がいることが分かったのです。あの血液を送り出すポンプの動力は、どこから来るのでしょうか。
まさに、神の秘匿された世界なのでしょうか、人類が誕生してからこの方、夜空に煌めく星々も、人の内臓も、神秘そのものではないでしょうか。次男が、望遠鏡を担いでやって来て、狭いベランダに据えて、夜空にレンズを向けて、カメラで写真を撮っていたのです。都内よりは、空気が綺麗ですし、関東平野の際の山も近いのですが、奥日光や福島あたりに行かないと、星を鮮明に撮れないかも知れません。でも心臓は、この胸の中に動き続けていることほど、驚かせることは他にありません。
(“いらすとや”の星空、地球、心臓AEDです)
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